第2話
「う、うーん。地震……? あれ……ここどこ?」
目が覚めると、そこはゲームで先程まで居た温泉とは、どこか雰囲気が違っていた。
(あれ、温泉の形が違うし……でもあそこに見える脱衣所があるってことは、同じなのかな)
ゲーム内の温泉は小ぢんまりとした丸い温泉だったのだが、目の前の温泉は、ひょうたん型の縦長の温泉だ。脱衣所がなければ、違う場所に飛ばされたのだろうと勘違いしそうなほどに面影のない地形に変形していた。
地震はてっきり現実の地震だと思っていたが、もしかすると、この地形変動で起きた揺れだったのだろうか。
サービス終了時刻を確実に過ぎているであろう時間だ。にも関わらずログアウト処理が行われていない。相変わらずVRゴーグルはゲームの世界を映し続けていた。
(とりあえずログアウトしないと……いつまでもログインしてると運営にも迷惑掛かっちゃうだろうし)
ログアウトの事を考えていた。そのときメニューウィンドウが、目の前に突如として現れる。しかし、そのメニューの右側が、物理的に見えなくなっていた。そのため表示されているのは、ステータスとお知らせ、あとは文字化けした何かしかない。
(VRゴーグル壊れてんのか? 高かったのに……。これじゃあログアウトがこの端末からじゃ無理だな)
少し落ち込みながらも、VRゴーグルの装着している頭に手を伸ばす。
何故か動かない右腕を無視して、左手で外そうとする。が左手は何も掴むことは出来ず、ただ前髪を掴むだけだった。
――おかしい。
人間は、あたかも当たり前だと思っているものが間違っていると指摘されたとき、思考はパニックになり、急速に停滞していき、そして思考することを放棄する。
何度も何度も頭に装着しているVRゴーグルを外そうと前髪や頭を掴みながらこれじゃないこれじゃないと繰り返し続る。
(これは、夢……かな? そうだよな流石にもうサービスも終了してるしサーバーに残ってるわけないって)
脳の思考が停止した人間の、"夢か夢じゃないか"の判断をする方法はひとつ。
震える左手で左頬を摘むが、指が思うように動かない。想定していた量よりかなり多めに、頬肉を摘んで勢いよくつねる。
「いっっっっっっっ……たくねぇぇ?!」
痛みは全くなく、一度だけならず二度、三度とつねるもやはり痛みはなかった。そこで、停滞していた思考は徐々に回転していき、頬を軽く叩いたり、膝を叩いたり、湯浴みからはみ出している体部分を叩き痛みがないことを確認する。
ホッと胸を撫で下ろす。と自分の胸の膨らみに手が触れる。右目の視界が見えないながらも視線を自分の体に向けると、そこには紛れもなく男のロマンと希望と夢の詰まった脂肪の塊があった。
俺はそのロマンの塊に左手をしっかり被せ、指を曲げクレーンゲームのアームのように優しく希望の塊を掴む。
(こ、これが女性の……胸!)
――なるほど。
痛覚神経がないためその夢の塊を掴んだ感触は無であった。俺は脂肪の塊から左手を離す。そして、肩を落として脱衣所へ向かった。
脱衣所は自分一人分の衣服と装飾が何もついていない杖がぽつりと置いてある。それはまるで、他に仲間がおらず、この世界には自分しかいないような感覚に陥り、すごく心細くなった。
置いてある服はそれまで着ていた服ではなくゲームの〈ロード・オブ・レジェンド〉を始めた際に貰える、初期防具と全く同じ見た目のローブだった。
ローブに着替えるために湯浴みを脱ぐと、インナー装備が張り付いているかのように着用しており、脱げるようにはなっていなかった。それがゲームであるという安心感を生み、どこか今の現状を一歩引いて見られる余裕を生み出した。
ただゲームと違い、アイテムストレージがないため、湯浴着はそのまま物体として残る。それを手持ちで持って動くのも大変だ。その為、脱衣所に畳んで置いておくことにした。
メニューを開くと、お知らせのアイコンがポップアップしていることに気がつく。件名は「第二のよい人生を」と。それには、ゲームの時同様に、運営からのプレゼントアイテムが添付されていた。
(第二の人生ってなんだよ……まだ死んでないのに縁起悪いなぁ)
と1人で軽いツッコミを虚しく入れる。中身を開くと、"
夢の中なのに何故ここまで自分は妄想をしているのか少し不思議に思っていた。
なにしろ俺はそこまで仕事に追われてないし、趣味も充実して毎日を惰性に頼りながらも、満喫していたのだから。現実逃避するにはあまりにも早すぎる。
自分の妄想に少し違和感を感じながらその添付されたアイテム説明には
『本来の魂の姿を取り戻す。使用されなかった場合、期日の日に自動的に使用されます。最後のアバターでの時間をお楽しみください。消費期限は84時間』
と記されていた。今はおそらく0時だろう。3日後の12時間後が指定されていた。
俺はプレゼントボックスからアイテムを受け取るを選択すると、目の前に試験管に入った"それ"が実体化し、左手が無意識にそれを掴んだ。
しかし俺はそれを使用することを躊躇し、着替えた際に一緒に置いてあった鞄にそれをしまい、使う気はなかった。
(確かに俺は、本当は男だ。だけど、ネカマであることに慣れすぎて、ネット世界だと男じゃいられる気がしない。最後のときまで俺は、この大好きなアバターのヒカリでありたい)
それは自分のネカマの正当性を語るような詭弁だった。
他にメニューの変わったところを確認すると、ゲームの時では邪魔と言うほど大きく表示されていた、自分のステータスはなくなっており、攻撃力などの基礎的な情報がなくなっている代わりにHPと呼ばれる自身の生命力と、SPと呼ばれるスキルや魔法を使うために消費する精神力だけが表示されていた。
HP 50/50
SP 100/100
これが一体どれだけのステータスか見当も付かない。ただ、ゲーム頃だとレベル1にしても、低すぎるステータスだ。
またステータスもないだけでなく、自分が使える魔法などのリストもないため、何使えるかすらわからない状態だった。
試しに、ゲームのレベル1で覚える攻撃魔法〈
ただしSPは1しか消費しておらず、ただこれを100回は打てるのだが、使ったところで魔物相手に傷もつかないし無駄だろうな、と少し落ち込みため息を吐く。
また、フレンドリストもない。
それ以外の、文字化けしたものかと思っていたが、それはどこか規則性があり、もしかするとそれは、別の国の言語かもしれない。
それを選択してみると、どうやらそれはプレイヤーリストのようだった。
そこには全く馴染みのない、知らない名前が4人表示されていた。
ウロボロス、ミナーヴァ、ヒスイ、アキネ
――洋名と和名が2人ずつ
それを確認すると、自分だけしかいないわけではない安心感がこみ上げる。その人たちに会うという目標が、俺を奮い立たせてくれた。
視界が半分塞がっている中、山道を慎重に降りていく。その山道はゲームでこの温泉に訪れる際には明らかに、なかったものだ。
先ほどの揺れは、やはりこの世界が地形変動する際に起きたものだろう。
しばらく温泉の下流を道なりに進んでいくと、大きな泉に辿り着く。泉の大きさはおおよそ市民プールの大きさほどだが、水深はやや深そうな印象を受けた。表面はかなり澄んでいるように見えるが、中央付近は濁っていて何も見えない。
試しに地面に転がっていた掌に収まるサイズの石を試しに泉の中央付近に投げ込んでみる。
――それは本当に何気ない行動だった。
泉の水が大きく跳ね波紋が広がり、波紋が収まる。その時、
「ヒヒィィィン!」
大きな鳴き声が轟き渡った。こちらに向かい馬の足音がドンドンと近くなる。複数頭いるのだろうか、走る足音は間違いなく1頭だけのものではない。俺は慌てて走りその場から離れた。
(なにかを怒らせてしまった? 追いつかれたら殺されるかもしれない!)
俺は無我夢中で、山道を転がるように駆けていく。
月明かりが頼りの中、右目の視力が一切ないことも相まって、視界がかなり悪い。そのせいで、自分が今どんな道を走ってるのかすらわからない。
山道は、時には緩やかに、時には急な傾斜に、駆ける足が追いつかなくなり、転がり落ちてしまった。
下りの山道を一度転げ落ちてしまうと、止まることは至難で、勢いのまま麓まで転がる勢いだった。
不幸中の幸いだろうか。穴に落ち、麓までは転がらずに済んだ。後ろから響いていた足音に耳を傾け、静かに足音が通り過ぎるの、息を潜めて待った。
(見つからずに通り過ぎてくれ……!)
後ろから迫り来る恐怖は、穴など気にも止めず、穴を通り過ぎる。次第に足音は小さくなり、やがて聞こえなくなった。
――危機は無事に去ったようだ。
自分の思考を冷静に落ち着け、俺は周りを見渡した。とにかく暗い。どうやらここは、かなり小さな洞窟のようだ。
出入りできる場所は、落ちてきた穴だけで、幅も狭い。月明かりはその穴から中を照らす事はなかった。しかし、ここは身を潜めるのにちょうど良さそうだ。
(た、助かった……? しかし、一体なんだったんだ? 音を立てたせいで、気付れたんだろうな。今後は、軽率な事はやめておこう……)
立ち上がって、穴の深さを確認する。伏せていたから高く見えた出口の穴は、高さ1mほどのところにあり、浅い。しかし、今の俺の体は150cm。よじ登って出るのには、少々骨が折れそうだ。
左手には、脱衣所に置いてあった杖を持っていたのだが、穴に落ちた拍子で、半分に折れてしまっていた。折れた半分を手に持ち、〈ファイア〉と唱えると、ちょうど良い大きさの炎が、杖を燃やす。松明代わりにはなりそうだ。
松明の明かりを頼りに穴の中を見渡し、安全確認を始めた。松明は思ったより周りを照らしてはくれない。視界をほんの少しだけ、確保したに過ぎなかった。
足元には大量の木屑があった。何とか見えたその木屑は乾燥しており、焚き火が出来そうだ。それを1箇所に集めて火を付けると、しっかりとした焚き火になった。焚き火の灯りが外に漏れるか心配で、穴から顔を出して周りを警戒する。
落ちた穴の位置は傾斜のある場所で、外には少ししか漏れていないようだ。
暗いながらも焚き火の炎の動きを見ていると心が落ち着き、またも眠気に襲われた。
(夢の中で寝たら、どうなるんだろうな。またこの夢の続きを……)
夢の中とは言え、ゲーム好きとしては、やっぱこういう夢は心躍る。
――また続きを見てみたいと、そう願いながら眠りに落ちた。
寒さで目が覚める。
消えかけの焚き火の、最後の灯火が目の前で静かに息を引き取った。
慌てて魔法で火をつけようとするも、先ほどまで火を灯していた焚き木は全て燃え尽き、灰となっていた。他に燃えるものをと、探そうと周りを見渡す。
その時に、自分の身体がしっかりと回復している事に気が付いた。右腕は、しっかりと不自由なく動く。右目も視覚を取り戻していた。
自身の回復を喜び周りを見渡すと、暗闇のように濃かった夜は、
右眼が回復したことで、ログアウト出来るかも、そう思ってメニューを表示させるも、本来ログアウトがある位置は跡形もなく消えていた。
(まぁ夢の中だから、何となく察してはいたけどね。とりあえず明るくなった外を見ておかないとな)
穴から外の景色を眺めた。どうやら今いる場所は、標高が高い。遠くに見える山々が同じ高さに見えた。
その山の端から昇る朝日が少女の顔を鮮明に照らす。朝の鳥の健やかな鳴き声が、清々しく山々から響いてくる。
(座った姿勢のまま寝てたからなぁ。右腕もしっかり治ったみたいだしよかった)
大きく伸ばした両腕を小さな体に納め、洞窟から外へ乗り出す。
自分が入っていた洞窟というのは、木の
これだけ大きく、そして長い木の根なら、相当大きな木であるはずなのだが、
足場の悪い大樹の根から降り、地面に足をつけた。そしてそのまま、木の根の先端に向けて歩き出す。
大樹の根元に行けば行くほど、この森に取り込まれそうな気がして、逃げたかった。
とにもかくにも、先ほどの馬の魔物と鉢合わせになることは避けたい。注意深く、周囲を警戒しながら歩く。
そんな時、茂みの方から微かに音がした。慌てながらも心を鎮める。注意深く、ゆっくりとその茂みへ近寄り、恐る恐る確認した。
――そこには体長30cmほどの大きなモグラのような生き物がいた。
近寄る際に、踏みつけてしまった落ち葉の音に反応して、顔をこちらに向けている。モグラにしては大きすぎるサイズに、少し
「い、いや、こっちは何かしようとか思ってないからお構いなく……」
ゆっくり後退りながら、なるべく刺激を与えない様に、その場を去ろうとした。
「キーキー」という大きな鳴き声を発しながら、全速力で飛び込んでくる。慌てながら折れた杖を構え、魔物の攻撃に備えた。
魔物の鋭い牙に尻込んでしまったが、渾身の力で杖を振る。運良く魔物の頭部に直撃し、弾き飛ばした。
「キキー」と短く鳴き声をあげ、地面に転がる魔物。しかし、すぐに体勢を整えより警戒を強めた。
どうやら今の攻撃で、余計に相手を怒らせてしまったようだ。
「これで逃げ出してくれたら良かったんだけどな……。動物虐待してるみたいで嫌なんだけど……」
どうやら逃がしてくれないようで、さらに噛みつこうと攻撃を仕掛けてくる。俺は腹を括り、相手を殺すと決心した。左手を開き魔物に向けて魔法を詠唱する。
「これでも食らえ! 〈
拳大の火が、左の掌から魔物目掛けて飛び出す。しかし速度が遅く、ひらりと避けられてしまった。魔物は体勢を整え、脚を目掛けて噛み付いてくる。が右手に持った折れた杖を力強く振り下ろし、再び魔物の頭に直撃させる。
手応えは十分にあったが、致命傷までにはいかなかった。地面に叩きつけられた魔物は、またもや受け身をとり体勢を整え、攻撃の手を緩めない。
しかしこちらは、反撃に大振りをしてしまったため体勢を崩してしまっている。もう一度攻撃を捌くのは無理だと判断し、突進をかわすためにその崩れた体勢のまま身を
寸でのところで
(うわっ! 完全に避けたと思ったのに掠めたのか。もうここは防御力皆無だから、気を付けないと)
ローブの上からであれば、多少のことなら大丈夫だろうと踏んでいた。しかし、ここまで鋭利な牙であれば、逆に脚に食いつかれずに済んだことを、幸いだと思わなければ。
しかしこちらも、無様に攻撃を躱していては
もう一度〈
2発を連続で撃とうとすると口が回らなく、2発目が発動せずに間合いを詰められ手を噛みつかれそうになった。
ギリギリで手を引っ込めれたが、ローブの袖口を噛み裂かれてしまう。その拍子にバランスを崩し尻もちをついてしまった。その隙を見逃してくれることなく魔物は追撃するため畳み掛けてくる。
(やばい! このままじゃ……いや諦めんな! 何が何でも生き残るんだ!)
杖で
咄嗟にその石を掴み、思いっきり魔物に目掛けて投げつける。一心に、ただ少しでも怯んでくれれば、と思っていると予想外なことに石は魔物に直撃して思いっきりひっくり返って怯んだ。
それまで散々、魔法を身軽に回避して襲ってきた魔物の、予想外の反応に石を投げて当てた本人も驚いた。
(さっきまで魔法を避けられていたけど、強く投げた石は避けようとして当たっていた……。もしかして、この速度の魔法が撃てたら、当てれるのかもしれない……!)
怯んでいるうちに、すぐに立ち上がり俺は左手に力を込めて"魔法を投げつけた"。
「〈
先ほどまでの"火の玉"と比べ、明らかに速いスピードだ。
火球は見事に直撃し、魔物は大きく弾き飛び、地面に転がった。また起き上がって襲ってくる恐怖から、俺は続けて〈火の玉〉を唱えて追い討ちをかける。2発、3発と。
もう魔物は、動く気配はない。
近寄ってしっかりと死んでいるのを確認し、安堵の一息をついた。
「やったー……倒せた。マジで疲れた……」
その場に崩れ落ちるように座り、大きな深呼吸を繰り返す。段々と興奮状態が解け、今し方殺した、魔物の死骸に目を向けた。
その死に姿は、昔、脳裏に焼き付いてしまって離れなくなった、道端で死んでいた切なく物悲しい猫を彷彿とさせる。あろう事か、俺は先ほどまで自分の生命を脅かしていたその魔物に、同情していた。
――それは、豊かで、命が
安全で、平和な生活からの、
火の魔法を使って攻撃したが、案外アニメや漫画のように燃え上がらずに、直撃した部分の毛が黒く焦げる程度。しかし、その体毛の下にある皮膚は、黒ずみ
間違いなくこの攻撃の跡は、この生き物の生命を奪った跡だと痛感した。少し時間が経つも、ゲームのように消滅しないその死骸を眺めていると、余計に、生命を奪った罪悪感が芽生えた。
こうしなきゃ死んでいたのは自分だったかもしれない、追い払うつもりで殺す気はなかった、と本心かわからない言い訳を繰り返して、湧き上がってくる罪悪感を必死に抑えた。
無意識にその死骸を愛おしそうに、そして申し訳なさそうに頭を撫で、虚空を見つめる瞳を閉じた。
簡易的に穴を掘り、その死骸を埋め、そしてその魔物に投げつけた石を墓標代わりに置き、お墓を作った。
「とりあえず、形だけでも。ごめんな……」
残酷極まりないことしてるな、という自覚があったものの、お墓を作ったという行為が自分を慰め、罪悪感を薄める。
さて、初の魔物討伐ということでレベルは上がったのかと思ったが、そもそも表示されるステータスには、レベルという表示はなく、ただ無機質にHP47、SP82という数値が表示されているだけ。
――ふと俺は、この魔物を殺して何を得たのか。
ゲームで魔物を討伐するのは得るものがあるからだ。それはお金であったり、素材であったり、そして経験値というものであったり、とても"都合がいい"ものだ。
しかし、今俺が得たものは、戦闘の実体験。目に見える何かは、得られていない。
ゲームは、その"都合のいい"もののお陰で、罪悪感というものを全く感じない。
殺戮に明け暮れていても、何一つ、心を痛める事なく遊べているのだから、案外ちゃんとしているものだと感心した。
「…………チャララチャッチャチャー」
周りに誰かいるわけでもないが、誰にも聞こえないように、小さく、小さく、声を殺して、小さな頃にやった馴染みのあるゲームのレベルアップ音を真似る。
その声は、心をキュッと締め付ける。ゲーム感覚に逃避した俺に、それ以上の痛みを与えない様に、良心を麻痺させてくれた。
墓標の前から立ち上がり、再びまた樹の根が伸びる方角へと歩き出す。
――"魔法"について、少し考えていた。
同じ詠唱の『ファイアーボール』だったが、一つは自動的に飛んでいく玉。
そして、もう一つは
二つは同じはずだが全く違う性質をしていた。少なくとも、後者は間違いなく"投げた球"だ。左手は少しだけだが、掴んでいたという感触はあった。左手を広げて掌を見つめる。
掌には少し黄色く変色した皮膚が
――もう一つの問題は、回復魔法が使えないという事だ。
ゲームで使っていた〈
つまり減ったHPを回復する方法が現状ない――
魔物に出くわすことなく森を突き進む。危険といえば急傾斜くらいなものだ。初期装備がサンダルのため山道を思うように歩けない。樹の根が地面に潜り込み大地を隆起させて凹凸の激しい山道にしていた。苦労の絶えないハイキングだ。
やっとのことで、小さな丘を滑り降り平地へ到達したころには、息が上がって疲労が溜まっていた。夢の中なのに疲れるのは不思議に思ったが、それよりも、ゲームの世界のような夢を見れて楽しかった。しかし、そんな楽しみは最初のうちだけだ。半日も経たずに俺はそれを苦痛に感じ始めていた。
早く目覚めて仕事の準備とかしないと――そう思うくらいには、もう現実世界の事が頭に浮かんでいる。途中で意識がなくなっていたこともあり、実際どれくらいの時間が経っているのかわからなかった。
ここ2時間から3時間ほどの意識はあるわけだが、その時間が正確に進んでいるとすると、現在は3時。あと3時間ほどで目覚めて、と思っていたところにあのアイテムの存在を思い出す。
最初見た時は84時間という使用期限があったあれが時計代わりになるはず。ミラージュブレイクを取り出し、目を凝らす。
薄らとアイテム概要が表示される。使用期限は――76時間となっていた。
一気に血の気が引いていく。概算で0時から8時間という時間が進み、今現在、朝の8時。
完全に仕事に遅れる時間だ。
パニックになり、両手で頬を叩きながら自分の目覚めを叫びながら切望する。
「やばいってやばいって! もう8時過ぎてるって! お願いだから起きろ、起きてくれ!」
両手で叩く頬から伝わる痛みなどお構いなしに続けるも、一向にこの夢から出られる気配がなく、発狂し叫びながら近くの木に頭を打ち付けようと手を置いた瞬間、違和感に気づき硬直する。
(顔叩き過ぎて痛い、痛いんだよ……? 痛過ぎて忘れかけていた。痛くなかったから夢だと認識していたのに、この痛みが本物であるなら……それってつまり夢じゃなく、現実ってこと、だよな?
俺はまだそこまで現実逃避してしまうほど社会や人生に疲れちゃあいなかったはずだ。――どうなってるんだ)
パニックで同じ思考を何度も繰り返していると、不意に視界が暗くなる。
天候が悪くなったのかと思い、空を見上げようと手をついていた木から振り返えると、そこには大きな巨人がいた。
緑色の肌をしたゴブリンと呼ばれる、ゲームでもたびたび登場する弱い架空の生物にとても近い容姿だ。しかし、ゴブリンとは大きく異なり、その巨人は体長4mほどある。頭部の毛むくじゃらの醜くさが、より不気味に見えた。
ゲーム時代にはそのような魔物はおらず、名前もわからない。緑の巨人の右手には、木を踏み倒して作ったであろう丸太が握られ、それを武器にしているようだ。
巨人は右腕を大きく振りかぶる。その様子に、命の危機を感じ、すぐに俺は逃げ出した。
愚かにも叫んでしまったことで、魔物たちに自分のいる場所を知らせてしまっていたのだろう。
本当に大馬鹿者だと自身を責めるも、今はそれどころではない。
緑の巨人は動きそのものは遅い。しかし、その1歩の歩幅はかなり大きく、少しでも気を抜けばすぐに追いつかれてしまうだろう。
さらに状況が悪くさせたのは、ここは平地で木々が少ない。またここに至るまでに、疲労を蓄積させてしまっている。
来た道は急斜面を登る事になる。そちらに逃げる事はまず不可能だろう。かといえどアレと真っ向から戦って勝てる気もしない。
奴に一矢報いるとすれば、魔法だ。その"魔法"になら何度かチャンスはあるはずだ。
覚悟を決め、左手に力を込め右脚を軸に華麗な180度ターンを決める。遠心力も込めた渾身の魔法を詠唱した。
「おらぁぁぁぁ! 〈
華奢な体の少女の豪快な掛け声と共に、決死の一撃を撃ち込む。
――しかし、巨人に拳大の火というのは、もはやただの火の粉程度なのだろうか。胸部に直撃した箇所を手で軽く払われ、すぐにまた追いかけて来る。
慌てた俺は、再び回れ右をし、平地の端に見える木々が生い茂る場所を目指して走り出す。
(あの程度の魔法では、やっぱり歯が立たないのか……もっと強い魔法があれば)
とにもかくにも、逃げ切ればいいのだからと気持ちを切り替える。
木々まではまだ遠く、体力が限界を迎えつつある。
しかしそんな中、形勢を変え得る豪雨が降り出す。僅か数秒も当たればローブをびしょ濡れにするのは造作もなく、足元をすぐに
必死に逃げ切ろうとする俺へ、天は悪戯をした。
――思いっきり踏み込んだ泥に、サンダルを呑まれ足をとられてしまった。
後ろからは、ドスンドスンと緑の巨人が迫る。
力を振り絞り、俺は折れた杖を地面に突き立て立ち上がり、杖を握る右手に力を込め、切り札の魔法を詠唱する。
「もうお願いだから消えてくれよ! 〈
――その魔法に込めた想像はかつて落された『核兵器』と呼ばれる災厄。
しかし、実際に発動した魔法は、小規模な爆発しか起きなかった。
最初の森で出るような魔物だ。これくらいあれば撃退は出来るであろうと、高を括っていた。爆発によって起きた爆煙が消えるのを待つ。多少なり自分に脅威を感じたのであれば、少なくとも逃げ出してくれるはずだ。
しかし、その油断を突かれた。一瞬で何が起きたかわからないまま、俺は吹き飛ばされ――空中を舞い、地面へ落下した。
――倒せていなかったのだ。
奴は煙が晴れるタイミングを待ち、油断していた俺に横振りを食らわせ、杖を砕き、諸共空へと飛ばしたのだった。
何が起きたかのか理解したときには、激痛で意識が
(結局のところ、ただの一般人じゃ夢のように異世界とか行けたところで、実力がなければこうやって死ぬだけなんだ。
――死んだら、元の世界で目覚めるのかな。ベッドで、いや風呂に入ったまま寝てしまってたんだったな……もう何もかもどうでもいいや。
死の瞬間はこれほどまでに簡単に来るもんだったんだから――)
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