◇33 nothing to change




 数日後、学校は何事もなかったかのように再開された。

 ……それは言い過ぎか。学校は、特に教師の雰囲気はまだピリピリしたものとなっている。死体のあった池の近くは未だ立ち入ることが許されていない。僕の知らない裏側でだって、多くの話し合いがあるのだろう。

 

 だが今日はもう学期の最後の日。今日――終業式さえ過ぎてしまえば、9月には『いつも通り』に戻ることが予想できた。


 対照的に、生徒の側は休みを前にして浮かれている様子の方が多かった。善悪を抜きにして、噂が蔓延していた時と、雰囲気は微塵も変わりがなかった。

 関わりがなくとも学校で事件があったことは聞いているだろうが、詳しくなければそんなものだろう。いなくなった人物のことを知っていても、僅かな喪失感は時間が埋めている。ほとんどの人の中でそれはすぐに終わってしまう。

 当事者意識なんて要求するものじゃないと、分かっている。それでも。


 窓の外に映る、どんよりと灰色の雲が立ち込める空から視線を外して、前方に戻す。

 ぽっかりとした視界にはいつもと違って深路が映り、思わず目線を下げた。今は何を話していいのか分からなかった。

 目の前には、誰も使っていない机と椅子がまだ残っていた。人もいない、中身もすでに引き取られているとあって、本当の意味での空き机。花瓶を置くことなんて都市伝説であることを知った。


 午後になって今学期終了のチャイムが鳴っても、1人でぼんやりとしていた。世界のナニカがいつもよりずっと色濃く感じる。

 独りでいることが随分と久しぶりに感じた。


 寂しさなどは微塵も感じなかった。

 ただただ、空虚。

 そんな言葉1つでの思考停止を望んでいる、どうしようもない自分の姿を宙から見つめる。そうやって冷静でいようとすることにもひどく唾棄し、嫌悪を向けた。


 ……もう帰ろう。

 荷物をまとめて教室を出て、下駄箱に向かった。帰宅する生徒たちの中、ただ淡々といつも通りの動作をこなして歩き出す。外はまだ黒い雲に覆われているため、この時間でももう薄暗い。目に映る明暗の情報だけを脳が処理していた。


「やっほー!」


 ぼんやりと校門を抜けようとしたとき、後ろから思いきり突き飛ばされる。思わず、あっ、と声を上げ、転びそうになったところを踏ん張る。

 思い当たる人物が1人しかいない。ため息をついて振り向いた。


「……」

「うわぁ、ほんとに暗い顔してますねー。背中だけで伝わってきましたよ」


 天笠は全く悪びれる様子もなく、からからと笑っている。視界に後輩が映っているのに脳は情報処理を始めてくれない。

 上の空で固まっている僕を見て、天笠は更に笑った。


「なんですかー? 魂でもどっかに落としてきましたかー?」

「……おい」


 不謹慎だ、そう言おうとして、言葉は喉元で詰まった。自分に向けられた視線が想像よりもずっと真面目だったから、逆に鳥肌が立った。


「そんなに怖いですか。直視するの」

 

 一口に表せないごちゃ交ぜの感情は、しいて近いものを挙げるとするならば、恐怖だった。


「あー……」


 天笠は一度何かを言いかけて止める。少しの沈黙の後、何か調子を変えるように軽く手を叩いた。


「忘れてませんよね? 私との約束」


 そんなことを、僕に問いかける。

 やく……そく、やくそく、約束?

 正しく変換されてもすぐに思い出せない。


「ええー。まさかの本当に覚えてない感じですか?」

「……覚えてるよ。メビウスだろ」


 嘘だ。

 今の今まですっかり忘れていた。

 先週、もう一度メビウスに行く口約束をしていたのだった。


「先輩、私が連絡取ろうとしても全然反応しないし。今週は厳しいかもしれないからいつが都合いいですかって聞いてたのに!」

「……すまん」

「だから今日直接その話をしに来たんですよ。まったく」


 腕を腰に当てて、いかにも怒っていますと言いたげな態度をとる。


「先輩の様子を見て決めました! 明後日メビウスへリベンジに行きます。拒否権はないですから」


 捲し立てるように天笠は続ける。言葉を挟む余地がない。


「日曜日、この前と同じ場所で! 9時集合ですよ! じゃあ!」


 そう言って僕の背中をもう一度叩くと、怒涛の勢いで走り去っていた。


 走っていた方向を見つめてしばらく固まっていると、周りの視線を感じ、早歩きでその場を後にする。

 どうしていいか分からない。

 どんな感情でいればいいのか分からない。

 現実感がない。現実感のないままで……いさせて。


 天笠に言われたことも、その態度も――いや、気が付いてはいたのだ。理解したくなかった。


(……だめだ)


 自分でも分かっている。この思考がどこかで破綻するということは。


 6月2日のあの日から、自分に必死に言い聞かせてきたのだ。これから僕はこの黒いナニカと付き合って生きていかないといけない。適応しなきゃいけない。自分の世界がいきなり破壊されてたまるか。必死にもがいて、耐え難い頭痛、堪え難い嫌悪感を言い訳にしか聞こえないような都合のいい解釈で我慢してきた。……我慢してきたさ。明るいところに行けば否が応でも目に入る状況で、学校だってあまり休まなかった。逆に努めて行こうとした。自分の日常が、世界がナニカによって浸食されていることを完全に認めてしまうようで嫌だった。顔を上げて人と会話することが面倒くさくなり、暗くした自分の部屋に籠ることが多くなっていることは分かっていたし、正直自分でも辛かった。段々段々、ゆっくりゆっくりと諦めの方向へと心はねじ曲がっていった。そんな時に、鏡越しにナニカが写っていないこと、眼鏡をかけたときに以前の状態へと戻った視界に気づいた時には本当に涙が出そうなほど嬉しかった。ようやく戻れる。「普通」の状態に戻れる、って。


 だけどそんな姿をあざ笑うかのように。

 塞いだ手のひらの隙間から少しずつ黒い水が滴り落ちるように汚れていく。

 フィルタを作っても、もやのようにうっすらと――少しずつその濃さを増しながら――世界が侵食され欠落は止まらない。


 ナニカは眼鏡を貫通し、『津島与一』が否定され、友達は死んだ。


 人と車の区切りがない道路、その端の方に一か所、ナニカが異常なほど集まって蠢いているところがあった。メビウスの絵のように、そこを世界から切り取ってしまうほどであり、何があるのかは全く見えない。

 立ち止まって、その光景を眺めていた。面白くもなかったが、つまらなくもなかった。目の前の地獄のような惨状が確かにこの世のものであり、自分の抱えている現実であることが口角を歪ませた。


 しばらくしていると、小さめのワゴンタイプの車がその場所の近くに止まった。車からは透過率の低いビニール袋を携え、ゴム手袋をした人が降りてくる。その人はナニカの場所まで歩くと、その中へと手を突っ込む。

 掴んだそれを持ち上げてビニール袋に入れるとき、纏わりついていたナニカが零れ落ち、何であるのかが少し見えた。

 轢かれて潰れた鳩の死骸だった。

 

 舐めるように這いずり回っていたナニカは果たして悪魔か死神か――その疑問に、場面に、驚きがない。

 ……そうか、これも『僕』は知っていたんだな。


 気持ち悪い葛藤の中で、歩く足を再開する。ただ、その足取りはどこに向かうのか分からない、迷い人と同じものだっただろう。



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