◇50 頑冥不霊




 刹那。獲物を携えた相手は駆け出すように前へ、後ずさった僕は後ろへ。踏み出しそうな足をぐっと押しとどめる。


 殺人鬼との距離はもう三足分。

 蝉の声と共に木々の間で反射しているのか、足音がやけに無数に大きく聞こえる。


 何をしようと結末はもう変わらない。なら僕のすることはもう、ない。


 二歩。

 一歩。



「良治さん。遅いよ」


 何かが横から体をくの字にへし折らんばかりの勢いで猛烈に突進し――叔父の体は横向きに弾き飛ばされた。

 獣のようにも見えたソレは、僕が呼んだ知り合いだった。


「刺されるつもりか?」

「……いいや。足音で来てたのは分かってたよ。ありがとう、こんなところまで来てくれて」


 本音を言えば、自分が死ぬ分にはどちらでも良かった。

 しかし僕だって、殺された後のことを考えないほど馬鹿ではない。せめて、と向かう途中に良治さんへ連絡を入れた。宗孝のことを思えばあまり警察へ話すのは躊躇われたが、彼のことだけは信頼していた。

 それでも来てくれるかどうか、五分五分でしかなかったが。


『……前の遊園地のアレと何から何まで一緒だった……左手で書いてある文字も……』


 何かを知っているのだろう、とは考えていた。その顔に既視感を覚えなくもない。真意を問いただしたい気持ちもあった。だがそれには時間が足りなかった。

 だから場所と用件だけを一方的に話した。自分の中の仮説と、僕よりよっぽど人を見る目のある三谷を信じて。

 今まで少ししか話したことはなかったが、それでも来てくれると思っていた。


 目前まで迫っていた殺人鬼は、良治さんに横から腰に組み付かれて地面に倒れ伏している。良治さんは手慣れた動きで馬乗りの体勢へと移行し、凶器を持つ右腕を捻り上げる。


「っっぐぐうううっっ!!」


 呻き声を上げながら何とか抜け出そうともがくが叶わない。身長差はないものの、体格差は圧倒的だ。

 地に爪を突き立て、足で空を漕いで、暴れる。それでも状況は動かない。やがて捻り上げられた先の右手は握力を失っていく。手のひらから滑り落ちたナイフを、良治さんが足で弾いた。


 打つ手のなくなった叔父さんは、ただ泣いていた。目の奥にあった狂った闇は霧散し、別人のように。号泣するでもなく、今まで自分がしてきた、後戻りのできない数々を思い浮かべるように、一雫ずつの涙。


 僕が視ようともしていなかった狂気。口汚くぶちまけられた罵倒。いくら僕でもそこまでの鳥頭ではない。

 でも僕には――どうしてもそれが、計画の失敗によるだけのものだとは思えなかった。


 弾かれたナイフは滑り、回転し、やがて何かにぶつかって止まる。


「「「!?」」」


 足に当たったそのナイフを拾い上げたのは、白くすらりとした指。

 叔父のものでも、ましてや自分や良治さんの指でもない。


「話、聞いていたぞ」


 傾斜の上から僕を、犯人を見下ろす。いつもならある身長差をまるで感じさせず、映るすべてを焼き尽す魔女のように、指の1つさえ動かすことが難しくなる視線。

 先ほどまで奥の奥、花を捧げて由香さんと話していたはずの女は、声音も、表情も、いつもと変わらない。


 身にまとう雰囲気だけが、あまりにかけ離れている。

 もはや完全に世界とナニカが一体化し日常に貶めた僕の視界の中でさえ、夥しいナニカ纏わせるその姿は、およそ人間とは考えられなかった。

 

「……っ」


 いつからそこに――いや、もうそれは問題じゃない。

 『久しぶりな気がする』。『今までごめん』。『良いタイミングだ』。言いたいことが無数にあって。


「やめろよ、深路」


 それでも口をついて出たのは焦りだった。彼女のことを、よく知っていたから。


「どこまで聞いていたのかは知らない。後で全部話す。だから」


 目の前の深路の体が、真下に落ちる。

 重力に逆らわない自然な体重移動で踏み出した一歩は、真っ直ぐ叔父さんの方へ。声なんて全く届いていない。殺意をその手に握りしめて。

 僕がそれより一瞬早く動けたのは心構えのおかげだった。


「どうして止める?」


 うつ伏せの叔父を押さえつける良治さんの前に手を広げて立ちふさがった僕に、深路は足を止める。その目に、体に、持ったナイフに滾る殺意は炎のようにこちらの体を焦がす。

 それに充てられたのか、後ろにいる叔父はまだ固まっている。慣れているはずの良治さんさえ、目を見開いてぎょっとしている。


「お前には殺してほしくない」

「こいつが由香を殺した。三谷も殺した。宗孝さんもこいつが殺したようなものだ」

「だとしてもだ!」

「過去を思い出したのなら分かっているだろう? 以前私を止めたのはお前だぞ、与一。それが何を招いたか、よく考えてみろ」


 深路は止めたゆっくりと足を進める。


 ――『殺すのだけはダメだ。そんなこと誰も望んじゃいない』


「……ああ、止めたのは僕だ。こんなことが起きたのも僕がいたからだ。でもこいつはもう終わりだ! 今更殺したって何にもならないのは深路だって分かるだろう!?」


 僕も、足を進める。

 自分の吐く言葉に意味なんてなかった。深路の言っていることは全て事実で、僕自身が今でも嘆いているのだから。


「深路、友達の定義の話してたよな? 何をその定義の中に入れたいかどうか、って。僕の定義は……まだ上手く言えないけど……せめて、幸せでいて欲しいんだ。深路のためじゃなくて、僕のために。だから、妥協できない」


 言葉は自分の意志を通すためだけの無価値なもの。きっと深路にだって気づかれている。

 反省していない。非人間的にエゴを押し付ける、実に人間的で愚かな生き方。


 こんなことをして、今までで一番生きている実感がする僕は、間違いなく壊れている。


「……私が言えた義理じゃないが、お前はもう狂っているよ」

 

 自然と浮かんだ笑みに、初めて彼女の顔が歪んだ。


 互いの意見は平行線のまま、手の届く距離で正対する。絶えず言葉を紡ごうとする僕に対して、深路は手で静止をかける。


 こちらに差し出された手にあったのは、何の変哲もない2つ折りの紙だった。


 それは紛れもない合図だった。しかし、どうして紙の準備があったのか、思考が及ぶほどの余裕が僕の脳にはなかった。

 もしかしたらそれは、津島与一へ向けられた信頼と慈悲だったのかもしれない。


「私が負けたら、お前と縁を切る」


 幾度となく繰り返されたやり取りの中で、いつもと違うのは、勝っても負けても甘んじて受け入れ難いものが残るということ。

 

 いつから身体に何も入れていないのだろう、自分でもはっきりとしない。絞り尽くすものもなくなったのか汗が乾き始めている。


 ぐっ、と生唾を飲み込んだ。

 僕が負けたら、どうなるだろうか。しがみついて止めたところで、僕が殺されたら結局彼女は犯罪者だ。

 勝つ意味は……ヘロヘロの僕では彼女を止められない。良治さんが体勢を整えるまでの時間を稼ぐためにも、やる以外の選択肢はなかった。


 困った。やっぱり大した理由なんてないじゃないか。

 エゴだけでここまで来て、エゴだけで相手の意味を折ろうとは。ある意味では叔父さんよりよっぽど最低の人間でしかなくて、笑うしかない。


 勝つ意味も、負ける意味もないのなら、場に出して賭けるのは自分の運なのだろうか。


 ――いいや違う。

 過去も知識も、今はもう続いている。

 何より深路は『友達』で、だからこの勝負は世界中の誰と比べたって、僕の勝率が1番高い。


「3」


 差し出されたその紙を受け取らずにはっきりと数字を述べる。何もかも後悔はなかった。

 

 深路は相変わらず顔に出る女だった。

 声の届いた顔を見て、自分の選択の可否をすぐに悟った。



 ――サイレンの音が蝉に交じってまばらに聞こえる。

 再び照りだした灼熱の太陽は、まだ長く続く夏を思い出させた。



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