◇37 ありふれない日曜日の意義②
メビウスに、現代アート展の看板はもうどこにもなかった。
「先輩2時間しかないですからね! 出来るだけたくさん回りますよ!」
引っ張られるまま5階のスポーツ系の娯楽施設まで直行する。
メビウス自体は3週間前とほとんど変わっていない。幼い子供、若者、父母から祖父母まで、休日であるからこその多様な人だかり。足を踏み入れた5階はその広さゆえに密度は存外高くなかった。
施設の受付を通っても、ずっと腕を引かれ続ける。サッカー、テニス、バスケだの、とにかくいろいろなものに付き合わされた。
ゴルフは酷かった。コースはパターしか使わない簡易的なものだが、僕と天笠はどちらも初心者。僕と違って運動神経があるのか、天笠はしばらくして立て続けに良いアプローチをし始めた。ときおりすっぽ抜けたグラブが頭付近に飛んでくるため常に緊張と恐怖の隣合せだった。
天笠は知らないし、関係もない。だからこの気遣いは彼女の性格によるものであり、時間が経つにつれて罪悪感さえ覚えた。気乗りしない体の動きは、やはり鈍かった。
「はいはい次行きますよー! もうあと半分しかないですからねー!」
僕はもうヘトヘトだ。
運動は好きだし、苦手でもないのだが。夜からここまで何も口にしておらず、空腹からくる虚脱感で力は沸いてこない。
楽しくないことが、楽しくない。
――こんなことをしていていいのだろうか。
対照的に、深路の元気は留まることを知らなかった。もう既に2時間以上遊び倒しているというのにもかかわらず。
今度はちょうど台が空いた卓球のスペースへと引っ張られる。
他のスポーツはネットで区切られていたが、台ごとに個室が用意されている。部屋の中は非常に簡素な作りで、得点板を置いた机と卓球台、それらが必要最低限のスペースだけで構成されていた。
「はい先輩これ。10点先取!」
先に部屋へと入った天笠は傍の机に用意されているラケットとボールを手渡してくる。本人はもう1つのラケットを持って台の逆側へと小走りで向かった。
「サーブは2本交代ですよ。じゃ、どうぞ!」
向けられた真っ直ぐな視線に促されるまま、手元のピンポン玉を軽く打ち出す。
ふわりと弱い打球に対して、クレイジー天笠は全力のフルスイング。捉えたボールが卓球台へと勢いよく突き刺さる、ことはなく明後日の方向へと飛んでいく。
球は壁に当たって何度か跳ね返り、僕の足元へと転がって戻ってくる。息を吐き出しながら、何も言わずに拾った。
「あらら、おかしいなー?」
そんなことを言いながら、天笠が僕の得点板を1枚めくる。どうやら真面目に狙ったらしい。
飛んでくるのがピンポン玉で本当に良かった――いつもの僕ならそんなことを考えたはずだ。
次のサーブ。僕は先ほどよりもさらに強く、若干低いバウンドで打つ。
が、無情にも天笠は同じく全力フルスイング。先ほどよりも低い球にそれを試みたことで、宇宙開発、と言わんばかりにさらなる彼方へと飛んでいく。
跳ね返ったボールは僕に当たって止まり、先ほどと同じように足元で静止した。
……はぁ。
大きくため息をついてその場にしゃがみ込む。
「……ちょっと休憩ね。もう疲れたから」
ピンポン玉を拾い、握ったまま壁に背中を預けた。色々なものがピークに達しており、もう何もする気が起きない。
意外にも天笠はそんな態度に何も言わず、卓球台に寄りかかって僕を見ているだけだった。
目の奥に暗いものを一切感じない純粋な視線。……覗き込んでしまえば深路のように苛烈な激情が映っていそうで、恐ろしい。あまりにも見続けるから、何かを見定めているように感じてしまって思わず顔を俯けた。
――こんなことをしている場合なのか。
黒い少女はどこにもいない。咎めるような視線もいつの間にか感じない。
しかし自分への疑念は、もはや誤魔化しようがないほどに内側から吹きあがってくる。
沈黙は少しの間続いた。いつもと違って、天笠は何も言わない。
そんな慣れない状況に、ひどい居た堪れなさを感じていた。こいつは何も関係ない。すべては被害妄想だと、分かっているのに。
「ずーっと浮かない顔してますね、先輩」
不意に言葉が放り投げられ、顔を5度ばかり僅かに持ち上げる。予備のピンポン玉をラケットの上でリフティングして弄んでいた後輩からだった。
「それは……そうだろ」
だって三谷が、なんてことは言わなくても……藪から棒によく分からないことを。
「私だって分かってますよー。でも先輩、本当は何に悩んでるんですか?」
「僕にだって分かんないよ!」
そんな簡単な言葉で――と思わず声が大きくなる。
透明な仕切りの向こう、幸いにも個室の外で振り向いた人はまばらだった。
天笠は怯んだ様子もなく、視線を跳ねるピンポン玉に固定したまま。ほへー、と気の抜けた呟きが聞こえてきそうなほどいつもと変わらない顔をしている。
……拍子抜け、というか。彼女の深いところを、僕は全く理解できていない。
握っていたピンポン玉が温い。自分が急速に萎え込むのを感じ、ため息交じりに再び俯く。
「……天笠さ。自分の存在意義、とかって考えたことあるか?」
その質問はある意味で、ただ沈黙を埋めるためだけの空っぽなものだ。
思考停止に慣れきったクソガキの自分は、頭に渦巻くものへの答えだけでなく、その問いすら具体的に作ることができない。
それが今の僕にできる精一杯で、だからこそ自然と胸から溢れた言葉でもあった。
「やけに抽象的なこと聞きますね? ひとごろし―、とか犯罪じゃなければなんでもいいんじゃないですか? だって先輩、そんなものないって思ってる人でしょ」
「そう思ってたんだけど……最近よく分からない。……今までこれでやってきたはずなんだけどな」
拙く、拙い。どんなに絞っても言葉が詰まってしまう。
自分の心を翻訳して話す作業の経験値はほとんどないせいだ。だから繕うことなど考えず、そのままで話す。それが、なおも浅ましく救いを求める自分にできる、最低限の礼儀だった。
「向き合わなきゃいけないって分かってるんだ。……でも怖いんだ。どうしようもないぐらい怖いんだよ。恐れて向き合わなかった時間ですべて手遅れになっているのが。それを直視することが」
忘却は欠落だ。欠落した世界は、気を抜けばいつもどこかが零れ落ちている。……三谷も、あんなに大きい存在になっていた三谷さえも、取りこぼした。
取り返しなんてものが、これからつくのか。ついてなるものなのか。
こんな状態で、自分はいったいどうやって今の生活を拾い上げ、何に意義を見出せばいい。
「センパイって自己中ですよねー」
言い方に棘のようなものは全くなく、それこそ球を指で弄びながら、ただそうだと少女は断じた。
瞬きをする。耳に入ってきた言葉が少し信じられなくて、間を置いた後に、思わず目を見開いた。
「いつだって自分のことでしか悩んでない。自分のことだけで苦しんでる。いつだって自分のことで精一杯だから、周りのことに目を向けなくても許されると思ってる」
「……それは」
視線を落とす。天笠は特別何かを取り繕って話していない。見なくなってそんなの分かってる。
他の客が発する笑い、叫び、混ざった喧騒の中に、カツリと爪でピンポン玉を弾く音がやたらと響く。
「三谷先輩のことだって、実際のところほとんど考えてないですよね。かこつけて、自分事に貶めて、苦しんで思考停止してる。悩んでるのは本当なのが質悪いですよね。断言しますよ。先輩がこれから先、満たされた世界の中で安心を得ることなんてないですから」
それは最早確信めいた預言のようなものだった。
喉の奥でくぐもった音が言葉になることはない。情けなさに、思わず口角が上がって顔を押さえて、思考を止めた。
天笠の言うとおり、思考は誰のためにも回っていない。
有り体に言って図星も図星。だからって、どうしろって言うんだ。
自己中心的な思考を抜いたとて、身体には虚脱感が残るばかりで。
「どうする、というのは自分で考えるものですよ。他の人は知りませんけど、私はセンパイのそういうところが好きですから。あくまで私の見解は私のもの」
天笠の思考を推し量るのは、思考を回すことと同じぐらい難解だった。
「――おっと、こんなことを言いに来たんじゃないんですよ私は」
天笠がうーん、と少し考えるような仕草をしてから、足りない身長を補って尊大に構えようと、腕を組んで仁王立ちして顎を持ち上げた。座り込んだ自分を見下すには十分であった。
「先輩って、あれですかね? 過去をいつまでもひきずるタイプの人ですか?」
その質問が意味するところはよく分からない。
自分は賽子から出た目をそのまま肯定することしか知らない。そういう人間、そういう人生。であるならば誰のためにもならない後悔などあるはずがない。――そう言い切ることのできない矛盾の塊だと分かっていながら、目を瞑って気づかないふりをしていた。
だからそれはある意味で正しく、そして正しくない。
「私、後悔とかしたことないんですよねー。優秀ですし」
「え」
雰囲気も何もない。
すんごく軽い。軽い答え。そんなのありかよ、と思わず口にするほど。
「でも超天才ではないので、同じように失敗することはたくさんあります。――意外ですか?」
「まったくそんなことはない」
「またまた御冗談をー」
その根拠のない自信はなんだ。
冷ややかな言葉にへらり、と笑って天笠は続ける。
「それで、優秀な私と先輩の違いは何だと思いますか?」
「……失敗を失敗と思わない、とか」
頭を下げ尋ねているのは自分の方であることは分かっている。些末な引っかかりは無視し、いたって真面目に答えた。
そうやって捻り出した答えは、天笠への分析であり、また自己認識の鏡であった。
しかし天笠はわざとらしく、それはもうわざとらしくかぶりを振って溜息をつく。……答えはお気に召さなかったらしい。
「あのですねーセンパイ。失敗は失敗ですよ。そこから目を背けたって、ただの現実逃避じゃないですか」
それこそメンドウですよ、と天笠はケラケラ笑って否定する。
釣られ笑いを出そうとして――頬が引きつった。自分には重く、痛い。
「単純な話ですよ。後悔する前に払拭するんです」
いつも通りの笑顔のまま、出てくる言葉だけが再び堅くなった。
「人間誰しも行動には思考が伴います。これは優秀かどうかは関係ありません。ひねても、蓋をしても、過去の自分との連続性は切り離すことができません。たとえ記憶が曖昧だとしてもです」
その言葉が、あの天笠から出ている違和感に、何度だって目が回りそうになる。
くだらないことばかりする。何を考えているのかわからない。そんな風に作り上げて勝手に固定していた「友達」のイメージが少しだけ崩れ始めていた。
「私にも聞かなかったこと、言わなかったこと、いろいろ考えます。私だって先輩との会話、将棋の戦略1つ取ったってそう。人間の存在意義――意義を持つのはいつだって過去の積み重ねですよ」
言葉が重く、痛い。その回答が最初に自分の口から出たことは、無意識ではなかったから。
そんな表情を見てか否か、天笠はまた笑う。
流れる言葉とは裏腹に、結局天笠は一度も真面目な顔を作らなかった。
「例えば記憶。例えば情熱。友達、自信、日常、魂……。今の先輩がその多くを、大切な多くを既に落っことして失くしてしまっていても、すべてなくなることなんてないんですよ。いいですかセンパイ。先輩は多くの大切なことを忘れてしまったスカポンタンで、忘れてしまったことに恐怖と後悔、絶望なんかしているみたいですが、案外残っているモノの方が忘れているものですよ。人間というのは」
ちっとも僕のことなんて考えていない。「残っているものを使って、こう、上手いことちょちょいと」なんて、天笠から出てくるのはいつだって彼女と世界の相対関係だ。
僕らは似た者同士なのかもしれない。初めてそんな事を思った。
天笠の言うとおり、これは自分で考えることだ。だけど、しっかり熱になって伝わった。
「……そろそろ再開するか。くだらない問答に付き合わせて悪かったな。満足するまで付き合ってやるよ」
「やったー」
――――――
――――
「ありがとうな、今日。わざわざ誘ってくれたんだろ?」
「それを私に聞けるぐらいには元気になったようで良かったです。先輩は調子に乗っているぐらいが良いと思いますよ」
「……なんか馬鹿にされてる気がするんだが」
「あはははは」
絶対に馬鹿にしてやがるなこの野郎。
天笠は僕に負ける度もう1ゲーム、もう1ゲームとせがみ、僕らは残りの時間を最後まで目一杯遊び倒した。土下座を賭けた卓球でも当然僕が勝利した。
終了時間になると、当然のように僕はヘロヘロ。流石の天笠も疲れ調子で、2人して近くのソファーに座り込んで休んだ。
1階のフードコートに寄ってかなりの遅めの昼飯兼夕飯を取った後、メビウスを出た。
僕も、天笠も何も言わなかったが、そのまま駅へと真っ直ぐ向かった。10分ほどでホームに来た電車に乗り込む。
開いている座席に2人並んで座ると、途端に眠気が襲ってくる。肉体的な疲労もあるが、むしろこれまでの精神的な疲労の蓄積がピークに達していた。瞼が重くて目が開かない。
まだ、大事なものが僕にはある。強く意識にあったのはそれだけ。
次第にそんな思考も薄れていく。何度も船を漕ぎ、遂に意識が飛びかけたその時。
コン、と肩に何かが当たる。
1回。2回。3回。
繰り返すその感覚を感じながら、安心して意識を手放した。
その後、奇跡的なくらいちょうど東白森駅で目を覚まし、慌てて電車を降りた。
隣にいたはずの彼女は、もういなくなっていた。
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