第9話 エキサイティング、レース、デイ

 ピットロードの出口で日の丸スタートフラッグが振られ、カーナンバー1番の坂本 星奈さかもと せなが、押し掛けからエンジンを始動させてコースインする。ほんの10秒ほどおいてカーナンバー2番の有田 依瑠夏あらた いるかが、さらにしばし後に3番の選手がタイムアタックへと向かう。


 静謐な早朝の山あいに、小気味よいエンジン音が鳴り響く。さぁ、いよいよレースの一日の始まりだ。


(セナ、イルカ……頑張って!)

 ベガはその光景を最終コーナーの入り口で祈りながら見つめていた。スタッフの一員として働くベガの最初の仕事は、最終コーナー入り口に待機してアタックが終わった選手を車検場に誘導する役目。つまりタイムアタックを特等席で見られるポジションと言っていい。


 助走ラップで激しくカートを蛇行させ、タイヤをこじって少しでも摩擦熱を発生させてグリップ力を上げようとする三台。やがてハナを切って星奈のカートが最終コーナーに入って来る。出来るだけアウト寄りのラインを取り、計測を開始するコントロールラインまでの直線距離を長く取って、エンジンを全開にしてホームストレートに突入していく。


 パアァァァァァァーン


 例によって体をしゃくるようにして尻を浮かせて加重を減らし、ラインを超えた瞬間に体を縮めて前方カウルの中に隠して空気抵抗を減らす。コンマ1秒の差で順位が決まるタイムアタックは、どこまで貪欲にタイムを縮められるかが何より重要だ。


 イルカが、3番の選手が次々とスタートを切る。その時点で星奈は既に最終コーナーの手前まで来ており、グリーンフラッグを握るベガの真正面を空気を切り裂いて横切っていく。そのまま姿勢をピタリと決めて最終の高速コーナーをクリアし、ホームストレートの先のラインを通過していった。


 と、ベガが身につけていたインカムにザザッ、と通信が入る。

『ハイ、じゃあ3人を車検場まで誘導して』

「了解デス!」

 ベガは打ち合わせ通りコースに入り、グリーンフラッグを掲げて3台のカートを車検場へと誘導する。惰性走行で戻って来た星奈が、イルカが、カーナンバー3番の人が彼女に手を上げて合図し、コース外の車検場に向けてカートを走らせる。

 これから3人はカートと一緒に重量を計測し、燃料やエンジンに不正が無いかをチェックされた後、タイムアタックの結果を待つのだ。


 タイムアタックは3台一組で粛々と進んでいった。初心者向けのフレッシュマンクラス(学生はほとんどこのクラス)の23台、オープンクラス(上級者)の18台。そしてトーハツと呼ばれるハイパワーエンジンを乗せた8人の選手が次々とアタックを終えて、ベガの誘導によって車検場へと集合していく。


「ベガちゃん、評判良かったよ。みんな分かりやすかった、って」

 スタッフミーティングでパドックに集まった時、社長の大谷がそう褒めてくれた。

 誘導員に一番必用なのは、「ここだよ」「こうだよ」と選手にしっかりとアピールすることだ。なので長身で金髪な上に物怖じしないボディランゲージが自然にできるベガは、まさにうってつけだったようだ。


「結果出ました、掲示板に貼ってきてください!」

 パソコンのプリンターでタイムアタックの結果を出したスタッフが、ベガ達にそれを渡して指示する。それに応じて黒木が受け取り、ベガや一年コンビと共に掲示版に向かいつつ、フレッシュマンクラスの結果を覗き込む。


「セナは……12位。イルカは15位デスカ」

 黒木が張る順位表を横目で見ながら、ベガは二人の意外な順位にちょっと不満気であった。コース脇で走りを見ていたベガの目から見ても、下位の三人は明らかに初心者で、ぶっちゃけていえば今のベガよりはマシな程度だ。他にもふたりがスピンやコースアウトをし最下位が確定しており、下から5台はタイムだけなら二人が負けているはずはない。

 なので実質は18台中の12位と15位ということになる。見た目はそんなに悪くなかったのに……?


 休憩時間に一度、美郷学園カート部の一同が集まった時、ベガはその原因の一端をコーチの黒木辰巳に説明された。

「タイムアタックってのは、後から出る方が有利だからね」


 レースのタイヤというのは、熱を持つことで溶けだして食いつきをよくする。そのさいコースのアスファルトに張り付いたタイヤカスが、後からくるマシンのグリップ力をさらに上げるらしい。だからに出た星奈やイルカは、その恩恵を受けられなかったというわけだ。

「カーナンバー1と2、つまりタイムアタックで最初に計測する立場。それがウチに対するなんだ。それもウチの伝統なんだよ」


 美郷学園カート部は単にこの阿波カートランドの近所だというだけでなく、ここでのバイトや講習の簡略化など、さまざまな恩恵を受けている立場だ。現に今日もレース終了後の一時間、彼らに自由練習が許可されている。

 なのでそういう優遇の見返りとして、レース日のタイムアタックは真っ先にコースインする、つまりカーナンバーが一番小さい1や2を引き受けることになっているのだ。


「ま、つまり本番はこれからよ。予選は2ヒートあるし、それでどこまで追い上げられるかね」

「斉藤のヤロウは7番グリッドか……奴だけには勝つ!」

 闘志を漲らせる選手二人。ま、まぁイルカのほうは若干私情が入っているみたいだけど。



 午前9時。いよいよ予選第一ヒートの開始だ。23台のマシンがスターティンググリッドにつき、日の丸が打ち振られて各人が押し掛けを開始し、飛び乗ってエンジンを点火させてコースに流れ込んでいく。


 ベガは裏ストレート入り口の4コーナーでのフラッガー(合図旗係)だ。打ち合わせ通りに黄色い旗イエローフラッグをしっかり見えるように掲げ、上下に振って「押さえて、押さえて」とアピールする。それに応えて選手たちがタイムアタックの順位通りに、走りながら整列していく。


 停止状態からヨーイドンが出来ないカートのレースは、こうして走りながら整列していき、隊列が整ったのを確認してスタートラインでレース開始の合図をする『ローリングスタート』が取られる。そのスタートの時こそがレースで最もエキサイティングな瞬間なのだ。


 順位通りのフォーメーションを二列で組んだ23台のカートマシンが、バランバランとエンジンの回転を押さえながら、アクセル全開を今か今かと待ち狙っているその様は、見る者にとってもこれからの興奮を否応なしに掻き立ててくれる。


 やがて先頭が最終コーナーを抜ける。コントロールラインでは審判長が掲げる日の丸が見えた! 


 隊列は整った。各選手が一斉にアクセルを踏み込む。

 アイドリングに近かったカートのエンジン音が、まるで蜂の巣を突っついたかのような高音のシンフォニーを会場中に響かせ、スタッフと観客の鼓膜を強烈に震わせる!

 

 ――グワワワワァァァァァ-----ン!!!――


 23台のレーシングカートが一斉に、次々とスタートラインを超えていく。と同時に右に左にすっ飛びながら、自分に有利なラインに割り込んでいく。

 スタートさえ切ってしまえばもう彼らに枷は無い、ひとつでも順位を上げるべく、わずかな隙間にハンドルを切って、他車との数センチの間隔まで接近しながら、押しくら饅頭のように密集して1コーナーへと殺到していく!


 ギャギャァァァァーーッ!


 ブレーキでロックされたタイヤが悲鳴と白煙を上げる。距離が縮むストレートエンドのコーナーで、各マシンがゴツゴツと接触する。中には少しフロントが浮き上がる車さえあったが、それがどうしたと言わんばかりに体制を立て直し、コーナーを抜け出して2コーナーへと向かって行く。


(……スゴイ!)

 ベガはその光景に、レースという物のもつエネルギーに圧倒されていた。一人で走るタイムアタックとは違う、群れを成して走るそのマシンの凄さと、各選手の己を主張して少しでも前へ、ただ前へいう意志の強さに、改めて身震いする興奮を感じていた。


 フィン! フィンフィンフィンフィンフィン……


 ベガの目の前を次々とクリアしていくカート達。

 彼女のいる4コーナーは直角に曲がる左コーナーだ。ハーフストットルでクリアするコーナーだけにエンジンやブレーキ音はやや控えめで、代わりに空気を切り裂いていく各マシンの音が、ベガの耳と肌を叩いていく。


(セナ、イルカ……行っけーッ!)


 二人ともやや順をを上げたか、トラブルもダメージも無く順調にベガの前を駆け抜けていく。折り返しのヘアピンを抜け、登りの右コーナーを折り返して最終コーナーに殺到していく。

 再びアクセル全開の咆哮がサーキットを支配する。ベガはそれを聞き、1コーナーに消えていくマシンたちを見送りながら、ぞくぞくと気持ちが高ぶっていくのを感じていた。


(コレが……レース! なんてエキサイティングなんでショウ)



ごくりと唾をのみ込んで、ベガは自分があの中にいる事を、心の底から望んでいた。


(ワタシも、早く、レースに、出たいッ!!)

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