◇45 贖罪の扉
闇の中の自室には月日が差し込まず、ライトのみで中を探る。
(……なにも、変わっていない?)
どころか、今の家の自室ともそう変わりはない。相変わらずに棚には乱雑にファイルが突っ込まれ、床には教科書やプリントが散乱している。記憶の中の姿のままだ。
床に散乱したプリントは小学五年生のもので、津島与一、と自分の名前がどれも不格好な大きさで記入されている。
驚きはない。
物が氾濫して使えるスペースのほとんどない机の前まで歩く。収納スペースが多く、組み合わせ自由を謳っていた茶色の学習机だ。よほど雑に扱っていたのかあちこちに傷がついている。
その表面を繊細な赤子の頬のようにさらりと撫で上げる。指先から伝わる感覚は現実感がないようにのっぺりと表層にだけ張り付いた。
少しの間の後、キャビネットの引き出しの方へと手を伸ばす。
ガチッ、と金属の硬質な音とともに引いた右手から何かが引っかかる。
鍵がかかっている。
ポケットから自然に、さっき使ったばかりの二組の鍵束を取り出す。まだ使っていない、もう1つの鍵を人差し指と親指で掴んだ。目の前の鍵穴へすんなり差し込まれると、カチャ、とひどく軽い音を立てて回り切る。
手汗のかいた右手で引き出しを開ければ、探していたものはそこにあった。
探していたものだけが、そこにあった。
表紙に何も書かれていない大学ノート。……手が震えた。
それを持って引き出しを閉め、今の自分には低すぎる椅子を引いて浅く腰かけた。
背表紙近くに折り目がつき、紙が若干浮き上がっている。既使用品だが、持ち主は僕ではない。
ノートの持ち主は――宗孝。津島宗孝。
ああ、そうだ。
6年前に死んだ、6歳年上の兄だ。
勢いのままこのノートを開くことができてしまえばどんなに楽だっただろう。
けれど熱を持っていた僕の体はいつの間にか冷めきっていて、残り物を搾りつくしたように内面も凪のように落ち着いていた。
だから、明確な覚悟を持って開いた。
ノートを開く手は汗ばみ、紙は手についていたが、それでも最初のページをゆっくりとめくった。
『九月二日』。
最初のページはその日付から始まっていた。もちろんここ最近のものではない。
6年よりもっと前から、宗孝が書いていた日記なのだから。
――――――
――――――
『九月二日 絵ではなく何か文章を書き残すということは初めてだけど、自分を落ち着かせるためにこれを書きたいと思う。与一は僕と同じものが見えている。どうすればよいのか、自分でも分からない。』
『九月六日 今日与一の頭を撫でたときに、初めて人肌の温もりという奴を感じた。あんまりびっくりしたからか、久しぶりに人前で声が出せた。与一に僕のようにはなって欲しくない。どんなことでもしてあげたいと思う。』
『十一月十三日 やはり与一も友達と呼べるような人はいないようだ。悔しいけど、僕にはどうすることもできない。ごめん。与一には嫌がられているけれど、僕が話しかけて、つい頭を撫でてしまうことはどうか許してほしい。僕が話していられるのは与一だけなんだ。』
『五月十八日 最近与一が僕に話しかけてくれるようになった。……与一と話すのは楽しい。自分自身が救われている気がする。与一も同じ気持ちだといいのだけれど。』
『六月七日 与一と一緒に秘密の文字を作った。ナニカを使って伝える僕らだけの特別なものだ。どこで使うんだろう、なんてことには目を瞑るとして、本当に楽しかった。与一の発想には何度も驚かされたし、僕自身夢中になった。後ろに書き写しておこう。』
『七月二十八日 初めて与一に僕の絵を見せた。それまでは描くといっても落書き程度で、作品として真面目に描くことはなかったんだけど……ふとした思い付きで、与一に見てもらおうと思ったのだ。最初から与一に見せよう、と思って描き始めたから、いつもより神経を尖らせた。我ながらいい出来だと思う。人に自分の絵を見せることだって初めてだったけれど、すごく興味を持ってくれたみたいで嬉しかった。サプライズで入れたちょっとした仕掛けにも目を輝かせていたし。与一は昨日からずっと自分のノートに絵を描いている。もっといいものを見せられるように僕も頑張らなくちゃ。』
『八月一日 初めて見せたあの絵。与一にあげてしばらくしてから失くしてしまったらしく、それから与一はずっと不機嫌だったのだけれど、今日になって見つかったらしい。無くさないようにというのはいいんだけれど、僕の部屋に他の絵と一緒に飾りだしたのはなぜなんだろう……?』
『八月三十日 あれからずっと与一は僕に絵を求めてくる。どうも褒められすぎて参るなあ。つい天狗になってしまう。自分で言うのもなんだけれど、僕の絵はあまり気持ちのいいものじゃないと思うけど……いや、自分的にはとても嬉しいんだ。けれど、言われるがままよく分からないアプリのアカウントまで作らされてしまった。絵を公開するなんて恥ずかしいからいいのに。』
『十月一日 最近与一には友達ができたらしい。しかも二人も。これは喜ばしいことだ。話を聞いてみると二人とも少し変わっている子のようだ。与一はすごい。自慢の弟だ。』
――――――
――――――
日記は非常にシンプルなもので、その日程も不規則だ。
宗孝は長い文章を書くことが好きではなかったのだろう。ほとんどの文章の下には落書きのように絵が付け加えられている。……端書でさえ僕となんて比べるまでもないほど凄まじいものだ。
あまりにリアルで、あまりに現実感がない。そんな宗孝の絵が、僕の憧れだった。
だけど、なんだろう――何かが欠けている気がする。
記憶の中で感じていたはずの、僕を引き付ける魔力のような何かがそこにはない。
下書きだからなのだろうか。
……これ、僕か。
笑っている子供の絵を親指で撫でる。そこにはもう何も残っていないはずなのに、驚くほど温かい。
日記につづられた日付のほとんどに僕の名前が出てくる。
そのほとんどが、あまりに優しい。
だからこそ、苦しい。
どうしてこの日記がここにあるのか。
どうしてこの日記を読まなければいけなかったのか。
「本当に今更で……だけど、ごめん。宗孝」
気が付くと、知らない天井が見える。
椅子に座っていたはずの僕は、日記の一文字、一端に熱中しているうち、いつのまにか横のベッドに上半身だけを仰向けに預けていた。
ずいぶんと時間が経っている気がする。
静かに上半身を起こして日記を傍らに置く。開いているページは6年前の7月25日のページだ。
事件の前日を最後に、そこから先は空白のページが続いているだけ。一番知りたい、宗孝が死ぬ28日までの記述はない。ここで終わり。由香さんの死、宗孝の死、どちらに対しても糸口のようなものはなかった。
――それはこのノートを僕が盗んだからだ。
6年前の事件の前日、7月25日。それは僕が初めて宗孝の部屋に入った日でもあった。
いつもにこにこしている宗孝へのちょっとした悪戯心で部屋に侵入し、机の上に置かれていたこのノートにはすぐ気が付いた。部屋をこっそり覗くたびに、兄がこのノートに何かを書いていたのを知っていたから。
本当に軽い気持ちだった。
宗孝が怒ったところなんてそれまで一度も見たことがなかったから。
ノートの存在は自分の机の引き出しに入れた1時間後にはすっかり忘れていた。
事件の日、家を出る直前。準備をしていて自分の机に仕舞ったことを思い出した。でもその時には――盗んだときに持っていた悪戯心や背徳感は少しもなくて、後で謝って返そう、なんて気楽に考えていた。
でも、事件の後に、『お前が殺したんだろ』――そう詰め寄られて憔悴する宗孝に向けて、それができなかった。
同行した子供は4人、その内宗孝以外は小学生だ。
意識せずに中へと踏み入れる人などほとんどいない森の中、一番に疑われるのは当然の流れであり、多くの人が話すことのできない兄へと詰め寄った。疑い、視線で刺していった。
仲間内でさえ、口には出さずとも深路は疑念を持っていた。だからこそ、深路は僕に聞いたのだ。犯人を殺して構わないかどうか。
それを止めたのは、僕も周りと同じだったから。
あんなに一緒だった宗孝と目を見て正面から向き合うことが、どうしてもできなかった。自分がしたことへの後ろめたさよりも、もっと複雑で得体のしれない恐ろしさに向き合うことができなかった。
疑ってしまったのだ。
傍に綴られた血文字は僕と宗孝しか知っているはずがなくて。
事件の犯人が宗孝なんじゃないかって。
沈痛な表情をしていた宗孝を強く拒絶した。してしまえた。
そして、宗孝は死んだ。
なんでもない路上で車に轢かれて。
後で運転手が飲酒していたことが分かったが、直前の様子を考えれば、それが自殺だったのか事故だったのかは分からなかった。
手元に残ったノートを、その中身を、見ようと思ったこともあった。
どんなに宗孝の死が現実感のない、受け入れられないものであったとしても、そこにはただ宗孝がいない「現実」だけが続いた。ゆっくり、ゆっくりと宗孝がいない日常に自分が適応していくのが恐ろしかった。唐突に欠けた宗孝を埋めるために、傲慢にも盗んだもので埋めようとしたのだ。
ただ開こうとするたびに、誰かの視線を強く感じて、結局できなかった。
もしも僕の知らない、得体の知れない宗孝の本性がそこにあったとしたら。僕のすべてであったものが壊れてしまったら。僕はどうやって生きていけばいいのだろう。そんな思考に取りつかれた。
それでも、そのまま日々を過ごしていくことなんて出来なくて。
――だから、歩道橋から足を踏み外した時には救いを感じてしまった。
それから頭を強く打って病院に運ばれ、目を覚ました頃には小学校生活と同時に記憶の方も都合よく吹き飛んでいた。
よくもまあ、それからのうのうと過ごしていけたものだ。天笠は仕方ない、なんて言っていたがとんでもない。僕は忘れちゃいけない、自分の責任を放り出したのだ。
やっぱり間違っていた。
宗孝があんなことをするわけがなかったんだ。
僕はこのノートとすぐに向き合って、宗孝に返すべきだった。
「ごめん」って。
「どうしたの?」って聞くべきだったのに。
そして今、ノートを持って座っているこの今でも、どこかから視線を感じる。
……いや、今というのは嘘だ。本当はずっと、ずっとこの視線に気が付いていた。自分自身を糾弾するこの視線に。
あらゆる人の視線がこの視線に感じて、気になっていた。怯えていた。原因へと向き合わなきゃいけない、一抹の責任感もすべて無視して後回しにしてきた。
もう、終わりにしなきゃだめだ。
最後のページには、僕と一緒に作った暗号文字の解読表が乗っていた。
あ、から、ん、まで占めて五十音。どの文字も初めて見るように懐かしい。僕と宗孝で一緒に考えた、昔の大切な思い出の一部だ。
解読表のオリジナルは一緒に書き込んだものであるから、これは恐らく宗孝が自分で書き写したものだろう。
丁寧に、丁寧に写されていた。僕が間違えてオリジナルの用紙に書き込んでしまった「ん」に対応する文字の余計な横棒さえ、そこにはあった。当時の完成に対しての僕の興奮がこの表を通してでも伝わってくる。
そして、この僕と宗孝以外にはとうてい読めないだろう文字を、つい最近目撃している。
――それは遊園地の死体と、三谷の死体。
6年前の死体から続く、あの『構図』の血文字。
それを知っているということは、今回の事件の犯人も絞られる。
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