◇34 irreversible things
歩いて。
歩いて。
歩き回って。
ふと気づいた時には、ぶ厚い雲の中にあった太陽は既に西側の隙間から、見える範囲のある1か所を橙色に照らしていた。
本来その場所は光の差さない陸橋の真下。いずこの隙間から差し込む西日でハイライトを浴びていたのは、いつかの露店商。
家へと帰るだけのはずだった僕の脚は、街頭に誘い込まれた虫のように、意思もなくその場所へ近づいていた。
「……いらっしゃい」
そこには見覚えのある白髪の店主が、簡易的な椅子に足を組んで小さく腰掛けていた。言い知れぬ力強さを感じさせるその人は、暇そうに紙煙草を吹かす。
「お兄さん、ここに来るのは2度目だねェ。そんなにこの店が気に入ったかい?」
「……」
話したい気分でもなく、押し黙ったまま。
物好きな奴もいるもんだ、と店主はそんな僕をからからと笑った。
「それとも、なんだ、人生にでも迷っちまったかい?」
店主のあまり開いていない目が、一瞬鋭くなったような気がした。
僕はその微弱な雰囲気の変化を十分に認識しながらも、理解できず、それよりも店主の視線に不快さを感じていない自分に驚いていた。鋭くて、柔らかい。そんな矛盾した印象を抱かせた。
ずっと黙ったままの僕に呆れたのか、ふーっ、と店主が長くため息を吐き出す。
つかの間の沈黙がその場を包んだ。
「…………ぁ」
そこでやっと、纏う雰囲気が異端であることの異質さの一端に気がついた。
「なんだい?」
顔を見たところで固まって動かなくなった僕を見て、店主が声をかける。が、反応しない僕を見て諦めたのか何も言わなくなった。
――この人の周りからナニカが見えない。
いたるところに存在する黒いナニカは、人間にだって少なからずついているものである。それは眼鏡無しで生活した2週間ほど前に分かっていたことだ。
だが、目の前の店主にはいっさいそれが見えない。感じることすらできない。以前見かけたときは眼鏡をしていたから意識もしていなかった。
自分事ながら気づかなかったのも仕方がない。自身を含めてさえそんな人間、一度だって見たことがなかったのだから。
何か言葉を吐いてその場を埋めようとするが、上手く話すことができない。思考が回らない。
言葉に詰まった僕は意識をもう一度現実世界――目の前の店主に向ける。
結界の類でもあるのだろうか、そんなことを本気で考えるほどの無。不思議な雰囲気と関係があるのだろうか。
……とっ散らかった空回りを始めそうになる。
「お聞きしたいことが、あります」
実際、迷っていることは山のようにあった。さっきから頭の中ではいくつもの光景が現れては重なり続け、もはや黒一色と化していた。
会うのは2回目。知り合いでも何でもない。だから話して意味のあることは少ない。話せない。
「……死に引き寄せられる黒い物体について、何か知りませんか?」
それでも、思考にもならない記憶の嵐の中で、見えた微かな光明へ飛びついた。
ずっと黙っていたにもかかわらず、言葉はするりと喉を抜けていった。
いくつもある悩みの中で老翁に聞きたいことは、これしかなかった。
あの日から僕は誰にもナニカについて説明したことはない。理解されないことが分かっていて、それを口に出すことで奇異の視線を向けられることも、言葉上で存在を認めることすらも嫌で仕方がなかった。
初めて打ち明けるのがそんな人間とは、自分でも不思議な感覚だった。しかしこれは、深い思考によるものではなかった。とっさに口をついて出たのが最初の疑問だっただけ。
……いや、そんなどうでもいい人間、直結しない問題を選んだのかもしれない。自分は。
「ふう」
頭のおかしい人間と思われてもおかしくない質問に対して、店主は特段変わった反応は取らなかった。
世間話をしているのと変わらない様子で、手に持った煙草をゆったりと口に咥え、煙を深く吸い込んでから僕の方に向いた。
「逆にお兄さんは何を知っているのかい?」
視線は先ほどと同じように鋭い。しかし、心なしか先ほどよりもその目が開かれているような気がした。
予期せぬ返答に、僕はただ怯んだ。
僕は……僕は何を知っているのだろう。
答えなんてわからない。それでも何か言わなくてはいけない気持ちに駆られて、僕は頭に浮かぶ言葉を必死に吐き出した。
「……よく分からないんです。最近死体人形に会ってからソレが見えるようになって、……でも他の人には見えていなくて……眼鏡をかけてごまかして……それでも結局無意味なことで」
自分で言っていても支離滅裂。そんな言葉を店主は黙って聞いていた。
「……今でもソレが直視できない、向き合えないでいるんです」
顔色1つ変えずに、頷くこともせずに、「それで?」と、左手に持った紙煙草の煙を燻らせる。
「ああそれで終わりなのかい。随分まあ大したことないことで悩むものだねェ、最近の若い子は」
「……そうでしょうか」
「そうだとも。最初に言っておくが、私はそんな黒い物体など知らないし見たこともない。恐らく世間一般の人間もお兄さんの言っていることには首を捻るだろうさァ」
ふーっ、と煙を吐き出す。
拍子抜けしたような口ぶりにも憤りは感じなかった。
ああやっぱり……という思い。それと、自分以外に理解されてたまるか、という変な自尊心の2つが顔を覗かせていた。
「だって関係がない。そうだろう? 他人に何が見えていたって自分の人生には何も関係がない。大小差はあれど、人間自分にしか見えないことなんて抱えているもんさ。お兄さんが見えているそいつだって、人には違うもので見えているかもしれない。もっとおぞましいものが見えているかもしれない。人が鬼に見えるとはよく言うものだろう?」
言葉は続く。
「でも、人はそれを口に出さない。なぜか? それはどうでもいいことだからだよ。誰しもが自分の頭の中に描いた『普通の世界』を他人と共有して、その中で生きているのさ。他人も自分も無視してね」
くゆる煙の元が一瞬だけ赤く光る。
「お兄さんはもっと自分をないがしろにするべきなのさ」
「……そんなものですか」
「そんなもんさ。お兄さんの何倍の長さの人生を生きている私が言うんだから間違いない」
いつの間にか店主の隣にはあの黒い少女が立っていた。店主はその少女が見えているかのようにそちらを一瞥すると、自らが腰かけているのと同じ簡易的な椅子を自らの後ろから引っ張り出す。
目の前に置かれた椅子に少女は静かに座り、退屈そうに足を揺らしている。
この時、6月2日以来初めて、僕は少女の顔をはっきりと確認した。
(……こいつの、顔)
あまりに似すぎていた。
先ほどまで一緒にいた、天真爛漫な後輩の顔と。
無表情な黒い少女とでは差が激しすぎて全く思いつかなかった。
すなわちそれは、深路ともよく似ている。偶然では片づけられないほどに。
いったいなぜ?
僕を置いてきぼりに店主の話は続く。
「……私が見えているものと、君の見えているものは恐らく違う。だがそんなことはどうでもいいことなんだよ。自分自身に縛られていたら、この先恐らく君は今の悩みと同じものを抱え続けることになるよ。だからこんな風に――」
そう言って店主はタバコを持っている左手を、少女の顔を目掛けて水平方向に振りまわした。
「えっ、あ……」
違うことに意識が向いていた僕は店主の突然の凶行に全く反応できず、その一部始終をはっきりと見届けることになる。
店主の持つ煙草の先が白い肌を焦がそうかというその瞬間に――その手は少女を貫通した。
少女の頭部はまるで煙のように周囲に霧散していった。その気体のようなものは段々と少女の足元まで降りてくると、そこで『ナニカ』に変わった。……しかしそれでも少女のものだった体は、何事もないかのように変わらず足を揺らしている。
目の前で繰り広げられる異様な光景に、僕は黙って見つめることしかできなかった。
「――適当に振り払ってしまえばいいのさ。どうせ人間1人じゃ生きられないんだ。自分の世界、過去の自分、そんなものより大事なのは……」
店主が今一度視線を戻し、僕に発言の答えを求めるように顎でこちらを指す。
「……今の生活、ですか」
「そのとおり」
異様な光景に立ちすくみながら答える。
店主はその回答に満足したのか、再び吸い込んだ煙を溜息のように深く吐き出す。静かに横のスケッチブックを引き寄せ開き、更に目を細くして眺めだす。
それっきり老人は何も言わなかった。
店主の言っていることは少しだけ理解できた。確かに心のどこかに刻まれた。
しかし朱に色づいて輝く露店とは対照的に、頭の中は曇天のような鈍色のまま。
こんな僕に、今の僕に、大事にするべき生活なんてあるのか。自信が持てなかった。
全てを振り切ってしまいたかった。それにはまだ、脚が重すぎて。
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