◇38 遅すぎた自覚で




 翌朝、駅前の停留所から1週間前と同じバスに乗り込んだ。いつも通りに財布と携帯、そして音楽プレイヤーをポーチの中突っ込んで。

 夏休みシーズンといえど平日だからか、先日よりも人は少ない。ほぼ終点付近の白ノ森遊園地前に止まった時にはもう既に一人だけ。

 かくして、僕は再び西白森に戻ってきていた。

 蝉はジャリジャリ……と砂嵐のような音を延々と響かせ続けている。

 

 『何か行動しなくては』という気持ちが心の中に沸いていた。しかもそれが時間限定で、いつ消えてしまうかわからない不安定な代物であることも重々分かっていた。


 恐らく、今なのだ。今行動しなければ、僕はまた今日までの生活に戻ることになるかもしれない。何をすればいいのか、全く分かっていない。それでもどうにかしなければ。


 耳元で悪魔が、気の迷いだと囁く。

 否定はできない。これは一時的な感情の流れに身を任せようとする行為だ。後から振り返ればとんだ骨折り損の愚かな行為に終わるかもしれない。

 自分はどうするべきか? ――いや、今の自分はどうしたいか。


(僕に残っている物、か。もう取りこぼしすぎて、いくらもないかもしれないけど)


 “深路を裏切りたくない”。

 “天笠にもう情けないところを見せたくない”。

 “叔父さんを不安にさせたくない”。


 守りたいもの、大事な人間、ポンコツの自分の頭に入れておくのは、それぐらいでいい。


 1週間前と違って、僕を待ってくれている人は一人もいない。

 オレンジとイエローの派手色で彩られた建物はこの前と同じだが、中から声が聞こえてこない。営業は再開しているのだろうか。

 僕は遊園地に向かうため直進――ではなく、目の前にある遊園地を通り過ぎて蝉の声が強くなる方へ、裏山の方へとそのまま足をまっすぐに進んでいく。

 照り付ける日差しはだんだんと強くなっていた。


 懐かしい感覚を頼りに進んでいった先で、ボロボロに経年劣化した柵と『立ち入り禁止』の注意書きを見つける。

 肩ぐらいの高さの柵には大きな穴が開いたままになっていた。小学生ぐらいの子供なら難なく通り抜けられそうなほどの大きさで、何となく憶えもある。


(こんなに低かったのか)


 柵の上に手をかけ、難なくそれを乗り越えた。


 木々に囲まれた中は、相変わらず凄まじい熱気が滞留していた。すぐに全身から、べたついた汗が噴き出す。一度だけ吹いた風は、細く白い花びらを数片、足元に運んできた。

 そのまま歩き続け、膝に拳ほどの大きさの染みが作られるぐらいになって、僕は足を止めた。首を向けた方向にはか細い横道――その先が少しだけ開けた場所につながっていることを知っている。


 今一度、ガチリと拳を握りこむ。

 冷静になればなるほど、怒りを覚えずにいられない。何をやっていたんだ自分は。

 だって三谷が殺されたのだ。友達が殺されたのだ。

『仇を討たなくてどうする?』

 深路に言わされたことはあまりに恥ずべきことで格好悪い。そんな当たり前のことさえ、引きずり回したショックでできなかった。


 警察の捜査を指くわえて見ていることなどできるはずがない。

 そしてただの高校生である僕に、僕だけにできることが間違いなくあった。

 部屋の中で見つかった『らくがきちょう』と、そこに予言するかのように描かれた、一連の事件と同じ構図の死体。

 描いた記憶もなく、そのページは僕が小学生のとき、入院した6年前より以前に描かれたであろう状況証拠があるのみ。だがそれで十分だ。求める秘密は過去にある。


 足は自然と方向を変え、誘われるように踏み入れた。

 このスペースにだけ光が差し込んでいた。目に飛び込んだ陽光を、条件反射的に手で遮る。明順応してきた視界には懐かしさを感じる光景が浮かびつつあった。


 初め目に映ったのは、だれが何のために用意したのかずっと分からない小さな物置小屋。かつての僕らの秘密基地だった場所だ。あのころよりもさらに劣化していて、今にも木が腐り落ちて崩れてしまいそうになっている。

 近くに転がっている小さい丸太を引き寄せる。今の僕が椅子とするには大分窮屈な代物だったが、構わず座った。

 やはりここから見る風景も、目線の高さは違う……いや、言語化は難しいが、僕の中ではなくこの場所自体に懐かしさが引っ付いているんだ。


 なんだろう、あれ。

 小屋の入り口に何か書いてある。

 ここからはよく見えない。どうにか動かずに見ようと目を細めても、やはりぼやける。

 2メートルぐらいしかないはずなのに。いつからこんな視力が落ちた? 眼鏡のせいか?


 苦笑いしてから、立ち上がって歩み寄る。

 目の前まで来れば分かった。

 人の名前だ。筆跡もバラバラ。黒のインクも剥げかけている。


 ――『香奈、与一、和也、■■、由■』。


 静かに伸ばした右腕と指先。インクの残り滓に触れ、そしてゆっくりとなぞる。

 目を瞑らずとも、どこかから子供の笑い声が聞こえてくる。

 無邪気で、明るくて、楽しくて、鮮明に聞こえれば聞こえるほどどうしようもなく懐かしくなる類のものだ。


 最後の字をなぞり終えた手を下ろして、気づいてしまう。


(忘れていることは、僕が思っていたよりもずっと)


 この場所を、文字を、思い出を、失っていた自覚などない。

 むしろ半端な記憶こそが、退院以来一度もここに立ち寄らなかったことを――、らくがきちょうと初めから感じていた死体への既視感を、“異常”だと訴えるのだ。


「――大事なものが、欠けてる」


 言葉は認めたくない事実を否応なく確かにする。

 呼吸の間隔が早くなる……早くなっていくのに。

 どくん、どくん。胸まで持ってきた手から伝わる鼓動は、気味が悪いほど落ち着いたままだ。心中に落ちてなお、浮き立つのはさざなみ程度。


 ずっと握り込んでいた左手を緩める。

 どこからともなくそこに“在った”ナニカが零れ落ち、広げ残ったのは目に見えるほどの汗粒。



 ――ガサリ。


 草木の誰かに踏まれる音が、空間をひっかいた。

 息が止まる。背筋が凍る。差し込んでいたはずの陽が雲に陰り、暗く固まった世界で受け入れていたはずのナニカの黒が視界に刻みついた。


「よっ! なんか久しぶりだな!」


 不快になる爽やかさで飾り付けられた言葉。

 振り返った目が捉えたのは、笑顔を浮かべる石見和也の姿だった。



「与一、遂にお前もここに戻ってきたんだな。思ってたより結構長かった」


 やかましいはずの蝉の声に、かき消されてはくれない。


「……どういうことだ。お前がなんでここにいる」

「おいおい、俺が居たっておかしくないだろ? なんたってここは“俺らの”思い出の場所なんだから」


 口ではそう言った石見の目は、別の含みを持っている。そう感じた。

 言っていることはおかしくない。小学生の頃は仲良くしていた、はずなのだ。


「なんでいつもそんなに警戒されてるんだよ? 俺なんかしたっけ?」


 あまりに白々しい言葉だ。反吐が出る。

 直感が即答するのと裏腹に、その理由がわからず言葉にならない。


「ふざけるな。……都合よく被るわけがないだろ。付けてきたのか?」


 だから話題を切り捨て、突き放す。するしかなかった。

 しかしおどけた表情のまま答えない。無視以外の選択肢を取ってしまった愚行に気づかされる。


 ……こんな奴なんかどうでもいい。もとより細い線であったが、やはりこの場所に犯人へ繋がるものはなかった。

 再び考え直さないといけない。何処を探すべきなのか。

 立ち去ろうと決めるまで僅かな時間も、石見はずっとこちらを観察し続けている。宿っているのは怒りではなく、理解の及ばない愛憎。

 それなのに、どうして。


 ――『目を見て、話せ』


 あの日の深路と同じものを。


「当ててやろうか? 犯人の手がかりを探しに来たんだろ?」


 口が開かれた。僕にとっては突然。

 浮かべる顔が満足なのか、石見は器用に口角だけを吊り上げる。内容はあまりに真実で、恐怖を追い越して稚拙な怒りを沸かせた。


「どうしてかって? 深路も同じこと言ってここに来てたからな。似てるだろ、お前ら」


 自分の手札を見せびらかすように一人語りが続く。都合よく、耳障りだ。


「でも随分と悠長なんだな。三谷が死んだぐらいじゃ大したことないってか?」

「は?」


 神経を逆撫でされる。石見はそんな反応が嬉しそうに、より角度を上げて子供のような笑顔を作った。無邪気とは程遠い、邪さを多分に含んで。


「ま、のんびりしてる暇はないと思うよ。想像しているより多くの人がずぅっと与一に待たされているんだから。我慢の限界ってやつ? ――ほら噂をすれば」


 緊張感に包まれたこの場にはあまりにも不釣り合い。石見のスマホが、らしく爽やかなメロディで告げた。

 同時にポケットに収めていた僕のスマホも振動した。


 それは目を逸らして曖昧模糊に過ごした長い日々の、ストップウォッチが止まるアラーム音でもあったのか。

 砂時計が落ち切ったかのように、いつの間にか蝉は静まり返っていた。


 そして放棄した思考を拾い上げるにはもう遅すぎるのだと。

 世界の死角なんて、とうの昔に崩れ落ちてなくなっているのだと。

 ようやく、少しだけ、気づかされた。



――――――

――――



 午後8時近く。

 どうにもならない粘りを見せた太陽も、すでに沈んで何処の空であった。辺りは闇と静寂に包まれていたが、その外気は纏わりつくような熱の残滓を未だに抱えている。

 いつもであれば煌々とする職員室の光すらも、終業式の日を過ぎてしまっては最早存在しない。静けさの中、校舎は幽鬼のように存在感を失くして佇んでいた。


「……よ」


 門の前で足を止める。

 音楽プレイヤーにつながったイヤホンを耳からとりながら、少し前に連絡をよこした目の前の人物に向かって小さく手を挙げた。



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