□51 混沌の夏にささやかな決別を




 暑い夏の日が終わり、また日が昇って、更に暑い夏が続いていた。


 ぼーっとしていると何も変わっていないように見えてしまうが、そんなこともない。

 いつだって変わらないように反響していた蝉の音ですら、少し前とは違う。呪詛のように聞こえていた声は――やっぱり呪いにしか聞こえない。脳じゃなくて直接鼓膜を破壊してきそうだ。


 家から出るのさえあの日以来で、舗装されていない道を歩いていくのはかなりキツい。


 もはや回数を数えるのが馬鹿らしくなるほど、昔通った道だ。迷子にならないよう、結んだ目印は当時のまま残っていて、歩く道を決めるのは容易かった。

 急ぐこともなく、ゆっくりと歩を進めていけば、山はより一層と茂みの濃さを増していく。秘密基地よりも、あの日よりもさらに奥へ。ここまでの頼りになっていた目印も途中でなくなった。

 初めて中に入った人なら必ず迷う、と言い切れるほど似たものばかりの植生の木々が景色を作っている。

 

 まるで自分が過去の世界に迷い込んだような感覚にもなり、高揚感につられた足はどんどん速くなる。


(ここだ)

 

 想定していたより早く辿り着いた目的地。特別な何かがあるわけじゃない。


 周りの風景と変わらずに、生い茂る木々に囲まれ、陽は遮られている。喧騒の跡なんて欠片ほどもなく自然が同化している。普通の人がこの場所に立っても、そこに特別な感情を抱く人はいないかもしれない。


 それは――6年前に由香さんが発見された場所だった。

 

(夢の中とはずいぶん違うな)


 何でもない空間の中、ちょうど自分の足元付近だけ草木があまり伸びていなかった。靴から伝わってくる地面の感触がやけに乾いている。


 傍の木に、不釣り合いな白い花束が2つ、ポツンと置かれていた。

 置いた人間は簡単に想像がついた。


 その場にかがみ込む。

 持ってきた3本の菊。その内1本を花々の隣に置いて、目を閉じて手を合わせる。


 ……よし。一呼吸おいてから目を開けて立ち上がる。

 静かに開いた両の掌では、汗の溜まる生命線が薄く煌めいている。思考を回すために顔へと近づけ――手を止めた。

 

 両手を少しだけ上に。

 前髪を抑えて、木々の隙間に天を仰ぐ。

 名前の知らない鳥が、雲1つない空を横切った。



――――――

――――



「うん。ありがとう良治さん。また今度」


 そろそろ夏休みの終わる、うだる暑さの夏の日。

 芸術祭準備期間中で一部登校している奴はいるのだろうが、ほとんどの学生にとっては未だ束の間の非日常を謳歌しているところだろう。

 何を隠そう、僕もその一人だ。戻ってくる日常があるのか分からないが。


 連続殺人の犯人と数少ない友達を止めたあの日から、もう1ヶ月近くが経った。

 あの後、叔父は良治さんに連れられ、駆けつけたパトカーで連行されていった。

 逮捕されて、報道されて。しかし大騒ぎになった街の一般人以上のことは、あまり詳しく知らない。


 当の叔父さんが何も話していないらしい。さっき良治さんがまた連絡をくれた。

 心配してくれているのか、顛末について時間ができたら伝えてると約束し、定期的に連絡を入れてくれている。

 初回の連絡で、彼と6年前の事件との関わりを話してくれた。参考人であった宗孝の事情聴取に、立ち会ったのだと言う。あの『構図』において、血で書かれたものが文字であることを、彼だけが聞いていたらしい。僕以外の人間とほとんど会話することのできなかった宗孝が少しでも信頼を得ていたことに、血は争えないなと笑った。



 あの日僕は賭けに勝った。長い付き合いだ。アイツが強くて、厳しくて、優しくて、悪戯な女だと知っていた。

 しかし、こんなものを“勝ち”とするなら、勝利の神様から袋叩きにされそうなものだ。ともかく、友達を殺人犯にしないで済んだのは確かだ。あれから一度も連絡は取れておらず、今も友達であるのかは定かではないが。


 あれから大きく変わったことと言えば、中学から高校生活を過ごした叔父さんの家が無くなったことぐらいだ。

 残された金だけはあったからあの家に住み続けることもできたが、広夢と2人で話し合ってそれは止めた。僕は叔父さんの家に住み続ける気持ちの問題を出したが、広夢からは子供だけで済み続ける難しさ、現実論を説かれた。いやそうなんだけど……立つ瀬がない。

 広夢は知らない親戚の家へと引き取られ、僕の家はまた西白森の昔の家へと戻った。幸いのところ両親の遺産とそのままになっている家財道具のおかげで住環境には困っていない。今までより少し学校は遠くなるが、甘んじて許容しよう。



 ――そして。



 冬であればすでに日は沈んでいる時間に、僕はその学校に来ていた。

 先に述べた通り、勿論夏休み真っただ中。もう少し早い時間であれば準備の生徒もいただろうが、とっくに帰っている。

 いつだって空いている正門横の小さい扉を抜け、小さなビオトープを抜け、下駄箱から見える位置にある池へと歩を進めた。


 あの日のことを思い出して、どうにも顔を覆いたくなる。

 人はそんなに劇的には変われない。


 手入れされていないのか悪臭さえ微かに漂う池の前には、まばらに花が置かれている。物を持った両手を足へと添わせながら静かに腰を下ろす。そのまま供え物たちの中に努めて優しく菊の花を置いた。


 完遂するために、ここへ来た。

 自分のために過去を全て拾い上げると決めたのだから、終わっていないものをそのままにはできなかった。

 例えて言うなら、すべてキャンパスの中に描き終えた後、作品に自分のサインを書き加えるような、そんな些末な行為。

 筆を置くにはまだ早すぎる。


「なあ、石見」

「気づいていたのか、与一」


 動きのない背後の気配に向けて、独り言のように、独善的に言葉を紡ぐ。


「お前とは小学生の時以来、まともに話してこなかったからな。どんなことを経験して、考えているのか僕には分からない。だから勝手な妄想の類だと思って、聞き流してくれ」

「おーい、無視かよ」

 

 こんなどうしようもない僕が、自分勝手で友達のいなかった僕らが寄り集まっていたのは、何も偶然なんかじゃない。

 お互い自分たちが欠陥のある人間だと、知らず知らずのうちに感じ取っていたのだ。親と決別し、突き放され、蒸発し、愛されてこなかったからこそ、上手くやれた。もう普通の幸せを手に入れることのない落伍者同士で安心できたから。


 でも僕らは集まることで変わっていった。

 子供は成長する。6年前の事件を迎える前から、もう段々と普通の人間になっていた。


「頭のおかしい僕らに常識をトレースしても意味がないかもしれないけど、人間にはきっかけが必要なんだよ。叔父さんが初めて宗孝の絵を見てから、事件を起こすまでには長い間がある。今回6年越しに起きたのは、僕が深路と会わせたから。じゃあ6年前は? 絵の日付がきっかけというなら1年前との違いはなんだっていうんだ」

「叔父さんなー、びっくりだよなー」


 けれど、きっかけはあまりに急だった。

 姉を失った深路はあの日から決定的に変質して、当たり前の感情を持った普通の人間になった。

 記憶を失った僕は特別な世界からは追放され、それから人間の世界へ混ぜられた。


 僕の後ろに立つこいつはそれをどう感じていたのだろう。

 再会してからずっと、過去を知っていた叔父さんとも深路とも違う、ここにいる僕を見ていなかった。爽やかさの裏で、常に不快な粘着質を持った異質な視線をしていたこいつは。


「叔父さんは一言も殺したとは言わなかった。由香さんも、三谷も。叔父さんが悪くないなんてことはあり得ない。……ただどう考えたって人手が足りないんだよ」


 どうやって知らない森の中、由香さんの場所を正確に特定する?

 どうやって他の生徒が登校するまでの間に、あの『構図』を作り上げられる?

 

 こいつから返ってくる反応には、何ひとつ重いものがない。

 知り合いが殺人犯で、幼馴染を殺したのに。


「この“宗孝の”音楽プレイヤーが郵便受けに入っていた理由が、どうしても分からなかった。僕がナニカと過去を思い出すきっかけになった最初の人形。あれを僕が見たのはアクシデントだって叔父さんは言っていた」

「いやいや、何の話なんだよ」

「選択肢に残っているのは深路か、お前か。でも深路はあり得ない。『もう待てない』って言ったんだよ、アイツ。あいつは僕のことをずっと待っているだけだった」


 もう石見から言葉は返ってこない。

 もとより反応なんて聞きたくもない。


「僕は、もうお前と友達にはならないよ」


 どう聞いたって小学生、甘く見積もっても中学生の言葉。

 それで初めて、息を吞むような音が聞こえる。


「もう終わったことなんだよ。地続きでも、違う人間なんだ。記憶があったからってお前に言うことは変わらない」


 明らかに張り詰めた空気を破壊するように、言葉を叩きつけ続ける。


「最初に言った通り、今のお前がどうかなんて僕は知らない。それが答えで、それ以上はない。――今の僕とお前は赤の他人だ。二度と僕の前に顔を見せるな」

「……………………」


 会話する気なんてなかった。最初に言った通り、これはただの独り言、妄言。

 赤の他人の犯罪を正そうとする正義感なんて僕にはない。赤の他人を殺したくなるほどには狂っていない。


 徹底的な他者性。拒絶。一滴の水も与えてやらない。

 それ以上、一握の言葉さえ表には出さなかった。僕には止めた責任があったから。



 しばらくして、背後の気配が消える。

 静かに僕も立ち上がる。手に持った音楽プレイヤーと繋がったイヤホンを耳に入れた。



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