◇41 とある夏の夏の夏の夏の/はじまり




 歩いていた『僕』が足を止めた。

 いつもより微睡んでいて、なぜかいつもより鮮明な、あの夏の夢。


 やはりと言うか、必然的と言うべきか、そこには既に先客が横たわっている。

 記憶を掻きむしって引きずり出す、赤く染まる構図。


「……っ」


 口の中は干上がり、不意かつとてもオートマチックに喉の奥が奇妙な音を立てる。

 切断され、地面に乱雑に転がされた四肢。唯一残った右腕の手は血の付いたのこぎりを握る。伸ばされた左手の人差し指の赤く濡れた指先が、文字か図形か、謎の模様を地に刻んでいた。



 ――“由香さん”だった。



「……」


 『僕』はこの時、そのあまりの異様さに本来出るはずの絶叫を忘れていた。ひたすらにそれに見入った。魅入られたのではない。



 感じてはいけないはずの既視感を、『僕』が感じていた。



 これは、6年前の“はじまりの事件”のはずだ。

 『僕』は特殊な訓練を受けた軍人でもなければ、死体に興奮する異常性愛者でもない。ただの普通の人間だった。そう、そのはずだ。

 そんな人間が猟奇的な死体を目の前にして――既視感を抱くのはおかしい。


 目の前のヒトの形は、どこか自分の生命の根幹に訴えかけている。だがそれは歪に。心臓を鷲掴みするのではなく、尖った爪で表層を抉り取るように。ナニカに侵されたその姿は、酷く痛々しく、嫌悪感で脳を揺さぶる。

 これは違う。もう見たくない。冒涜だ。そんな気持ちが次から次へと溢れ出してくる。

 下唇を血が出るほどに噛み締めた。頭がおかしくなりそうだった。

 『僕』は脱兎のごとく元来た道へと駆け出した。文字通り逃げる兎のように、得体のしれない恐怖を振り切るように。

 駆けて、駆けて、駆けて、駆け――あ。


 唐突に、いつものように訪れる浮遊感。右足に感じる痛みで、何かに躓いたのだと分かったときには目前に土の地面が迫って――。


 いつの間にか地面に立っている。

 視界のクリアさと対照的に、脳細胞が事象に追いつかない。


「殺したいんだ。殺したくてたまらないんだ。なあ、どうしてこうなった?」


 目の前には小学生の深路が。


「殺すのだけは、ダメだ。……そんなこと誰も望んじゃいない」


 勝手に口から紡がれたのは今より少し高い声。『僕』の意志だった。

 偽り、焦り。絡まる。

 不意に後ろから肩を叩かれる。


「……だから」


 叩いた左腕はぼとり、と僕の体の近くに落ちて。


「だから、こんなことになったのか?」


 あの姿の三谷がこちらを睨んでいた。



――――――――

――――――



 ベッドの上で意識が戻る。


 暑いのか、寒いのか。

 明るいのか、暗いのか。

 死にたいのか、死にたくないのか。


 座ったまま同じ体勢を取り続けていたからか、自分の身体すら分からず。

 何もかもがあいまいで、ひどく遠い、別の世界のように。


 今抱えている思いだって、時間が解決してくれるのに。

 僕は、ただ流されていればいいだけなのに。

 義務なんて、責任なんて、負いたい奴だけ負っていればいいのに。


 頭の中には誰のものか知れない、謎の記憶が次々と浮かび上がる。

 僕じゃない。誰だ、お前は。


 ナニカが視界を埋めていく。視界が黒く落ちていくたびに、遠くへと進めている気がした。



 ――ピーピピピー。ピピーピピーピー。


 手元に落ちていた携帯が、不気味に音を立てた。

 遅れて振動も体に伝わってくる。着信だ。

 強烈な眩しさで光る画面に映った発信者は、未登録の番号。


(…………)

 

 だが僕は携帯を裏返し、その着信を取らない。

 雑音によって光を、現実を、これ以上自分の中へと取り込みたくなかった。


 携帯は鳴り続ける。だがそれも四、五秒の振動の後、途切れた。


 ……よかった。これでまた――。



「おい」


 

 耳慣れない声に、体が一瞬硬直した。しかし、確かにそれは記憶の中にあって。

 今まで感じたことのない視線が、自分に向けられているのが分かった。敵意は……感じない。これって。


 被ったシーツの隙間を微かに上げると、ベッドに座り込んでいた僕とちょうど同じ高さで目が合った。


「……な、なにか用か?」


 どろどろの脳がさらに混乱したまま振り返る。立っていたのは広夢だ。

 まったく理由が、いやそれよりもどうしていいかが分からない。


 彼我の距離は1メートルほど。広夢は答えない。

 その代わり手に持っていたものを、こちらに投げた——。


「うおあっ!」


 溶けきっていたはずの脳細胞と運動神経が、瞬間的に凍って繋がる。咄嗟に身を捩って横へ、倒れ込んで避ける。


 僕の胸を目標にする角度で飛んできた――ようにみえた『それ』は、思っていたよりも緩く放物線を描き、バキン、と後ろの壁へと激突した。


「壊れたらどうすんだよ、おい」


 広夢はベッドに膝をつき、固まった僕の横へ手を伸ばして不機嫌そうに『それ』を拾う。

 数瞬のやり取りで凝固し戻ってしまった脳細胞は、彼の手元にある、投げられたものを正しく認識できた。


(……ゲーム機のコントローラー?)


「上手かったんだろ? ちょっとやってみてよ」


 無事を確認するような手つきでボタンとスティックを一通り弄ってから、彼はそれをこちらに差し出す。

 理解の追いつかないままに、受け取った。


 

——————

————



 降りてきたリビングは、電気こそ煌々としていたが静まり返っていた。蝉の声すら聞こえず、ゲーム機本体の駆動音だけが、時間が止まっていないことを主張している。

 ゲーム機の接続されたテレビ。その真ん前の床に座らされ、横にテーブルの椅子を引いてきた広夢が腰掛けた。促されるままに握ったコントローラーのボタンやスティックのほとんどは緩く滑らかに動作し、その使いこまれようが伺える。

 起動していたゲームは、広夢がこの前朝からやっていたもの。主人公の侍を操作する高難易度アクション。


 ◯ボタンを押してもタイトル画面から動かない。顔を広夢に向けると「洋ゲーは×決定なんだよ」と言われた。NEW GAMEを選択すると、画面上では綺麗な映像でストーリーが流れ始める。そのほとんどが頭には入ってこなかった。

 ただぼんやりと、そしてどういう風の吹き回しなのだろうと考えていた。しかし僕には分かりそうもなかった。話したこともほとんどないのだから。


 動きの滑らかさも、絵の継ぎ目も、現実と遜色ない。知らぬ間に恐ろしいほどゲーム機は進化していた。

 面白い。そしてそれはどこまで行っても、箱の中に詰められた虚構の世界だ。

 

 右スティックで視点を回し、左スティックで歩き出す。単純なはずの動作も、慣れるまで時間がかかる。

 そんな調子で操作していて上手くいくはずがない。侍は何度も、何度も無様な姿でその命を散らしていく。広夢は何も言わずに画面を見ていた。


 もしこの侍に自分で判断する自由があれば、もっと上手く動けるのだろうか。

 息遣い、皮膚感、交わした言葉。それらを感じ取れるリアルな人間であれば――僕には無理だった。そのどれも、加えて余計なものまで見えていたのに。


 上手い、という僕の見栄のような言葉を否定するには十分過ぎる時間が経っていた。それでも一向に広夢から、もういい、という類の言葉が飛んでこなかった。

 

「今のゲームは凄いな、僕にはとてもじゃないけど満足に操作できないよ」


 取り繕わずに自分から話して手を止めた。単に今の僕に余裕がなかった。

 流れの中にいることで精一杯だ。それでも、現実に戻ってくるよりはマシだった。


「まだやってていいよ。休憩してるから」


 どう答えていいのか分からない。ともかく、差し出したコントローラーを、彼は受け取らなかった。

 期待に沿えなくてごめん、と流し目を送っても、彼の視線はまっすぐ画面へと向けられ、まったく気づく様子はなかった。体力残りわずかのボスキャラクターから返り討ちにされたところで、僕はコントローラーを置いた。


「上手くなくてごめん」


 その言葉に驚いたように、彼はこちらを向いた。「どういうこと?」不機嫌そうに、そして心底不思議そうに広夢は問う。


「つまらない?」

「そういうわけじゃないよ」

「上手くやることなんて求めてないよ。――人がやってるところを見たくなった。それだけ」


 部屋に来た時とはまったく矛盾した言葉のようであって、それはどうやら本心らしい。「父さんいないから怒られないし」と、続いた言葉でそういう風に空気を震わせた。


「上手くやらなきゃ、いけないかと思ってたんだ」

「プロみたいに天才ならともかく、一般人にとっての上手さってのは経験値のことだろ。上手いか下手かなんてすぐに分かるものじゃないよ」


 広夢はそう言って僕が置いたコントローラーを拾い上げて、僕が負けたデータをロードした。

 武器やステータスは僕が理解しないまま適当に弄ったもの。それでも広夢が、慣れた手つきで相手の行動すべてに対処していけば、比にならない速度でボスの体力だけが削れていく。「俺はこのボスのゲージを半分倒すのに26回かかった」なんて言った時には、すでにパーフェクトゲームを決めていた。

 喜ぶ様子もなく、淡々と処理した、という表現が最も近かった。


「つまらなくないのか?」


 聞いた後に、自分でも良くない聞き方だったと悟る。

 しかし広夢は怒るような素振りを全く見せず「今のはね」と答えた。


「ちょっとチキった。1分ちょっとかけてちゃダメなんだよね。調子良くて相手の機嫌が良いときは40秒で抜けられるよ」


 照れくさそうな饒舌を回しながらもゲーム画面から目を離さず、獣道を鼻歌交じりに闊歩していく。

 

「言語化すると……自分の最高到達点に近づこうとすること、なのかな楽しさは。人とそれを共有したり競ったりするのは+αだけど、やっぱり楽しい。俺には40秒の壁がまだまだ抜けられそうもない。いつか与一が30秒台でクリアできるかもしれないし、それを俺が抜き返すかもしれない」


 年相応でいて、僕よりも大人びたような言葉。燃え滾るようなものはなくとも、内側に向けて静かで穏やかに保たれた熱があった。


 弱く、脆く、逃避して。縋れるものに飛びついているだけなのだろうか、自分は。


「だから今の時点でどう、ってのは大して気にしなくていいってのが自論。……そもそもブランク考えたら普通に上手いけどね」


 かつての熱の震源も分からないまま。こんな些細なやり取りの、どこに、心が揺らされたのだろう。

 分かっていなかった、自覚してなお答えを出し渋った、子供な自分が恥ずかしかった。


 ――ブレて、滲む視界に、拡散した液晶の光が痛かった。


 失いたくない世界なんて、まだ残っている。作っていける。

 どこからか、得意げな笑い声が聞こえてくる気がした。

 

「飯、どうしてるんだ」

「父さんが金だけは置いてってる」

「ごめん、今度から僕が買ってくるよ」

「いい。というか今までそうやってきたろ」


 ゲームの華美で壮大な音楽を裏に、外郭ばかりに触れる他愛もないやりとりが交わされた。手を止めず、目を合わさず、自分の記憶には残っていない兄弟の会話だった。

 途中、カチカチ、と堅い音のするボタンを2回押し、手汗をズボンで拭った広夢は、「さっき警察が来てたよ」と何でもない風に溢した。


「父さんは元から変わってるけど、ここ最近は酷かったよ。与一は分かってたか知らないけど、家を空ける頻度も4月、6月、7月と順々におかしくなっていってた」


 飛び出たのは、自分の肉親が殺人犯である可能性を肯定するような発言だった。僕には言葉に出来ない、広夢だけの特権。

 敵の一撃が初めて侍を掠め、舌打ちが響く。経験の成せる技か、追撃を躱しきって回復することもなく攻勢に転じて立て直した。


「友達が被害者の与一に聞いても仕方ないことだって分かってる。でも知りたいんだ、何があったのか」

「約そ――うん。約束する」


 自然と紡がれた言葉と、脳が選んで告げる言葉とは同じものだった。


 その後に続く会話はなかった。

 先ほどと同じように、効果音と背景音楽だけが流れていて、しかし沈黙の中に気まずさはなかった。


 敵を倒した広夢が大きく欠伸をした時に、再びスマホが鳴る。


 ――ピーピーピーピーピピー。

 

 先ほどの奇妙な呼び出し音とも違うそれは、明らかに意図をもって送られたものだった。

 

「元気出たっぽくてよかった。おやすみ」


 ほどなくして、広夢はそう言って2階へと上がっていった。

 リビングの時計は午後5時を指していた。



 

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