◇43 奥底の鍵
西白森の駅の改札を抜ける。
この場所に来るのは、遊園地の帰り道以来だった。
『津島与一』はこの場所を知っている。
陽がすでに完全に傾き、宵闇の中で西白森の路地を歩く。僕のほかには誰もいない一人きりの世界だ。
雲に閉じ込められたような熱気の続く熱帯夜の中、むき出しの耳にしんと響いてくるのは静寂だけ。
路地を抜ければ少しだけ道幅の広くなった交差点に出る。街に不釣り合いなLEDの赤信号が闇の中で煌々と輝いていた。長い赤信号を嫌って歩道橋の上を進む。体を突き動かすような衝動が足を止めさせることはありえない。
歩道橋を降りるとそのまま交差点に平行に直進する。
『僕』にとってはほとんどが見知らぬ道で、『津島与一』にとってはそうではなかった。
僕の記憶にもある街並みに合致しているところは少しだけで、歩いている方向なんてほとんど当てずっぽうと言っても良かった。
歩く。
歩く歩く歩く歩く。
そして混ざっていく。
言い知れぬ既視感は感じるべきでない未視感へ。
問題文の空欄を埋めるように、目の前の答えが過去を掘り起こしては、僕へと回帰する。
足は段々と早まり、加速し、いつしか僕は走り出していた。止むことのない炎のように急かしてくる心にその身を任せて駆け出した。視界に移る街の風景はネオンサインのように揺らめき、形を変え、溶けるように過ぎ去っていく。
すぐに息は上がる。それでも無我夢中に走った。追いかけているのか、逃げているのか、分からないぐらいに走った。
目指している場所のこと、ナニカのこと、過去のこと、そしてこれからのこと。色々なものが頭の中に生まれ、駆け回って、加速度的に意識は現実から離されていく。
極端に狭くなった視界にはそんな内心とは裏腹に次から次へと風景が写る。街灯に照らされたゴミ袋。ガソリンスタンドの料金表示。誰一人として並んでいないバス停。シャッターの降ろされた郵便局。路肩に一時停止した普通車。赤く光る信号機、……っ!
パーッ、という少し高くて物凄く大きな音が近くで聞こえて僕はようやく意識を取り戻した。
ふざけんな! という罵声と目の前の赤信号ですぐに状況を把握する。……僕がいたのは交差点のど真ん中。謝罪と共に慌てて横断歩道の手前に戻る。
(……落ち着け)
一度止まる。足だけじゃなく、心も落ち着かせる。
努めて鷹揚に、まばらに流れていく車を眺める。心臓の脈動がじっとしていても全身から伝わってくる。
――落ち着け。
額の中心を擦った。
信号が青に変わる。
服は張り付き、汗も湧き出て流れ落ちていく。一度深く深呼吸をして、再びゆっくりと歩き始めた。
いつだって心の中にはあった街。ぼやけた思い出の中にしか残っていない街。
それが情報と共に鮮明になる。思い出とともに感傷が生まれる。懐かしさと、見知らぬ街を歩いているような新鮮さと。気を抜かなくても許容量を超えて、目の前の現実が吹っ飛んでしまう。
そして。
(……なくなってなくて、よかった)
今と過去をつなぎ留める目的地、終着点。
それはまだ確かに存在していた。
何の変哲もないごく一般的な二階建ての民家の前で足を止める。
薄暗い電灯の明かりでも十分だ。また1つ空欄が埋まる。
その扉の前に立ってポケットから自分の財布を取り出す。
レシートの飽和した財布。その紙束をすべて引き抜いた。
――カチャリ。
間に挟まっていた何かが地面へと落ちる。
それは二組の鍵が括りつけられた簡素な鍵束。
この家のものだ。
その鍵を鍵穴に差し込むとガチャリ、と音を立てて意外にも滑らかに回る。
ドアノブに手をかける。プルアップ式のそれを引っ張れば扉は容易に開いた。
密閉されて淀み切った屋内へと外の空気が流れ込むように流入する。
「……ただいま」
少しも変わっていない『我が家』に僕は足を踏み入れた。
――――――
――――
窓から差し込む外の光はあれど、家の中は暗くてはっきりとしなかった。
この家に戻ってくるのは小学生以来だ。特別感は――よく分からない。日常感と非日常感が自分の中に入り混じっていた。
知っている景色だ。
観音開きの靴箱、壁に取り付けられた上着を掛けるためのハンガーフック、額縁に入った二頭の子犬のジグソーパズル、居間と廊下とを仕切ったガラスに木枠の引き戸。目を閉じれば、もう頭に内側の構造が思い浮かべられるようになっていることに気づいた。
玄関には靴が一足も無い。靴箱から床、何から何まで埃が積もっている。靴を脱ごうと靴箱に手を当てたときに伝わってくる感触はどこまでもつるりとしていた。手には溜まった埃が白く付いた。足元の土間を靴でスーッと引きずると、擦ったところがその軌跡の通りに色を少し変えた。
座って靴を脱ぐ。癖で脱いでしまった靴下は、埃が付かないよう靴の中へと放り込んだ。
僕から見て左の木の引き戸が洗面所、右のガラス張りの引き戸がリビングに繋がっている。左を一瞥してから、右のドアを開けた。
中は窓のシャッターが閉まったままになっているのか真っ暗闇であった。
何も見えない。すぐ近くの壁にあるはずの電気のスイッチを手探りで押した。
だがやはりと言うべきか明かりは点かない。どれだけ放置されていたのか分からないが、電気が通っていると考えるのが間違いだろう。
代わりに携帯のライトを点け、馴染みのある部屋を一望する。
このリビングも知っている。
引き出しの位置も、電気の位置も、テレビの置いてあった場所も。全部憶えているんだ。
ライトをつけたまま廊下に戻る。そのまま奥の階段へと歩いた。
老人以外でも上るのに苦労しそうなほど急角度の階段である。はやる気持ちで素早く一段目に踏み出したが、そこで止まる。
1つ経験があった。ここは足に汗をかいている状態で急いで行こうとすると転ぶ、と。埃が積もっていることも考えればそれは必至のように思われ、一段一段と手すりを掴みながらゆっくりと上った。
階段の先にはトイレの部屋とは別に扉が3つあった。木製のドアには所々に傷がついているだけで、ネームプレートのような装飾は1つもない。
中がどんな部屋か想像の余地は全くない。
だけど、知っている。
右の部屋は空き部屋で、元々は僕の両親の部屋だった。両親が事故で亡くなってからは、捨てるに捨てられない物の置き場へ……思い出深い物もこの中にはたくさんある。
左はもともと僕が使っていた部屋だ。一人でいることも多かった僕にとっては愛着も思い出もある部屋だ。思えば、今の僕の部屋には昔のものがほとんどない。
そして正面。
僕はそのまま目の前のドアに正対する。左、右の部屋と全く同じドア。それでもこの部屋は今の僕にとって重大な意味を持っていた。
「……」
右手をそっとドアに這わせて軽く撫でる。手から伝わってくるのは埃と木の感触。触れた個所の埃がはらはらと地面に落ちる。
この部屋に僕は何度も入ったことがある。
物臭な僕の部屋とは違って、綺麗に整頓された部屋だった。
脳が命令するより早く、ドアノブに手をかける。
ノブを掴んでいる右手はすぐには動かない。
金属製のノブをしっかり握るのに難儀するほど手に汗をかいていた。熱帯夜のせいだけではない。分かっていた。
……慌てるな。
思い出せ。
僕はもう知っているはずだ。
探すべきものと。
それがどこにあるのかも。
ゆっくりと手を放す。
この部屋じゃない。僕はまだ『あれ』を返せていない。
なら。
僕が行くべきは。
左側へ向き直す。
そして、正対している扉――自分の部屋のドアノブを確かに握りこんだ。
ゆっくりと、ゆっくりと開く。
そしてライトの付いた携帯を掲げたまま、闇の中へと足を踏み入れる。
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