◇39 更けすぎた夜に




「やっと来たか。待ちくたびれたぞ」


 羽虫の飛び交う電灯の傍には、全く表情を動かさずに話す深路香奈の姿があった。心なしか、いや、いつもの雰囲気とは明らかに一線を画していた、が。

 そのすぐ隣に、いるはずのない、先ほど会ったばかりの人間がいた。


「……おい、どういうことだ深路。聞いてないぞ」

「どちらにも用事があるから呼んだんだ。同じ用事がな」


 僕の苛立ちを込めた問いに対し、深路の返事は答えになっていない。その隣で間の抜けた笑みを浮かべる男、石見和也――深路の前だからか使い分けた笑顔が気持ち悪い。ささくれ立つ気持ちは収まらない。


「2人揃ったから話すが、いいか?」

「いいよ」「……」


 じゃあ、と深路は早々に口火を切った。


「津島と石見の2人とも、三谷の事件はもちろん知っていると思う。石見は伝聞で知っただろうが、津島と私は直接死体を見た。その死体の特徴についてだが……津島、私の言いたいことは分かるか?」


 深路は僕をまっすぐに見つめる。

 強い視線だった。

 余分なものがすべて抜け落ちた視線と雰囲気の前に、小さな憤りなんてすぐに霧散した。処刑を待つ咎人のような気分で、ある程度心構えはしていたのに。


 正面からその視線を受け止めることすらできずに竦む。頭にはノートに描かれた絵が浮かんでいる。


「……僕は……」


 自分が何を伝えたいのか、何を言えばいいのか、いや言いたいのか。すべて自分で投げ出したものだった。だから答えなんて出るはずもない。

 何かを発声しようとした口は開かず、沈黙が続くほどに喉のところに真っ黒でどろどろとしたものが溜まっていく気がした。


「そうか……」


 その沈黙を、どういう風に受け取ったのだろうか。彼女は目を閉じ、小さく細く、そして長く息を吐いた。



 ――私はもう1年以上待ったさ。これ以上は……もう待てない。



「なあ与一。……私とお前は今、友達なんだろうか?」


 ……意味が分からない。

 くしくも深路が最初に発したのは、いつの日か僕が聞きそびれた質問だった。それはあまりにもこの場にはそぐわず、どんな感情から出されたものかも読み取れない。

 ただ心臓を握られたように、不正解を出してしまえば壊れてしまうような危うい空気感が肌に伝わり始めていた。


「……」

「私はさ、『友達』の定義をよく考える。いろいろな条件、要素が思いつくし、そのどれも正しくて間違っている。その定義は人それぞれで変わるものだからだ。そして、そういう概念を自分の中で確かなものとしたい時に考えることは1つ。自分がどういうものをその定義の中に入れたいか、ということだ」


 僕との会話ではなく自己対話のように。思いついたことを上から下へとなぞるように、ただ語る。


「そう考えたときに、私の中での友達は『自分自身が気を使わなくてもいい存在』だと思った。……三谷は友達だ。いい奴だし、気を遣わずに自分の思ったまま接することができる。心からそう思っているんだ」

「……そうだな」


 相槌を打ったのは直感的に対話を遮ろうとしたものだったが、止まることはない。

 三谷を除いて、皆似た者同士だ。僕も、コイツらも、自分の世界でだけ生きている。


「それと同じように、お前とも高校に入ってから仲良くやってきたつもりだ。津島、お前は私のことどう思っているんだ?」

「……深路の定義に当てはまるかどうかは分からないけど、僕も友達だと思ってるよ」

「そうか、ありがとう。私も三谷と、津島と、2人と友達だったと思いたい。……だからこそ津島。私はお前に聞きたいこと、いや言いたいことがある」



「お前が小学生までの記憶を中途半端にしか持っていないことは知っていた」

「……やっぱり、分かってたんだな」


 心臓を揺さぶった一方で、どこか腑に落ちるものがあった。

 あのノートの絵や陽だまりの秘密基地で感じた欠落感が過去に連なることは間違いない。自発的に過去を鮮明に思い出せたことなど一度もないのだから。難しいことでも認めざるを得ない。


 だが、違うのだ。

 この話は考えることを放棄した僕だけが、根本的に周回遅れしている。歪な安心感を得ている場合ではなかった。

 彼女はまだ僕の心臓を握ったままなのだから。



「六年前の事件を覚えているか?」


 6年前の、事件?


「……いや、具体的に言おう」


 ちょっと待ってくれ。



「お前が由香を、三谷を殺した本人じゃないのか?」



 ――深路の言葉は正しく心臓を握りつぶした。



「先日、お前は言ったな。犯人を捜すべきだと。――だが6年前のお前は違うことを私に言った。由香の事件について、やはりお前は何かを知っていたんだ」


 認識が追い付かない。話が飛躍しすぎている。

 

「1年生で再会したときに、津島がほとんど覚えていないことに気が付いたよ。俺と香奈は話しあって自分たちからは与一に言わないことに決めたんだ。だけど……」

「あの死体を見たら、もうそんなことは言っている場合ではないんだよ、津島。……私は今度こそ犯人を殺すつもりだ」


 2人の言っていることが頭に入ってこない。


 冷静に考えろそんなわけがない。それぐらいなら簡単に説明できるはずだ。できないとおかしい。だって自分のことだ。まぎれもないこの僕のことなんだ。小学生の時、僕がいて、深路がいて、石見がいて、由香さんがいて。……どうして顔が思い出せないんだ。そんな。あんなにいっしょに遊んだのに。遊園地に行って、それから……。何も思い浮かばない。こんな状態で殺していないと否定ができるのか? 今すぐには出てこないだけだ。一番楽しかった時期なんだ。忘れるはずがない。いや忘れているの、だっけ。そんな。たくさんの絵を描いたはずだ。1枚の絵に憧れて描きまくった僕の思い出だ。僕の部屋にそのノートだってあった。……どうして憧れた絵が全く出てこないんだ。そんな。それより前、それより前は? 顔、親の顔が思い出せない。いつからいなかったんだっけ? そんな。大好きな人がいたはずなんだ。顔は? 名前は? 今どこにいるのか? そんな。叔父さんの家に来たのが中学生になってから。それまで住んでいた場所は? そんな。6年前。そんな。照り付ける日差しと蝉の声の残響。そんな。そんな。森の中を1人歩いて。そんな。そんな。そんな。何かを見つけた。そんな。そんな。そんな。そんな。そんな。そんな。そんな。そんな。そんな。そんな。そんな。そんな。そんな。そんな。そんな。そんな。そんな。そんな。そんな。そんな。そんな。そんな。そんな。そんな。そんな。そんな。そんな。そんな。そんな。そんな。そんな。そんな。


 そんなはずがない。そうやって、否定することができない。


 分かってた。分かってた分かってた分かってたのに。

『津島与一』が欠けてることなんて、とっくの前に。


 だから埋めようと、変えようとしてきたのに。/――本当か?

 

 『僕』は、いつから、生きていたのだっけ?


 そんな当たり前のことさえ答えられない危うさを、こんな所に至るまで正しく分かっていなかった。


 頭が割れて中身が飛び出してしまわないよう、目を閉じ、無我夢中に顔を覆って押さえ付け続けた。

 自分の声で頭を埋め尽くさないと、狂ってしまいそうだった。


 

 ――次に目を開けた時に、2人の姿はなかった。

 

 荒い呼吸音は自分の口から。太腿からお尻にかけての筋肉が熱を排出する。


(逃げて、きたのか)


 そんなことが許されたのは深路の慈悲なのか、もう僕にはわからなかった。


 脳が暑さにやられているのか、視界は薄ぼんやりとして白く澱む。何度も周りを確認して、ようやくここが家のすぐ近くの道だと分かった。

 

 見慣れた家の前、仄暗いはずの常夜灯がやけに白んで、目に刺さった。

 ひとつ、ふたつ、みっつ。子供が初めて歩いた時のようなテンポで、目を瞑りながら足を伸ばす。


 敷居を跨ごうとして、何者かに肩を叩かれた。

 

「…………なん、すか?」


 常夜灯の真下、呼び止めてきたのは見慣れない人間。

 しかし、こんな、いっぱいいっぱいの僕でさえ、足を止めずにはいられない見慣れた服装。


「こんばんはー。ごめんねぇ、こんな時間に呼び止めちゃってねぇ」


 丁寧、より慇懃無礼さの勝る警察官の表情は、少しも柔らかくない。

 「津島与一君だよね?」瞳が見えないほど細く、鋭く。矢のように引き絞られ、一瞬で体を射抜いた。


 ――『お前が由香を、三谷を殺した本人じゃないのか?』

 

 耳を塞ぐこともできず、言葉が脳内を再びかき乱す。

 ぐちゃり、ぐちゃり、と輪郭がグズグズに混ぜられているのに、浴びる光がスポットライトのごとく、夜の闇に溶け出すことを許してくれない。

 視線に宿っていたわずかな憐れみが、更に頭を混乱させる。


「君の叔父さんなんだけど、端的に言えば友達を殺した犯人かもしれないんだ」


 もう/どうして。

 

「……ぁ」


 わけがわからない/こうなったんだ。

 

「ああああああぁぁぁぁああぁぁぁぁあああぁぁぁぁぁああぁぁああぁぁあああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」



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