第4話

 目の前の父は俺の手を掴み上げ立たせる。


「大丈夫か?」


 と心配して顔を覗き込む。父の顔は少し目が腫れていたが、それ以外はいつも通り。間違いなく俺の父親だった。

 父の顔を長らく見ていなかった俺は、不覚にも安心と懐かしさで、涙が溢れ出しで止まらなかった。父はそんな俺を見て驚いていた。俺は鼻血が出ていたようで、少し慌てて父は母の名を呼びリビングのドアを開ける。


(こんなボロボロのローブ着てるんだからさ、鼻血の心配じゃなくてもっと他の事に慌てなよ……あれ、ここ――)


 おかしな光景が目の前に広がる。俺は実家の廊下に佇んでいたのだ。

 ――やはりあれは夢だったのだ。

 そう思おうとした。

 しかしそれならば、夢から覚めた俺が実家にいる方がおかしい。起きたとしても、借りているマンションのお風呂場で目覚めるはずだ。――となるとこちらが夢でしかないのだろう。虚しさでいっぱいだ。

 父がティッシュ箱を持って駆けつけた。鼻にティッシュを当て、リビングへと入る。


「勢いよくトイレのドア開けたら危ないでしょ! 光もお父さんはすごい勢いでトイレのドア開けるの忘れたの? トイレの音がしたら近寄らないようにしなきゃダメじゃない!」


 母の荒げた声が部屋に響く。父はいつものように母に説教され小さくなっていた。

 父はメガネをかけ背が高く、表情をあまり変えない。家の中でのことを知らない人は、そんな父に厳格なイメージを持つようで、頑固親父みたいに映るそうだ。友だちは厳しそうだとか、すごい怒りそうだとか言われて同情されたこともあった。しかし実際では、家の中ではとにかく母親の権力が凄まじく、このようにいつも説教されては縮こまるのだ。そんな父を助けるように、俺は母さんをなだめる。


「母さん落ち着いて。俺もボーッとしちゃっててさ、父さんだけが悪いわけじゃないんだよ。だからあんま怒んないでよ。久々に3人でゆっくりしてるんだしさ」


 母は少し呆れたように目を逸らし、大きな溜め息を吐いた。

 少なくとも俺の人生で何度か父の勢いよく開けるドアにぶつけた記憶はあるが、このような出来事があったことはない。

 夢でよく過去の思い出を見る事はあるだろう。しかし、これは思い出ではないことだけは間違いなかった。

 母は俺が座っているソファーの横に腰掛ける。父も母が空いてるソファーに目配せすると床で正座していた足を解き、ソファーに座った。


「鼻血は大丈夫?他にぶつけたところはない?」


 母は心配そうに俺の顔を覗き込む。

 齢50になるのだが、相変わらずの老け知らずのような肌をしている。しかし、目の周りは泣き腫らしたようで、すごく痛々しかった。

 夫婦二人して目を腫らして何事かと、尋ねたかったが、夫婦で感動的に映画でも観た後なのかもしれない。野暮な事だと言葉を飲み込んだ。


「鼻血は、止まったよ。もう30歳間近なんだから子どもじゃないよ。立派に大人やってんだからこれくらい大丈夫だって」

「まぁ、そういうことにしましょ。帰ってきて本当によかったわ。ちょっと見た目が変わっててびっくりしちゃったけど」

「見た目そんな変わったっけ? あんま、実感ないや」


 そう言う俺に母はくすくす笑う。

 母は父を見遣みやり立ち上がって、父のいるソファーの方へ座りなおす。


「母さんは相変わらず時が止まったように肌が綺麗だよね。まぁ母さんが毎晩美容に気を遣ってるの知ってるから納得はいくんだけど」

「綺麗なままでしょ? でもこれはお父さんのお陰よ」


 とまたくすくすと笑う。

 父は何のことか覚えがないようで首を傾げていた。母は父に抱きつきもたれかかる。


「女はね、綺麗だねって言われ続けて綺麗になるものよ。お父さんは朝起きてから寝るまで毎日毎日、最低でも5回は飽きもせずに私に綺麗だねって言うのだから、嫌でも綺麗になっちゃうのよ」

「実際に綺麗だからついつい言ってしまうんだ。イズナ母さんの計算が正しかったら結婚して30年、毎日5回となると五万回くらいは言ってることになるな。もはやそこまで行くと呪いをかけてるのかもしれん」


 昔から夫婦仲は本当によかった。息子の俺は何を見せられているのやらと、両手を上げ肩をすくめながら首を振る。

 母のおふざけの表情から急に真剣な表情をして俺を見る。


「人間である限りは支え合って生きていくものなの。だからあなたもピンチのときは周りの人に助けを求めなさい。知らない人でもいいから。でも周りで困っている人がいたら、あなたも助けなさい。私がお父さんに助けられたようにね」


 急にリビングで寛ぎながら言う話じゃない話題に背筋を伸ばす俺。


「思ったより短い時間だったのね、また来てくれるとお母さん嬉しいから。今度はゆっくりして行って」

「急に何の話してんの? そ、そうだ! 俺親孝行したくてさ、次の給料入ったら二人に何か贈り物したいんだけど、何がいいかな?」


(――何を言ってるんだ俺は。これは夢なんだからそんなこと聞いたって無駄なんだよ。それでも俺の夢の中だけでいいから、親孝行して喜ぶ二人を見たいんだ)


 父は、静かに口を開く。


「光。お前の親孝行は、お前が産まれて、お父さんがお前を抱いた瞬間に終わったんだ。母さんと結婚して夫婦やって、夫から父へと変わったあの日を、俺は一生忘れない」


 父の言葉は震えていた。今にも泣き出しそうなその声に、俺も自然と涙を流していた。


「お前の親孝行は今のところその延長線でしかないんだ。世界が違っても、健やかに生きてるお前がいるんだってだけで、本当に立派な親孝行なんだぞ」

「その言葉は嬉しいけどさ、一般的な普通の親孝行がしたいんだってば!」

「一般とか普通とかは知らん。お父さんとお母さんが一番満足する親孝行しろ。普通だかの金で解決する方法はお父さんは好かん。とことん相手のことだけを想ったことをしろ」


 父の顔はグシャグシャで、鼻水やら涙やら垂れ流しで言い放つ。その表情に笑いが込み上げる。――俺は父の無様な顔を見ながら笑顔で涙と鼻水を垂れ流した。


「半信半疑だったが、母さん本当に光は生きているよ。あの夢の中に出た魔女は約束を違えなかったんだ。――女の子になっているけど」


 その言葉で、俺は母さん言っていた、見た目が変わったの意味を理解する。

 ――俺はヒカリの体のままであったのだ。


「出産直前まで女の子って言われてたから、お父さんと女の子服ばっか買っちゃってたのよね。でも……本当に女の子になっちゃうなんてね。お母さんの教えとお父さんの想いをしっかり受け取って生き抜くのよ」


 父と母に抱きしめられながら、――俺は"現実"に引き戻された。


――


 俺は泉の中心に浮かんでいた。

 意識を取り戻した際に力が入ってしまったせいか、泉に沈む。慌てるも泉は普通に足のつく肩までの水位になっていた。

 どこからが夢なのかわからないが、身体の激痛は一切ない。自分のステータスを見るとHPとSPは完全に回復していた。

 一度死んで復活した際に全回復したのか、或いはこの泉に治癒の効果があるのか、どちらにせよ判断は出来ない。

 今の所持品では泉の水を持ち出すのも不可能だ。今度、容器を手に入れたら戻ってこよう。痛みのない身体を動かし、泳いで岸へ上がった。

 鞄から慣れた手つきで"時計ミラージュブレイク"を取り出し、残りの時間を確認する。

 ――55時間。

 最初の84時間の時間から逆算し、今は午前五時。

 曇天どんてんで朝日を隠してしまっているため朝を確認するのは難しそうだ。

 ローブは濡れることがなく、泉から上がったというのに水滴が地面に落ちることもない。如何に自分が不気味な存在になっているのだと再認識させられた。

 ――行く宛もない。

 このまま森を彷徨うにしては、緑の巨人が1体だけとも限らない。またモグラのような魔物がそこら辺に居れば、また危険が及ぶ。

 これからどうするべきか、考えあぐねていた。

 途方に暮れているのを見かねたのか八本脚の馬が、泉から少し離れたところで俺を呼ぶように大きな鳴き声を上げる。あの馬は結局敵意がないのかわからずに身構えていると、もう一度大きな雄叫おたけびを上げた。二度、三度と。


「もう、わかったよ! こっちに来いってことなんだろ!……行ってやるよ」


 意を決した俺は走って馬の元へ向かう。あいつはなんだかんだ、今のところ俺に直接的な危害を加えていない。

 泉に沈められた気がしたが、先ほどその泉の深さは溺れる深さではなかった。

 それにどういうわけか身体も完治しているのだ。もしかしたらあの馬は、助けようとしてくれたのだろうか。

 ――そう思うことにした。そう思った方が、仲間のように思えて気が楽になる。

 馬の元へ駆け付けると、馬はゆっくりと俺のローブを咥え、背中に乗せた。くらも付いていない馬の背中は初めて乗るため、比較できないのだが想像していたより硬かった。

 馬は俺が背にまたがったのを確認したようでゆっくりと歩き始める。

 泉のある場所は標高が高い位置にある。歩き出した道は、山をくだっていく。

 鞍もなければ手綱もない乗馬は、かなり不安定で落馬しそうに何度もなっていた。馬に確認はしなかったが、首を抱きしめるような形でしがみ付き、振り落とされないように必死だ。

 しかしそこで、ひとつ大きな問題が起きた。

 馬が一歩、一歩と足を踏み出すたび、股間に衝撃が来る。それがとてつもなく痛い。

 普通に歩いている程度だとまだ我慢は出来るほどなのだが、ちょっとした段差を降りる際は、正直、拷問だ。何かをした訳ではないが、今なら何でも白状する。

 馬の頭で前が見えないのだが、まだきっと長く続くだろう。この痛みをどれだけ我慢すればいいのか。

 ――ぴょん。どすん。

 馬はきっと軽い気持ちで、大きな水溜りを越えたのだろう。俺はとうとうその衝撃で限界だと悟った。


「ちょっ、タイムタイム! 待って待って」


 馬の首を、掌で軽く叩きながら止まるように懇願する。馬にすぐ伝わったようで立ち止まってくれた。

 あえなく俺の股は撃沈したわけだが、男のままだったらきっと、袋にしまった大切な玉を潰していたかもしれない。

 女だったからそれはないとしても、この股への衝撃は男だと想像も出来ないダイレクトな衝撃。脛を蹴られた時の骨への痛みなわけで――どの道耐えられない。

 俺はふと映画やゲーム、アニメで鞍の付いていない乗馬シーンを思い出す。

 ――そんなシーンは浮かばなかった。唯一浮かんだのは自転車の二人乗りのシーンだ。後ろに座る女性は、大抵そういうとき横座りをしている。

 俺も試したことはあったが、正直バランスが取れないため危険だと除外していた。しかしあのとき股は負担がなく、お尻への負担もマジだった記憶がある。


(とりあえず、試してみて危なかったり痛かったりしたら、また馬に止まってもらおう。この馬は賢い、またきっと配慮してくれる)


 座りなおすのを、馬はじっと待ってくれていた。横座りに変え、とりあえず歩いてもらう。首をペチペチと叩く。それを合図に再び馬は歩き始めた。

 意思疎通が出来ると、段々とこの馬がいとおしく思える。

 ――1時間ほどであろうか。

 随分と長く歩いていたが痛みはほとんどない。またバランスの心配もしていたが、驚くほど安定して、落ち着いて座り続けれた。

 さすがに馬が疲れてきたようで、足取りが重くなる。


(歩きっぱなしだし、休憩しないと流石にきついか……)


 馬の首を軽く叩き、少し開けた配置の方角を指刺す。馬と心が通いそちらへ歩き始める。到着したところで、俺は首から飛び降りた。するとすぐに馬も倒れ込んだ。

 心配した俺は、慌てて駆け寄った。

 馬は、目を閉じ動かない。俺は労わるように首筋を撫でてやる。瀕死だったのか、死んでしまうのではないかと気が気じゃない。

 しかしそんな心配を他所に、馬は突然いびきをかきはじめた。――心配した馬は寝ていたのだ。


「もう心配したんだからな…。とりあえずゆっくり休んで」


 昨晩俺が無防備に泉の中で意識を失っていたのを、一睡もせず見守ってくれていたのだろうか。

 今度は俺がこの馬を守らないと、そう意気込んでいた。周囲を警戒したまま、馬が満足するまで首筋を撫で続ける。

 馬が寝ている間、自分の着用してるものを確認していた。ローブは魔物の攻撃で破れはしたものの、水は吸うことはない。けれども泥汚れは弾かずに土で汚れていた。

 下着であるインナーは泥汚れなど全て弾き、また破れるどころか肉体にプリントアウトされているように掴むことすら出来ない。――脱ぐことは出来なさそうだ。

 しかし、サンダルは脱ぐことが出来る。それに汚れもついたままだ。しかしとても頑丈なのか、あれだけ山道を歩いても、底を減るようなことはなく壊れる気配もない。

 この現実と大きく乖離かいりしてる現象が、イマイチ自分に生まれ変わっただの、違う世界にいるだの実感を湧かせてくれない。

 今のままではゲーム世界のキャラクターになった、という不気味さしかないわけだ。

 しかし、その逆もある。

 ゲームのように倒した魔物の死骸はキッチリと残る。自分だけが、ゲームの世界のアバターのまま、干渉されない存在のようになっていた。

 ただ、自分の魔法は自分に干渉出来ていた。"火の球"を詠唱した時に出来た手の火傷。今は完治しているが、間違いなく火傷の痕が残っていた。何か法則があるはずだ。

 鼾をかいて寝ている馬が起きるのを待っていたが、その間、他の魔物に襲撃されることもなかった。この世界に来て、最も心休まる時間だ。

 恐らく、この馬はこの森のヒエラルキーでも頂点に君臨する存在なのだろう。迂闊うかつに危害を加えようとする魔物がいないのだ。

 更にはよだれまで垂らして寝ていた。


「本当に、気持ち良さそうに寝てやがる。俺に気を許しすぎだろ」


 しかし、馬は急に目が覚め起き上がった。なにやら落ち着きのない。乱暴に俺を咥え背に乗せ、これまでより少し速いペースで歩き始めた。

 その後すぐ、雲に覆われた空に突如として〈天使の梯子はしご〉が掛かる。

 ――神秘的な光景だった。

 しかし、馬の様子から察するにただならぬことが起きているのだと思える。馬はその〈天使の梯子〉から照らされる場所へと向かって速歩はやあしで向かうのだった。

 大地を照らす光はどんどんと広がる。雲を裂くように空を光が覆っていく。

 その光に俺たちは飲まれた。

 馬は動揺しない。光の中、視界が奪われていても、見えているようにひたすらと歩き続けた。

 雲を全て消し去り、完全に拡散すると次第に視界がクリアになる。

 ――既に森の出口へと着いていた。

 馬は立ち止まり、背中に乗っている俺をちらりと見る。

 どうやらここが目的地だったようだ。降りて馬の顔を撫でてやると嬉しそうに目を細める。


「お前も一緒に行かないか?」


そういうと馬は落ち着いた様子で歯を見せ首を振る。行かないということだろうな。

 少しがっかりするも、あの馬にも帰る場所があるのだ。精一杯、馬にも伝わるような感謝をした。

 俺が森の出口の方へ歩き出すと、馬は大きな雄叫びを上げる。それは、お見送りのようで、「またな」と言っている気がした。

 そして空中を闊歩し、森の奥へ帰っていく馬。それを俺は、見えなくなるまで大きく手を振る。


「ありがとう。結局名前もわからないけど――また会おうな」


 森の出口は、天然の木で出来たアーチのトンネルだった。高さや幅は2mほどしかないが今の俺の背であれば大きすぎるほどだ。

 長いトンネルを抜けると、そこはこれまで何度も目にした馴染みのある、しかしどこか余所余所しい、〈ロードオブレジェンド〉の始まりの街――『希望の街ホープタウン』だった。

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