第3話
――工学部建築学科に用意されたキャンパスライフは、漫画やアニメで描かれる華やかなそれに程遠く、勉強漬けの1週間が、いつまでも続いていた。
違う学部にいる友だちは、午前中の講義が終われば早々に帰宅したり、あるいは午後からしか出席していなかったりするものだから、自然と疎遠になっていく。
俺は孤独だった。
だが、大学は狭い。
前期の期末試験に備え、図書館で勉強をしていた俺は、高校時代に通っていた予備校で知り合った友だちの姿を見つけた。彼は、他の多くの友だちと一緒に図書館を訪れていたのだが、俺を見つけると、にこやかに手を振りながら歩いてきた。
「久々だね。俺のこと、覚えてる?」
文系の彼とは、授業が被ることは少なかったのだが、休憩室でよく話を交わしたものだった。いつも粗忽者のように振る舞っていた彼は、相変わらず冗談めかした調子で、俺に話しかけてきてくれた。
「俺の方こそ、忘れられたと思っていたよ」
「最近、どうだい」
「講義とレポートに追い回される毎日だ。君の方は、大学生活を満喫しているね」
図書館の各階には、セミナーの他、サークル活動にも使えるラウンジルームがあって、彼の友だちは、ぞろぞろとそこに入っていくのだった。そのうちの一人が、彼に早く来いと手招きする。
「まあ、時間はあるからな。でも、今は急いでるから、手短に言うぜ。
今週サービス開始の、オンラインゲームがある。大学入った時に買わされたパソコンがあるだろ。あのスペックで遊べるから、一緒にやらないか」
「また、唐突だね」
いわゆるテレビゲームなんて、やったことがなかった。
「どうして、わざわざ俺を誘うんだ?」
彼は一瞬振り返って、友人たちに向かって、少し待ってくれと言った。
「……彼らは、大学生活を順調に送るための潤滑油さ。一方で、剽軽者の俺は、彼らにとっても、一時を楽しく過ごすための道具でしかない。
だが、君とは互いに、気が置けない仲だと思っている。ゲームって、プライベートだぜ。わかってくれるかい、友よ」
芝居がかった彼の言葉は、しかしながら本心を表しているようだった。耳の縁が少し、赤くなっていた。俺は、彼の言葉選びを繰り返してやった。
「いいだろう、友よ。ただし、試験が終わったらね」
――
ブラック学部とはいえ、夏休みは他の学生と変わらず、長く、そして暇なものだ。
俺たちは、大学から少し離れたネットカフェに来ていた。
「キャラクリは重要だ。最低限、そこだけは最高設定のグラでやるべきだ」
彼がそう言うからだった。手持ちのPCでベンチマークテストをしたが、せいぜい中程度のスコアしか出なかった。
ネットカフェには、オープンスペースといって、横に並んで会話してもいいブースがあった。更にその隣には、ダーツやビリヤードの台も併設されていた。安っぽい電子音とネオンライトの光が、非日常感を存分に演出するおかげで、実に楽しい気分になれるのだった。
だから、というわけでもないが、俺のキャラクリは難航していた。
「凝るねぇ。そろそろ1時間だぜ」
「えっ?」
時計を見た。彼の言う通りだった。キャラクリは、時間感覚を狂わせる。
「待たせてしまってるのは申し訳ないけどさ、なんか、こう、しっくり来なくて」
格闘家的な男キャラを作りたいのだが、なんというか、ボディビルダーみたいに、必要以上にマッチョな感じになってしまうのだ。
「どうせなら、女に切り替えていけ」
「ええ? なんだか恥ずかしいよ。男が女を使うなんて、変じゃないか」
「中の人の性別がキャラクターと逆なんて、珍しくないぜ」
「そんなものかい」
――ものの10分ほどで出来上がった女性キャラクターは、自分にピタッと当てはまるような気がした。
「ほう。このゲームのキャラクリでそんな美人も作れるとは、知らなかった。てか、高身長巨乳派だったんだな」
「……そうみたいだ」
どちらかといえば、俺は困惑していた。
「いや、ちょい待ち。お前には才能がありそうだ。どうせなら、ネカマやってみようぜ。可愛いフリフリな女の子にしてさ、キャピキャピするんだよ。こっちはとりあえず、サーバーに保存しておいて」
彼は、半ば奪うようにして、俺のマウスを操作した。速すぎて、どこをどうしたのか全く分からない。
「俺は君と違って、交際経験すらないんだぞ」
「男と付き合ったことはあるだろう」
「それは友だちの話だろ。誤解を招く言い方はやめてくれ。
女の子を演じられるわけがないって言ってるんだ」
「男だからこそ、男ウケするやり方が分かってるはずだ」
「そうかもしれないが……手伝ってくれよ」
「いいとも。まず、髪はパツキン一択」
「背は低い方がいいよね。痩せ型で」
「バストは大きさより形だ。調整すべきパラメータは多いな」
あーでもないこーでもないと笑い、ふざけつつ、更に1時間ほどかけて出来たのが、俺が〈ロード・オブ・レジェンド〉で長年愛用することになる、『ヒカリ』だった。
「これは、いけるね」
彼は太鼓判を押した。同感だった。
――キャラメイクがやっと終わったと思えば、次に〈戦闘適性選択〉というメニューが出てきた。なんだか説明が長ったらしいので、彼に要約を求めた。
「いきなり多いよ」
「最初はそう思うかもしれないが、単純さ。要するに」
『堅』は体力と防御力に優れ、敵の攻撃を集めるタンクの役割。
『武』と『魔』はアタッカーとして対になっていて、拳や武器で肉弾戦を行うか、魔法を使って遠距離攻撃を行うかの差。とりあえず、その2つのどちらかがないとまともなダメージが出せないために、必須の選択項目らしい。
『影』はトリッキーで、耐久力が低くなる代わりに、とにかく素早く移動できる。通常は回避できない攻撃も、躱せるようになる。
『幻』と『癒』。タイプは違うが、サポーターという点で共通している。自己の強化、敵の弱体化、囮を撒くといったスキルを扱う『幻』と、回復技を多く持つ『癒』。
「で、つまり、どれが強いんだ?」
「強いビルドもあるが、この先調整が入るだろうから、気にしなくていい。とりあえず、初心者は”堅”の適性は外しとけ。ファーストアタックを取る役目だし、ダンジョンの進行とか、慣れるまで大変だ」
「分かった。近接は難しそうだから、遠距離から攻撃したい。 『魔』だ。
それから、『幻』と『癒』は、セットにするといいんだっけ……」
パーティメンバーに強化を付与するスキルは、『幻』だけ持っていても使えないらしい。消去法で、『魔』『幻』『癒』の遠距離サポート型になった。まあ、ストレートなビルドだと思った。
「……あー。それね。すっごいお前らしいわ」
そうだろうか。
彼の意地悪そうな笑みの意味がよく解らないまま、俺は決定ボタンを押した。
――表示された職業は"賢者"だった。
「賢者? 俺、そんな賢くないし、大それた人間じゃないよ。学力だって、文系の君に理系科目すら負けてるんだけど」
「大したことない頭なのは間違いないけど、馬鹿ではないとも断言する。
たとえばだ。休憩室で俺と初めて話した時を覚えてるか?
お前、物理を文系に訊いてるアホって馬鹿にされてた――」
「――それで、君も自信満々で教えてくれたのに、答えが合わなかった」
「恥ずかしいとこまで覚えてんな」
「俺は、君がミスってるところを見つけて、正解を導けた」
「都合の良いところを覚えてやがる」
「あのお陰で、俺は1/2を掛け忘れることがなくなった。感謝してる」
「実を言うと、俺もだ。先生のところに行くのが、いつだって正しいわけじゃない。自力でやるのが、身につける近道だってこと、お前は直感で知ってたのさ……
まぁ、このゲームの賢者は器用貧乏って言われてるけどな。サービス開始一週目にして、既に不人気職だよ」
「なんだ、そりゃ」
賢者の特性は、複合魔法。
火・水・土・風の四属性が、攻防に関わる基本の属性として実装されているこのゲームだが、賢者はそれらを複合させて、特殊な魔法が撃てる。
「強そうじゃん」
水+風で氷魔法。更に氷+風で雷魔法といった具合に、段階を踏む必要がある。
「面倒だろ?」
現状、複合属性が弱点として設定されている敵はごく少数。耐性を持つものも同様に少ないために、万能といえば万能なのだが、同じ魔法戦闘職なら、四属性の強力な魔法が使える”魔道士”の方が、遥かに便利とされていた。
「パーティメンバー的には、サポーターがつくのはありがたいけどな」
「俺向けだと思うよ」
仲間たちを、少し遠巻きに眺めているような。
「よし。じゃ、始めよう」
――そこが、ピークだったような気もする。夏季休暇の間こそ遊び倒した〈ロード・オブ・レジェンド〉だが、それが過ぎると、土日のどちらかしか予定が合わなくなり、ソロプレイの時間も多くなった。
それでも、賢者ヒカリを続けている間は、なんとなく、彼が傍にいるような気になれた。シャルさんに会い、大型ギルド〈アーク〉に所属することになった後も、彼がログインした時は、必ず彼と遊んでいた。
「ヒカル、挫けるんじゃねーぞ。
卒業しても、またこうやってちゃんと顔合わせて愚痴り合うんだ」
最後に交わした言葉を思い出す。
大学を卒業して、彼は証券会社へ、俺は設計事務所に勤め始めた。互いに仕事があまりにも忙しく、またもや疎遠になってしまっていた。
――――
――自分が意識を取り戻したことに気付くのにさえ、時間がかかった。
土の壁にかかった松明の仄暗い火が、首と左足首に付けられた枷を照らしていた。狭い部屋の中には何もなく、正面に、木の板を貼り合わせただけの扉があった。
牢獄だった。
あれだけの雨の中、地面を転げ回ったにもかかわらず、身体に汚れは一切なく、ローブだけが真っ当にボロ切れになっていた。まだ自分の体と向き合う勇気のない俺にとってはありがたいことに、インナー装備、つまり下着は、皮膚に印刷されたように一体化しているために、綺麗に残っていた。
よかった。ヒカリは無事だ。
落ち着いて見てみると、足枷のサイズは全く合っておらず、簡単に抜け出せた。しかし、首を締めつけているバンドは、素材自体が頑丈なようで、緩めるとか、引きちぎるとかいったことは、できそうもなかった。鍵穴があるのだが、南京錠のようなシンプルな構造だ。何かを溝に入れて回転させれば、開けることが出来ると推測した。
鍵開けには多少の算段があった。氷属性の魔法で、鍵の形をした氷を成形するのだ。ただ、実際にやるとなると、詠唱に手間取ってしまった。"フリーズ"と言えば氷塊が降るし、"氷"ならば製氷皿で作るような四角いものが出来上がる。"氷柱"は近いのではないかと思ったが、ナイフのような大きさのものが出てきてしまい、鍵穴に入れることもできなかった。器用貧乏たる所以である。
色々と試しているうちに、頭に猛烈な痛みが走り、また視界が朧になり始めてしまった。何かの状態異常かと、ステータスを確認する。
HP:2/50 SP:3/100
瀕死だった。外傷がないから、気付かなかった。解錠より、回復が先決だったのだ。だが、もはや十分なSPが残っていない。
激しくなる一方の頭痛が、俺の意識を再び奪った。
目を開けると薄暗い洞窟の中にいた。
記憶が
少しずつ思考が鮮明になってきたところで、何故か俺は鍵開けの魔法の使い方を、それも鮮明に"思い出せていた"。
しかしその記憶は、自分のもののようで自分ではない。そんな不思議な感覚を不気味に思いながらも、いつもするような慣れた手つきで、右手を首枷の鍵穴に被せて詠唱する。
「〈
頭の中で鍵穴の構造が浮かび上がり、あたかも鍵を差し込んだように右手を捻り、カチャンと音を立て、首枷が籠の中に落ちる。
「こんな簡単なことも変な魔法でやろうとして、バカじゃないの」
誰かに言ったつもりはなかったが、口が勝手に独り言を言っていた。
――目覚めてから意識を失うたびに、ひとつひとつ自分の中で何かが変わっていく。
一度目の木の洞では右半身が回復し、二度目の今では魔法の使い方を覚えていた。
自分でも何がなんだかわからないのだが、その不気味な感覚を悪くないものだと思え、受け入れていた。
鳥籠の扉の鍵も簡単に開き、いざ身体を起こして出ようと立ちあがろうとしたときに右腹部に激痛が走る。込み上げて来た何かを口から嘔吐した。それは赤黒くよく見えないが、体がそれを吐血だと知らせる。
ゆっくりとローブを
自分が、本当に生き物として存在しているのか。これは悪い夢なのだ、と言い聞かせたくなる。間違いなく血を吐いているのだから、自分は人間で生きてる証拠だと。しかしその吐血したらしきものは薄暗いこの場所では明確にわからない。アンドロイドのような機械になっていて、今吐いたものはオイルかもしれない。
(俺は……俺の身体は本当に人間のものなんだろうか)
混乱するも、腹部に走る激痛が、生きている人間だと感じさせてくれた。
その激痛に耐えながらも、近くに投げ捨ててあった自分の鞄を左手で拾い上げ、右肩に掛ける。そして壁に頼りに歩き出した。
建て付けの悪い木の扉を、ゆっくりと少しだけ開け外を覗き込む。その先には、同様の暗さの洞窟が続いており、どこまで続いているのか見ることができなかった。洞窟はあの緑の巨人が通っているため、高さはかなりある。
(よくもこんな高さの洞窟を掘ったもんだ)
松明のがないと道すら見失いそうだ。閉じ込められていた部屋の松明を持っていこうと考えたのだが、明らかに高い位置に置いてある。3mほどの高さだろうか、流石にあの松明を取るのは無理だ。
鞄が打ち捨てられた場所に同様に捨てられていた、折れて長さ30cmほどになった杖にローブの切れ端をくくり付け、火をつける。
焚き火を付ける際には"ファイア"と詠唱していたのだが、それが不自然なものだと今では"理解"出来る。
右手を燃やす部分にかざし「炎よ、照らせ」詠唱すると、想像通り、手頃な大きさで安定した炎が点火された。
杖の件は残念だが、こうして折れた後、最後の最後まで俺を助けてくれているような気がして心強く、勇気づけてくれていた。腹部に走る激痛に耐えながらも、ゆっくりと一歩一歩前へと進み出口を目指す。
いつの間にか、表示されなくなったプレイヤーリストという項目を思い出していた。いつ無くなってしまったのかわからない。1回目に気絶したときなのか、2回目に気絶したときなのか。
そのときに表示された4人も、もしかしたら同様に魔物に襲われているのかもしれない。その4人に会う前に自分が力尽きてしまうこともあれば、他の人が力尽きてしまうかもしれない。
――もし、HPが0になったらどうなってしまうのだろうか。
緑の巨人は俺を完全に殺さずにわざわざ檻に入れて監禁したのは何故か、何一つすぐに解決しないであろう疑問が、頭の中で無限に増殖をしていく。
幸いにも、洞窟内で今のところ他の魔物と出会うこともなければ、緑の巨人とも出会うことなく。外の光が入ってくる洞窟の入り口付近まで来ることができた。
てっきり、この洞窟は緑の巨人の巣なのかと思っていた。しかし、緑の巨人のモノを食べた後もなければ、排泄されたものもなかった。そのようなものがないとなると、此処は巣ではないのだろう。
――もしかするとあそこは寝床なだけなのかもしれないが。
少なくとも俺はあの奥で監禁されていたわけだが、寝床で監禁となると不気味な想像をしてしまい、背筋が凍りつく。
ただこの身体はそのような行為には対応していない"造り"にはなっているので、実際には襲われることはないのだろうが。
(でも結局それって……俺自身だけじゃなくて、他の生物からも人間ではないと――いや、考えるのはやめよう……)
洞窟の入り口から外を見る。
降りしきる雨に真っ暗な空。時刻を推し量ることは難しいであろう空模様だった。
あれからどれくらい経ったのだろうか。鞄の中にあるミラージュブレイクを取り出し、使用期限を確認する。もはや、ここまで来ると薬型の時計なんじゃないかと鼻で笑っていた。
結局のところ"コレ"は俺にとっての時限爆弾なのだ。
ただ今はそれ以上の事を考えるのはやめておくことにした。
――使用期限は残り63時間。
かなり長時間意識を失っていたようでSPは93/100と回復しきっていた。
それにしても、緑の巨人はあそこに監禁した後かなりの時間放置していたことになる。殴り飛ばされたとき以外の傷は負っておらず、やはり本当に"そういう目的"のために監禁していた可能性が浮上してきたわけだが。
もうひとつの可能性としては"食糧"としての監禁だった。生きたまま食べるということであれば生かしたまま監禁するというのは納得がいく。
また、殺したあと血抜きしてから保管など方法や知恵がなければ、生かしておくというのも自然だろう。
しかし、疑問点もある。緑の巨人は洞窟に掛けられていたような松明という"火"を使うという知恵が存在しているため、知能が低いと言うのは考えにくい。
まぁ血抜きは知識があっても、技術がないと出来ないものであるのは間違いない。かくいう俺も、血抜きという単語は知ってるが、実際に何をするのか具体的には知らない。なんとなく木にぶら下げてるくらいのイメージだ。
――つまり、食べるまで生かされていたという可能性があるわけだ。
歩くたびに脚にまとわりつく裂かれたローブを裾で結ぶ。それにより、膝までの長さであった丈は、太ももまでたくしあげることになった。
ミニスカートの丈になると風が股を通る感覚がある。これが俗に漫画やアニメで言われているようなすぅすぅするといった感覚なのだろうか。
(ひゃあー。女の子はこんな感覚で生きているのか。慣れるまでソワソワしちまうな、これは)
そんな事を考えると少しだけ緊張が解け、気持ちが楽になった。
入り口まで一本道だっため、特に迷わずに来れた。
――そこで気がつくべきだったのだ。今しがた目の前に現れた緑の巨人の帰還は、絶望的な背水の陣だと言うことに。
来た道に逃げてしまえば、細い洞窟の行き止まりがあるだけ。退路は目の前にしかない。緑の巨人は動揺することなく、ただ逃げられないように、ずっしりと入り口から動くことなく待ち構えている。
半端な魔法は、通用しないことを前回の戦闘で学習した。小手先だけの魔法では、どうすることも出来ないだろう。
とにかくこの巨人と戦うこと自体が分が悪いのだ。
ただ幸いなことに、奴は戦略などの知能は少し低いと思われる。この状況で、少しずつ距離を詰められていたら、完全に逃げるチャンスがなくなっていたのにそれをしていない事が、その証左だ。
勝機があるとするのならば、弱点を突くこと。つまり、相手の戦略的思考部分となるわけだ。
両者一歩も動くことなく対峙する。緑の巨人の持つチグハグな知能に戸惑いはあった。もしかしたら、わざと弱い戦術をとることで油断を誘っているのかもしれない。しかし、それであっても先手を取るのは、こちらでなければならなかった。
膠着した状況を崩す。〈
狙いをつけて飛ぶ方向は、火の粉を払った左手側の下部分だ。緑の巨人はすごい勢いで飛んでいく俺を、慌てて手で止めようとするも間に合わない。入り口封鎖を無事に打破し、土砂降りの雨の中へと飛び出した。
上手く着地が出来ず地面に転がる。何とか死なずに済んだようで生きてはいた。激痛に思考を遮られながも、なんとか意識を保ち、洞窟から追いかけてくる巨人を視界に捉えてタイミングをはかっていた。
――そのタイミングは間も無くだ。
「これで落ちろ!〈
巨人の踏み込んだ位置に、大きく深い穴を掘る。大雨はその穴めがけて大きな濁流を生み、巨人諸共飲み込んだ。
巨人は
腰まで沈み込んだところで、自分の過ちに気がついた巨人は下半身を動かす事なく這う。十分に離れていたつもりだったが、奴の腕が徐々に俺へと迫っていた。
「う、嘘だろ……。こっちに来るな!」
地面に膝をついていた俺を捕まえようと、手をゆっくりとこちらへと伸ばす。激痛で身体が動かせない。それでも必死に引き下がる俺のローブを奴の手が捕まえた。力強いその巨人の腕力になす術なく、ゆっくりと引き摺られる。
(もう本当にこれで終わるのか……あれで沈めれなかったのは想定外だった。上手くやれたつもりだったんだがな)
――そのとき、雷鳴のような鳴き声が響き渡る。
威風堂々と、闊歩し現れた鳴き声の主。その風貌は巨大な黒い馬であった。
2本の前脚が俺のローブ掴んでいる手を勢いよく踏み付ける。緑の巨人のけたたましい呻き声は雷雨により掻き消された。勢いよく振られる手。その反動で俺は奴から解放された。
命乞いだろうか、巨人は馬へ必死に懇願していた。しかし、それは明らかに意思の疎通だった。馬は時折り頷いている。
巨人は馬から見逃された。それ以上攻撃するような仕草はせず、頭を使って追い払っているような動作をする。
そして、そのまま俺の方へと歩き寄る。一歩足を踏み出す毎に、二つの足音を鳴らす。その足音にどこか聴き覚えがあった。巨大な体躯に気を取られていたが、その身体には脚が"二本ずつ"あったのだ。
俺を口で咥え、馬の首へと器用に乗せられた。そこで気がついたのだ。あの泉で追ってきたのがこの馬だということに。複数いると思っていた足音はこのすべての脚が"二本ずつ"生えた8本脚の足音だったわけだ。
(俺を助けてくれたのだろうか? それとも泉に石を投げ入れたことにご立腹で、説教されるのか、懲罰されるのだろうか)
ここまで俺はよく頑張った、と思う。
全く戦闘経験もない平凡な人が戦えたのだ。モグラの魔物、その上あの緑の巨人ともそこそこ戦えていたはず。そんな気がしたが実際そんなことはなかった。
緑の巨人とは逃亡戦だったが、1回目はものの見事に負けた。あれは雨さえ降らなかったら泥濘みに足を取られることもなかった。
――けど実際の戦闘なんて、もしなんてない。
もし雨が降らなかったら。もしあのときに魔法の知識が頭に入っていたら。万全の状態で戦えていたら。
いくらでも浮かぶ"もしも"の言い訳。
実際、万全で負けていたら、きっとまた新しい"もしも"を並べて、言い訳を無様にもするのだろう。――俺はそんなやつだ。
今この馬の首をへし折れたら逃げれるのだろうか、思考が物騒になりつつある。殺戮者に片足を突っ込みつつあるのだと実感させられた。
ただ馬は首にかけた俺が落ちないよう運ぶ。時折り立ち止まり、頭を使ってズレた俺を元の位置まで戻す。やはりこの馬は優しいのだ。
馬は俺を乗せ、しばらく歩いたのち立ち止まった。首に垂れかかったまま俺は眼を開きどこにいるかを確認する。
――そこは石を投げ入れたあの泉だった。
馬は
馬は泉の中心まで着くと、咥えていた口を緩め俺を泉に落とした。馬はやはり根に持っていたのだろうか。
泉の中では土砂降りだった雨音も止む。
――静かな水中に沈む俺。
窒息すると思い浮上しようとするも、瀕死で身体が碌に動かない。動かそうとした激痛で大量の酸素が体外へ漏れた。そして水面が遠退いていく。
(今度こそ、もう終わりか――もう身体が痛くて動かないんだから仕方ないじゃん。溺死って苦しくて死に顔は見れたものじゃないって聞いたことあるけど。
――ああ、彼は元気にしてるだろうか、死ぬ前に会いたかった。けどこの容姿じゃ会いに行ってもギクシャクしてしまいそうだね。
父さんや母さんに少しは親孝行しておけばよかったや。大学卒業して以降、仕事が忙しいのを言い訳に連絡も取っていなかった。
初任給で贈り物をしようと思ってた。でも思ったよりない給料に愕然として、生活を整えてたら残らなかった。余裕ができた時にでもとか思ってたのに、結局、何も恩返ししてない。
――こんな最低な息子でごめんなさい)
思い耽りながら、最期を迎えようとしていた俺の頭に両親と親友の顔が思い浮かぶと、途端にどこからか力が込み上げてくる。
死にたくない、どんな容姿だろうと生きて、また再会するんだ。――再会したいんだ。
猛烈な激痛が走り意識が飛びかける。踏ん張り、体中から湧き出る吐血を口の外に逃しながら、必死に、死に物狂いで水面を目指す。口から吐き出した血で視界が滲む。
塞がれても上へ上へと生命を繋ぎ止めるために、無様にももがき続ける。
――生きるために。
激痛が俺を泉の底に引き摺り込もうとしてくる。生にしがみ付く俺を、楽にしてあげると甘美な誘惑で亡き者にしようとしてくる。そんな誘惑に呑まれないように、必死に水面を目指し誰かの助けを、――救いを求めた。
必死に死を逃れたい一心で、伸ばし続けた左手が水面に届く。意識が薄れゆく中で、水上へと突き出した手が何かに触れる。それはゴツゴツして硬く、しかしどこか懐かしい逞しさを感じさせた。
その何かは俺の手が当たったことに気がついたようで俺の手を握り、掴み上げてくれる。
助かったと安堵した。しかしそれと同時に、身体が限界を迎えた。
意識朦朧の中、手を掴み上げてくれた人にお礼を言うため顔を上げると、その手を握ってくれていたのは、――父だった。
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