◇47 希望の朝に「おはよう」の挨拶を
カチリ。
壁に掛かっている時計の長針と短針が上を向いて重なる。
ゆっくりと椅子から腰を上げる。
やっとこの日が来た。
なんて待ち遠しい日々だっただろうか。我慢できずに、何度も「練習」してしまったが、大した問題ではない。
既に準備は終えている。だがもう少しだけ時間が必要だ。
……ああ。この苛立ちさえ今は甘美だ。
刻一刻と時間が進んでいる。
先ほどから何度も、何度も確認した荷物の中身をもう一度見返す。その作業を繰り返すほどに自分の口角が吊り上がっていくのが分かる。
あまりの興奮に指先はもう震えている。
失敗できない。だとしたらなんのため――。
夢と希望に、決意が混じる。
一枚の紙を広げる。
いつまで経っても色褪せることのない、自分の夢。
初めての作品は最高の環境だった。鑑賞者が2人もいた。けれど勢い任せに作った自分の作品は拙かった。認めてもらえなかった。
鑑賞者がいなくなってからは感性を磨いた。毎日『作品』を鑑賞して研究した。持てる限りの時間を全てそそいだ。下手なことをして残った唯一の鑑賞者を失うわけにいかなかった。
だが自分でも分かっていた。
発散したい。
作り上げたい。
今ならもっと上手くできると。
ようやくだ。
唇をゆっくりと嘗め回す。
10回、20回と繰り返した確認作業の手を止める。いつのまにか時計の短針は45度以上傾いている。
少し早いが、もういいだろう。
上下を動きやすいジャージに着替える。
つばのついた帽子を目深に被る。マスクをつけ、黒い皮手袋を両手にはめる。
部屋の戸を開け、玄関の戸を開ければ、外はまだ暗い。
予報は晴れ。今日は人が溶けるような炎天下になるような気がした。
ここから「あの場所」までは本来バスに乗るのが一番早いが、この時間に動いているバスなんてあるはずもない。
だから歩く。
距離にすれば10キロ以上。3時間以上はかかる。さらに言えば、この部屋で時間を待って、一番早いバスに乗り込んでしまえば、着く時間はほとんど変わらないだろう。
だが自らの内にある焦燥は、これ以上足を止めていることを許してくれない。
何かしていないと、怒りと喜びでイカレてしまいそうになる。まあ、それも悪くはないのかもしれないが。
そうして歩く。
耽美耽溺思耽。世界の全てに耽る。
世界はいい。新たな発見とバランスに心が躍る。
闇はいい。どこもかしこも想像の余地がある。
思索はいい。現実にない色で、現実にない構図で全てを作り出せる。
全てを表現できる作品。辿り着いたのは6年前。
あとはこの手で表現するだけだ。
ほら、着いた。
ボロボロに経年劣化した柵と『立ち入り禁止』の注意書きの前で立ち止まる。
すでに東の空へと太陽は昇り、後ろには木々の生い茂る、丘のように小さな山が見える。
大きな穴の開いた柵の一番上に手をかけ、それを乗り越える。
道は草木と土によって埋もれ、辛うじて形を成しているだけの道を、奥に向かって歩き始める。
……ああ。
視界のかなり先。
少し驚きだ。もういるなんて。
よかった。
もう少し待つ必要があると思っていたけれど、嬉しい誤算。
これですぐにでも作品に取り掛かれる。
そう考えただけで至高の喜びに全身が包まれる。
ああ、あの横顔。
まさしく彼女こそ今日にふさわしい。
歩を進める。無意識に、だが確実に、そのギアが変わっていく。
あの日も。
あの日もこんな風にこの道を歩いて。
そしてこんなふうに――。
「おはよう」
すぐ横から息切れしたような声が聞こえた。
――――――
――――
転げ落ちるようにバスを降車して、その勢いのまま走りだす。
朝日はすでに昇っており、放射冷却によって寒々しくなっているはずの地上に強烈な日差しが照り付ける。あの日と同じ、人が溶けそうなほどの炎天。
何か確証があるわけじゃない。頭に描けた道筋も、本当に繋がっているのか分からないほどでたらめだ。
息が上がる。苦しい。昨日から着替えていないシャツが背中に張り付く。
それでも走る足と心臓は止められない。今止めてしまったら、何かが終わってしまう気がするから。
右手はある人物へと電話をかけ続ける。あの家から数10回繰り返して一度だって繋がらない。焦りを募らせる『電波の届かない場所にいます』のアナウンス。
2週間前。今とは違って3人で通った道。話す相手はもういない。
営業していないのか、人気のない派手色に装飾された遊園地。入り口に並んでいたはずの人の列さえも影の形もない。
日曜日の静けさに包まれた建物。
それを妨げる蝉の声。
懐かしさを漂わせる風景。
……。
視線の先にあの黒い少女が見える。
どこからともなく現れたその少女は僕と目が合っているのにもかかわらず、何も反応は起こさない。ただしこちらから視線を離すことはなく、僕のことをじっと見つめて観察しているようだった。過去、功罪、意思、全てを透過して心に突き刺さるような視線を向けた。
目の前の人物に対して、何か言葉を投げかけようとした。が、途中で止めた。
その、顔。
別れたはずの後輩の顔。
そして今向かう先にいるだろう友達とよく似た顔。
――今ならその顔が誰のものであったのか、すぐに分かる。
少女を見たことで“今日の”出来事が思い出され、僕に自分の目的を冷たく突きつけさせてくれる。
辛い、とても辛い坂道を、少女を置き去りに走り抜ける。通り過ぎる。ずっと頭を回しているせいで、昨夜のように無我夢中になることも出来ない。雑念が入るのを自分で止められない。
それでも目を開けたまま。その奥の裏山へ。
囲うフェンスを乗り越え、その先へ。
道は草木と土によって埋もれ、辛うじて形を成しているだけの道を、奥に向かって走り続ける。
もう日が出ているのに、うっそうと茂った山の中は殆どが木の陰になっていて、隙間から入り込む強烈な日差しがモノクロの縞を作る。じめじめとした土の匂いを感じ、靴の裏から伝わる感触は地面の上を走っているとは思えないほど柔らかいものだ。
蝉の声は密に生えた木々たちの中で逃げ場に困ったように反射し、まるで人を狂わせる亡霊の声のようにいたるところで響き渡る。
風が吹いていかないからか熱のこもりきった室内のような暑さだった。足を踏み出す度に顔から噴き出す汗が、顎の先から流れ落ちてズボンの膝を濡らす。
そうだ。
あの日も。
あの日もこんな風にこの道を通った。
……ああ。
やっぱりいるのか。
ここにいることが、僕の想像を確かだと証明してしまう人物。
足を止める。感傷には浸らない。
今日で終わりにするから。
「おはよう」
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