◇46 暗闇のノック
ノートを閉じる。
これは元の場所に戻さなくちゃ。
立ち上がって、持ったまま部屋を出る。
部屋を出て、左の側の部屋。
先ほど入らなかった宗孝の部屋。
そのドアを開ける。
手に持ったライトで部屋の中を照らす。
白い光が舞い上がった埃を照らした。
中は唯一の窓に白いカーテンが閉まっており、最初から弱々しい外の光を遮る。カーテンを開けたところで闇に自分の顔が映るばかりだろう。
中へと一歩足を踏み入れる。四方を光にかざし、そして気づく。
空っぽ、だった。
机とベッド、本棚が置かれ、壁一面に額縁のかかった、白い壁紙のごく普通の一室。それが僕の記憶の中に残るこの部屋のあるべき姿。そう扉の前で予期していた。
一部においてそれは正しい。確かに机とベッド、本棚と額縁は部屋の中にそのまま置かれている。
だが――その全てに何も入っていない。ただそこにあるだけの、空。
順調に記憶の穴埋めを続けていた頭が初めてそこで止まる。
おかしい。
間違いない。
誰かがこの場所に手を加えている。
宗孝が死んだ後、僕が何人たりともこの部屋に入れさせなかった。不審死の捜査に来た警察を部屋から叩き出し、叔父さんを——傲慢にも——跳ね除けた。
両親の死なんかよりよっぽど受け入れられないものだった。宗孝はいつかふらっと何ともなしに帰ってくると本気で信じていた。あの目を細めた特徴的な笑みを浮かべた宗孝がいつでも僕を見ていて、いつか僕に声を掛けてくれるのだと。
だがもはや、痕跡や温もり、どちらもここにはないと直感する。
この場所だけはもう、時間が進んでしまっている。
どくん。
心臓の鼓動がまるでカウントダウンを打つように感じた。
嫌な胸騒ぎが止まない。ライターを近づけて紙の端からじりじりと焦がすように、戻せない何かがゆっくりと進んでいる。自分の内側だけがやけに熱を帯びていた。
あと少し、もう少しの時間があれば何も問題はない。今はまだ曖昧なところがあるが、じきに思い出す。定着する。そして『僕』が完成する。すぐに分からないものも分かるだろう。待っていればいい。ただひっそりと、静かに。
違う。
分からない、なんてことはない。今となっては何の役にも立たない言葉でしかない。
焦らせているのは何者でもない自分の内側から。であれば、材料をすべて持っている本来の僕が、もう時間が残されていない、という結論を導いているということ。
とどのつまりは——『事件』が今どこかで進んでいる?
……思い出せ。思い出せ。
今までの生活の中でどこかにあったはずだ。落ちていたはずだ。見落とされていたはずだ。犯人につながる違和感が。
そのために一度自分の思考をまっさらにして考える。基本的なことから合理的に考えなくてはいけない。
バッ、と両手で顔を叩く。
「よし」
目的を明確化する。しなくちゃいけない。
自分の責任、これまでの反省。考え出したらきりがないことだらけだ。不純物を抱えたままなら、心と体の重みで結果が全く違うものへと引き寄せられてしまう。
僕の望む結果が何か。それを一から再構成する。
こんな頭を使う作業なんて得意ではないし、むしろ一番苦手、『メンドウ』なことだ。それでもやってやるしかない。
大きく分けて明確化する。目的は2つだ。
1つは過去の記憶をすべて取り戻し、清算することだ。世界に関しての欠落がすべて埋まるわけじゃないが、前に進むためには必要だ。それに、自分のせいで三谷を失って、天笠を切り落として、もう後には引き返せない。6年前の事件に蹴りを付けて、胸を張って深路に友達だと言いに行きたい。現状を招いた僕に権利なんてないのかもしれない。完全なる僕のエゴ。その押し付け。それでいい。
もう1つは事件の犯人を見つけること。広夢との約束も、他の誰でもない自分自身——いや、後輩への宣誓もある。加えて三谷の仇を取らなければ気が済まない。疑惑は叔父さんにかかっているらしいが、自分には信じられない。広夢とも約束した。僕の周りで起こった3つの同じ構図。その矛先が僕に向かっているのは明白で、いつまた僕の周りの人間が殺されるかは分からない。あんな思いはもう二度としたくない。
そして、深路は犯人を「殺す」と言った。あいつは本当にやる女だ。まだ『津島与一』もどきの自分にだって分かる。僕が犯人ならば、いくらだって死んでやる。でも『友達』を殺人犯にするわけにはいかない。幸せな生活を送って欲しい。これも明らかな僕のエゴだ。
これらについて重要な点は3つ。
①6年前の事件と今回の事件に繋がりはあるのか。
②2つの事件の犯人は誰か。
③犯人の目的は何か。
①に関してはもうほとんど言い切ってしまえるだろう。6年前の死体とほとんど同じ方法で死体を整える偶然などあるはずがない。白森という場所、死体の横に書かれた創作文字まで一致していることを考えればそこには何かしらの作意があるはずだ。僕に向けたメッセージが。
②が分かっていたら苦労していない。そもそも関連があることは断言できても、2つの事件の犯人が同一人物だとは言い切れない。過去に僕が宗孝を犯人だと考えた原因は血文字だ。だが宗孝はもういない。それを僕と宗孝以外に知っていた人がいる? そんなわけがない。……何かが引っかかる。本当に血文字だけで僕は犯人が宗孝だと確信したのだろうか。
③なんてそれ以上に分かるはずがない。どうしてこの事件は6年もの間が空いたのだろうか。サイコパスの通り魔的な犯行であるならば、こんな間は不要であるはずだ。ならば右手を残して四肢を切断するあの死体に、傍の血文字にどんな意味があるというのか。
そうだ、分かるはずがない。
自殺なんてことはありえない死体がいくつも出ているのに、一向に犯人についての情報は報道されない。被害者の共通点もだ。新たな情報が何も見つからないのだろう。被害者の共通点も普通に考えたらまず分からない。
普通ではないこと。普通ではない視点。
当事者としての視点、僕だけの視点。
「あ」
思い出す。
今の僕の部屋に残っていた昔の僕の落書き。あの死体の構図。冷静に考えれば、奇妙だ。
由香さんの死体が目に焼きついて必死に描いた、とするならば一応の筋が通っているように見えた。
だがそれはおかしい。あの絵は落書き帳の中で比較しても細部にまで書き込まれていた。びっしりと。ある種の執念を感じるほどに。
事件から1週間が立たないうちに僕は事故にあって入院している。けれど僕の描く絵の仕上がりが遅いのはずっと変わっていない。僕があの絵を短期間に書き上げることは不可能なのだ。
しかしあの絵を描いたのは間違いなく自分だ。それは間違いない。
だとしたら考えられる可能性は1つ。
僕はもっと前にあの絵を描いている。つまり、あの構図を6年前より更に前に知っていたということだ。
「どこだ……?」
内向的どころではなかった昔の僕が、何か新しい情報を得る先は極端に限られている。
現実ではありえない、それでいて強烈な印象を残す。そんなものを見る機会なんて。
——ある。
そうか。
この部屋に足りないもの。
昔の僕を構成して、今の僕に欠けているもの。
ぐるりと見渡した宗孝の部屋。
それぞれ詳細には全く思い出せない。
けれども、その存在と宗孝との思い出を思い出してしまえばとても物足りない。
僕と宗孝、そして深路たちを繋いだものなのだから。
だけど。
「ああクソッ!」
頭を掻きむしる。
紙一重のはずなんだ。存在ははっきりと認識できるのに、脳の回路が『そこ』へと上手く繋がらない。
空の額縁と額縁の隙間の壁へ、右手を軽く叩きつけた。
(……?)
なんだ……これ?
右手から伝わる感触が、軽い?
伏せた顔を上げ、恐る恐る手を退ける。
目に映るのは壁と額縁だけ。
奥……?
目の前の額縁に手を掛ける。
金具に引っかかっている後ろのひもを外し、床に降ろす。かかっていた部分の壁紙はくっきりと跡ができている。吸着式のフックが付いている以外には…………いや、まさか、これって。
フックを指でつまみ、『それを持ち上げるようにしながら引っ張る』。
カタッ、と音を立てて壁の一部、およそ30センチ四方が外れた。――隠し収納。こんな場所にあったら誰も気づかない。
床の額縁の上に板を置いて中を……筒状になっているこれは……紙、だよな?
手に取って…………字が。間違いない、宗孝の字だ。
広げて…………そして、確かめ。
『ええーっ、あの絵見つかったの? いや、別に嫌がってる、とかそういうことじゃあないんだけど……実はさ、もう一枚描いちゃったんだよ、同じ絵。ほら、これ』
『どうしようかなあ、いらないならもう捨てちゃっても……え? ダメ? だって勿体ないって? えー、そんなこと言われてもなあ……』
『じゃ、ここにしまって置くよ。ここ、僕の秘密の収納なんだ。また失くしちゃったときはこいつを与一にあげるよ。……いや、だからってそんな簡単に失くさないでよね、もう』
………………ぁ……。
これは。
いや、これが。
黒いインクを白い紙に垂らすように、ある確信が自分の中へと染み渡る。
非現実的な死体の構図。
傍に書かれた血文字。
6年前の事件とその後の空白。
宗孝が綴ったノート。
時間が止まったまま残っている旧家。
空になった部屋。
退院後の生活。
ナニカが再び見えるようになった日。
6年前の事件。そして今回の事件。
論理構成と理由の肉付けのどちらも不完全のまま。それにも関わらず、これしかないという結論まで道筋が引けてしまう。
汗が頬を伝う。
すぐにでも頭の中の考えを整理したい。
――だけど。
咄嗟に携帯の画面を点ける。写り込むのは『7月27日 6時35分』のデジタル文字。
……急げ!
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