◇42 とある夏の夏の夏の夏の/おわり




 最低限の荷物で出た家の外へ繰り出した。広夢との約束を果たすまでは帰らない、一方で仮初のものと分かっていて死ぬために歩き出した――ひどく不毛な決死隊だった。

 まだ日は沈んでいないが、厚く雲に覆われて薄暗くなっている。30分もすれば日が沈むだろうか。最近、外出する時はやたらと曇りばかりだった。


 覆われる地表は熱を閉じ込め蒸されている。

 手を握って、開いて、回復しない。凍えのような身体機能の低下は、脱水症状と空腹が招いたものだった。だが、手先足先、末端が寒い自分にこの熱は都合がよかった。

 

 動かすことが億劫な身体を、足を、それでも一歩ずつ前へ。目的地――集合場所なんて決めていない。しかしそれは、僕が望めばどこだってよいのだろう、という確信めいたものがあった。


 ――動いている街の音が聞こえていた。


 その音に電車の走行音が強く混じり始めたところで、足を止めた。

 東白森駅西口側、さらに薄暗い高架下もどき。


 背後から肩を叩かれる。頬を刺すようにすっと伸ばされていた“誰か″の指を優しく摘んで、呼びかける。


「ちょっとだけ話さないか?」


 天笠のいつもと変わらない無垢な笑顔に、やや呆れが混ざっている。出すはずのなかった僕にも、自然と笑みが溢れた。



――――――

――――



 駅前、木製のベンチに2人並んで腰かけた。横に座る天笠は子供のように足を揺らしている。

 空を覆っていた厚い雲は少なくなり、隙間から茜日が出たり出なかったりを繰り返す。風はほとんど吹かず、気温はとても温い。周りの時間さえも停滞しているように感じた。


「連絡寄越したの、お前か?」

「だってもう出番終わりかなーと思って安心してたら、センパイ即落ちしてるんですもん」


 天笠は僕が話しかけるまでうんともすんとも言わず、沈黙がぎこちない。何かを、僕が言い出すことを待っている、そんな気がした。


「……あー」

 

 自分から天笠を引っ張ったのが初めてで、無様にも切り出し口に迷う。勢いで動いていた足が一度立ち止まってしまえば、悪魔が再び思考停止を囁くのは必然だ。


 一度、両手で顔を覆う。

 望んだ反応がこなければ失望するのか?

 何もしなくても励まして救ってくれる蜘蛛の糸を待っていたのか?


(……落っことしたものはもう戻らない。ぶら下がるために来たんじゃない)


 天笠も、……三谷だって、向こうから歩み寄って、前に進めてくれていた。今思えば深路の態度だって、僕をここまで待てくれていたものだ。もしかしたら、石見も、叔父さんも。

 一杯一杯で正面から向き合えず、いつか、と思って取りこぼした、もうできない恩返しをたくさん積み重ねた。


 醜悪な考えを浮かべて引き篭もるのは、もう終わりにするって決めたんだ。

 恩返しの代わりに、拒絶と別離を言い渡すことになっても。

 爺の言葉も、天笠の言葉も受け取って。それでもなお残った失いたくないものを、『自分』を、拾い上げる。


 友達って――なんなんだろうな、深路。


「先輩」


 僕よりも先に天笠の声が響いた。


「もう、帰りませんか?」


 提案でも、希望でもない。その声に乗っているのは僕に対する気遣いだけ。


 ここで家に帰って、夏休みを過ごして、二学期からまた何事もなかったように学校に通ってみるとしよう。

 三谷を忘れ、深路を避け、それでも天笠とくだらない話をしながら、また将棋を打つ。

 違うゲームをしてみるのもいいかもしれない。メビウスではない、どこかほかの所へ出かけるのもいいかもしれない。


(僕はやっぱり……こいつのことも好きだったんだろうな)


 でも。拾い上げるものは、僕が決めさせてもらう。


 絵を描かなくちゃいけない。

 描き始めてすらいない、その約束を、僕には果たす義務がある。

 

 あれだけ僕のことを気遣ってくれたもう一人の友達。

 何年も僕のことを待っていてくれた友達。


 僕はあいつらのことも同じくらい好きなんだ。


 だから。

 ――だから。


「いや……今、話すから。少し待ってくれ」


 さよならを、言わなくちゃいけない。


 天笠の方へと顔を向ける。

 既にこちらを向いていた天笠と視線が重なる。


「手、握ってもいいか?」


 天笠は何も答えない。目を真っ直ぐに見たまま、にこり、と寂しげな笑みを浮かべる。

 呆れたような顔で、手錠を掛けられる犯罪者のように手をこちらに差し出す。


「どうぞ」


 僅かばかりの緊張。手に汗。


 多分、ここが最後の分岐点だ。

 もう引き返せない。


 息を吸って、吐く。


 ――その勢いのまま、天笠の手を握った。



「ま、こうなっちゃいますよね」



 握れなかった。

 触れた感触もない。僕の手はそのままするりと透過していた。


「……お前、本当にここにいないのか?」


 存在の否定。


 『天笠』が僕以外の誰かと話しているところを知らない。不自然にも学校でさえ面識のある奴を見たことがない。交わしたはずのやり取りの履歴だってどこにもない。

 日曜日のことだってそう、三谷に会ったことのない天笠が僕の部屋をノックする状況なんて起こりえない。

 範囲を絞ってしらみつぶしに家を探したって不可能だ。家の前に出ている表札は――そもそも『津島』ではない。


「はい、そうです。 ……ん、いいんですよ? もっと驚いても」


 拗ねたように視線を外した彼女から、あっさりと答えが返ってくる。

 そこに驚きなんて陳腐な感情の挟む余地はなかった。


「正確に言うなら、先輩の世界にしかいません。平たく行っちゃえば妄想、思い込みの類ですね」


 彼女は言葉を続ける。


「全くこの年にもなって何をやっているのやら、と言いたくなりますけど……まあ先輩の場合は仕方ないですね。六年前の事故由来で、しかもほとんどの記憶が吹っ飛んでるんですから。吹っ飛んだ私と自分の同一性を見つけるのは難しかったんでしょうねえ――もっと詳しい話、聞きますか?」

「いや、ちょっと軽すぎないかお前」


 流れる水を板でせきとめるように、反射的に答える。

 ……ちょっとは僕の気持ちも考えてくれ。本当に重要なことを言っているのは分かるんだけど、カウンターパンチが速すぎて目眩を起こしそうなんだが。


 否定したのにも関わらず、言葉は止まらない。


「私が五年前に生まれてから、ずっと先輩を見てきました。一番近くて遠いところにいる先輩を、私はずっと純粋に応援していたんですよ? 過去に目を向けるのもよし。オススメは忘れて生きることでしたが」


 その方が私としても長くいられて楽しいですし、と綴るトーンはすでに郷愁のようにもの寂しくもあった。


「とはいえ、ナニカが世界に戻ったのが分かってからは、あーこりゃ無理だなって。眼鏡をかけてきたときは驚きましたよ、私の姿も見えなくなるんじゃないかと思って。流石にもうあの時点では先輩の中に定着しすぎて大丈夫だったっぽいですけど」

「悩んでることが分かってるなら、アドバイスくれてもよくなかったか?」

「自分から言うことはできませんよ。先輩の記憶が戻った時点で私の役目はおしまいですから。それはどうしても嫌だったんです」


 ブツブツブツブツ……と何か溜まっていたものが決壊して彼女の口から漏れている。

 一度落ち着いて消化する時間が欲しい。


「いーや! 私は言いたかったこといっぱいあるんですからね!? 全く、これぐらいで済むと思わないでくださいよ」


 内心を読み取ったように、彼女はいつも通りの調子で憤慨する。

 そもそもですね――と前置きして。


「先輩、私の下の名前って知ってますか?」


 言われてみると……全く分からない。

 退院後の中学生活、春から夏までの高校生活合わせて付き合いは二年以上。どこかで知る機会があってもよさそうなはずだ。逆に今まで気にならなかったのか、僕。


「分からないでしょう? ……そりゃあ分かりませんよ! だってないんですもん! 先輩が必要性を感じなかったせいで、ずーっと名無しの状態! 挙句の果てにはもうおしまい、ってふざけてると思いませんか!?」

「……や、すまん」


 僕が悪いのか、これ?

 考えもしてなかったが……今更そんなことを言われても、もはや『天笠』以外の呼び方なんて定着しそうもない。


「いや……やっぱりお前は天笠だよ。今更他の名前なんて必要ない」

「それとこれとは話が別ですよ! 全くもう……」


 バネ仕掛けのように立ち上がった彼女は、また呆れた顔をして僕に批難の指先を向ける。



 そんな姿の後ろに、気づいてしまった。

 

「あ……」


 陰になって鏡のように茜の風景を反射した駅舎のガラス。

 その中の世界に、少女の姿は全く映っていないことに。


 それは最早この時間さえも、終わりに近いことを示していた。


「もうほとんど記憶が戻りそうになっているんですよ。まあなんてったって、先輩自身の手で『私』の不在が証明されちゃいましたからねー。あと一押しってところです」

「……なんでそんなに冷静なんだよ」

「やだなー先輩。私は最初からいつ消えてもおかしくない身ですよ」


 ――それが少しだけ長かっただけで。


 彼女のつぶやきが空に溶けるころには、僕らの間に沈黙が戻っていた。


 今なら、いや、そもそも分かっていた。

 浮かび上がる断片的な記憶の欠片。それが全部自分のものだってことぐらい。


 こいつは分かっていたはずなんだ。記憶の戻りかけた僕と会ったら絶対にこうなることを。

 それなのに。


 彼女は立ったまま後ろを、自分のいない街の景色を静かに眺める。

 それに合わせるように、自分もベンチから立った。


「もう、おしまいか?」


「はい。おしまいです」


「そっか……」


「そうです」


「……」


 意味の無い言葉を吐く。

 自分で決めたのに、終わりをできるだけ遠ざけたくて。

 僕も彼女も、ゆっくりと返答を探すように語らった。


「どうして私は選ばれなかったんですか?」


 それは違う、と言わなかった。

 何も違わない。それでいい。


「周りにいてくれた人は、正直皆好きだ。深路と、三谷と、三人で話してるだけで幸せを沢山貰ってた。お前と出かけたことだって、本当は楽しくて仕方なかった」

「そんなこと今更言わなくても知って――いえ、口に出したのは初めてでしたね」


「『僕』を拾って終わらせるために、深路の手を汚させずに、三谷の仇を取る。あいつは恨んでるのかもしれないし、すべての原因が自分にあるのかもしれない。それでも、あいつこんな僕に残ってる唯一の“友達”だから、僕がやる」

「えー他人を理由にするんですか? それは卑怯なんじゃないですか、先輩?」


「まさか――選んだのは、ぜんぶ『僕』のためだよ。自己満足だしな」

「あんまり自己中だと友達に嫌われますよ……あーあ。ちょっとは期待したのにまだまだ先輩は子供ですね」


「うるさい。悪いか?」

「いえいえ。そんな先輩のために可愛い後輩が一肌脱いであげます。知ってますか、大人は子供の延長線上にしかないんですよ?」


「……ありがとうな」

「はい! 存分に感謝してください!」


 二人で笑い合う。

 笑っているのが、この場面で一番正しいことだった。


 ここで泣くのはとても恥知らずだし、これが僕らにとってのいつも通りだ。

 だから笑う。

 笑う。


「じゃあ、またな」

「はい、また今度!」


 前に、歩き出して離れていくのは、あくまで自分の方だ。本当なら握手でもしたいところだが、それも叶わない。

 だから別れを告げた後、ちゃんと手を振る。


「……あー、センパイ。最後に1つ。目、閉じてもらってもいいですか?」

「……なんだよ」


 いいからいいから、と促されるままに目を閉じる。




 ――最後まで頑張ってくださいね。




「……っつァ」


 暗闇の中、おでこに鈍い痛みが走る。

 思わずその箇所を手で擦る。


 引き戻された。しっかりと現実に。


 ……くそ。最後まで好き勝手やりやがって。


 目を開けた時にはもうそこに彼女の姿はなかった。

 まったく全てが痛みのせいで、視界が滲んでいた。


 滲んだコレには、いつも通り、いたるところでナニカが蠢いている。変わってしまった日常の一番代表的な光景で、もう当たり前のものとして処理される光景。


 ああ、そうだ。

 これだって、元々僕にとっての『いつも通り』だった。


 街から茜が抜け、夜のとばりが降りようとしている。

 足向く先は東白森駅の改札へ。

 戻った記憶はいまだ断片的だが、まだ残っているはずだ。

 中学生よりも前の僕、『津島与一』が住んでいた家が。



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