◆44 『与一』
僕の記憶の中の最初の光景、それは誰かに頭を撫でられているものだった。その光景はぼんやりしたもので、それが誰の手によるものなのかは分からなかった。
その手は温かくもなく、冷たくもない。特徴という特徴は感じられない。それでも僕が物心つく前の一番はっきりした記憶だった。
「与一、僕すごいだろ?」
気が付いたときには宗孝はいつも僕の近くにいて、何かあるたびに弟の頭を撫でながら柔らかな笑みを浮かべていた。
宗孝は笑うときにいつも陽だまりの猫のように目を細めた。決して相手に対して不安感を与えるものではなかったが、幼い僕にとっては何を考えているのかよくわからない不安感をも抱かせるものだった。
小学生になる少し前ぐらいの時期。軽い反抗期だったのか、こんな調子の宗孝がうっとうしくて嫌でしょうがなかった。
幸か不幸か、両親の僕を見る目がだんだんと変化していたのもこの時期だった。
『気持ち悪い』『あの子は変だ』『近寄っちゃいけない』『見た目は普通なのに』『何をしでかすかわからないぞ』『この前鳩の死体で遊んでいた』『ネズミを殺していた』『大人になったら人を殺してもおかしくない』――原因ははっきりしていた。
あの人たちの視界に入るたび向けられたあの視線。ゆっくりと、ゆっくりとその視線は周囲にも波及し、遂には周りの人間全員に監視されているとさえ感じるほどだった。
彼らは決して僕には近づかず、それでいて目を離すことはなかった。
いつしか人と目を合わせるのも嫌になって、周囲と自分との溝はさらに広がった。
別に一人でいること自体、嫌いではなかった。嘘じゃない。……それでも自分自身の中のどこかに寂しさを抱えていたのも否定しようがなかった。
この先の将来僕は孤独に生きていくんだ、なんて――今思えば自分でも笑ってしまうような――悲観的な考えを真面目に持っていた。
けれどそんなこと、宗孝には全く関係のないことだった。
「与一、これ綺麗だろ?」
僕が何も言わなくても、気づけば宗孝はいつも僕の近くにいた。
そして僕が冷たい反応を返す度に、目を細めた特徴のある笑みを浮かべて弟の頭を撫でた。
自然と分かった。
記憶の中の手が僕の兄の手であることに。そしてその理由も。
その手に感じた印象は――白。確かに兄の肌は日焼けしていない白いものであったが、それだけではなかった。明らかに父や母とは違う、『ナニカ』の見えないまっさらで綺麗な手だった。
僕がそんな兄に興味を惹かれるようになったのは必然だった。
会話が一言、二言と伸びていった。自分から話しかけることも増えていった。共通のことをする時間も増えていった。
「ごめんよ、与一。僕じゃ周りとうまくやる方法は教えてあげられない」
宗孝は、僕以外の人と会話をすることができない。そう、本人が申し訳なさそうに明かした。
精神的なものらしいが、そんなことは問題でもなかった。
だって、楽しかった。
本当に、本当に楽しくて、それ以外のことなんてどうでもいいことだった。
今までの生活からはまるで違うものへと変わった。
視線に対する居心地の悪さはどんどん小さくなり、正面から人の目を見ても何も思わなくなった。
感じていた孤独感も、なくなってしまえば単に人に言えない恥ずかしい記憶だった。
小学校に入学した後には友達だってできた。
香奈、和也、そして香奈の姉の由香さん。沢山は居なかったし、これ以上欲しいとは本当に思うことはなかった。自分の中でそれが何よりも成長に思えた。
みんなと、宗孝と何かをする。それだけでよかった。
それもこれも全て宗孝のおかげだ。
津島宗孝はもう僕のたった一人の家族で、兄弟で、親友だった。僕に構うことの少なかった両親と比べるまでもなく、何をするにも僕はいつも宗孝と一緒にしていた。
宗孝は僕が知らないことを何でも知っていた。世の中との付き合い方、ひとりの時の遊び方、そしてナニカとの付き合い方。
宗孝とはナニカの話も共有できた。僕はもちろん、宗孝にもナニカが見えていた。それに干渉することもできた。ナニカの蠢く世界は、僕と宗孝だけが共有できる秘密の空間であったのだ。
ナニカを使って2人だけがわかる暗号だって作った。使いどころに困って随分温めていたが、それを使って石見との勝負で不正したことも覚えている。あのときは石見がどこかの戦闘民族のような豹変ぶり見せ、僕らは平身低頭したのをよく覚えている。
楽しかった。
すべてが終わったのは6年前の7月27日。
その日も僕は友達の3人、宗孝と深路の姉の由香さんを加えた5人で遊園地の裏山に来ていた。その日は夏真っただ中。しかし分厚い入道雲に覆われ少しだけ薄暗く、風の吹かない生温いような日だった。
由香さんが凄惨な死体で見つかった。
四肢と血文字。同じ構図。体には無数の切り傷と頭部の打撲痕。
――僕らが散り散りになった2日後、宗孝は死んだ。
当時の記憶はほとんどおぼろげだ。
失ったのではなく、魂が抜けるように過ごしたせいで、何も覚えていないのだ。
それからすぐ、事故にあって、そんなことさえも忘れていた。
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