◇32 not just anything




 その日は朝から身体が重かった。

 瞼を閉じて横になると、毎日のように三谷が夢に現れていたから。そして何より、あの構図以外の出来事が、思い出が、現実に持ち出せなくなるほど薄れつつあるのが恐ろしかった。

 

 半ば足を引きずるような気持ちで辿り着いた通夜の会場は、思っていたよりずっと大きい。ずっと多くの人が来ていて、つつがなく式が終わっても多くが会場に残ったままでいる。通路のガラス張りの壁から差し込む光も未だ明るかった。


 いつぶりだろうか。斎場なんて。


 脳内にフラッシュバックした過去の映像に少しだけ思いを巡らす。憐れんだ目で見つめる周囲の大人たちと、隣で優しく手を握ってくれた人物。そして――誰かが写った写真をたった1人で見続けている僕。葬儀場か、どっちだったかな。


 こんな場所には死者の霊がいるなんてとんだ嘘っぱちだ。ナニカの多寡はいつもとなんら変わりがない。人が儀式を行うための場所でしかないことは昔から知っていて、それでも胸の奥にわだかまるものがあった。


「やあ」

「……よ」


 声を掛けられた方へ振り向くと、深路がそこにいた。

 会うのはあの日以来だった。

 深路は、恐ろしいほどにいつも通りの落ち着いた顔をしていた。僕にはそれが無機質で不気味な能面のように感じた。


 沈黙が続く。掛ける言葉も、返せる反応も持っていない。


 深路はそれ以上何か言うこともなく、横をすり抜けていく。向かったその先には待っている石見の姿が見とめられた。

 歩いていく2人を見つめ、やはり何も言わずにただ立ちすくんでいた。



 会場にはクラスの人間やバスケットボール部の人間などの見覚えある顔が多い。一方でまったく見たことのない知り合いも大勢訪れていた。心底評価していたつもりで、それ以上にずっと社交的な女だったのだろう。

 雰囲気は一様に暗い。

 それもそうだ。こんな場でにこやかな奴なんてどうにかしている。


「……前の遊園地のアレと何から何まで一緒だった……左手で書いてある文字も……」


 すれ違ったのは、三谷の兄である良治さんだった。

 鋭く尖った眼光とは対照的に、その顔には弱弱しく疲れ切ったように濃いクマが浮かび、心なしかその痩身がさらにやせ細ったように感じた。それでも刑事としての性なのか、このような場面でも確認するようにブツブツと繰り返していた。


 ――僕は。


 この場から逃避したくて、逃げるように歩く。歩いて、歩いて。歩いた末に入り口前のエントランスホールへと辿り着いた。

 都合よく誰も座っていないブラウンのベンチソファー。どちらも深く、座り込んで息を吐いた。膝に立てた肘で前へと倒れそうな上半身を支え、冷たくなった両手で顔を覆う。

 視界を閉じて、思考も止める。


 こうしていると心が楽になる。

 手のひらの温度は自分が生きていることを実感させてくれる。

 目を逸らして、逸らし続けて、目を閉じる。


 ……。

 突然どこかで人が大声で泣きわめく声が耳に入ってきた。

 僕の左側――意外に近くから聞こえて、思わず覆っていた手を外して顔を上げる。

 座っている場所から少し左、入口の近くに僕と同じぐらいの年齢に見える人物が3人いた。着ている制服はバラバラであまり見覚えがない。彼彼女らも三谷と親交があった人間なのだろう。

 男1人、女2人で構成されたその集団は、なぜか言い知れないアンバランスさを抱えていた。まるでぴったりはまったパズルのピースが、1つだけ欠けているかのように。


 真ん中の中世的で小柄な男は顔が溶けて崩れそうなほど声を上げて泣いている。その少女を隣で宥めている男女の頬にも、ゆっくりと水滴が流れ落ちていた。

 多くの人が彼女たちに視線を止めるが、誰も何も言わない。周りの目を気にせず号泣する少年に対して、言葉を掛けられる人間は、もういない。


「もう落ち着きなよ、英美。……ずっとそんな調子じゃない。……あんたまで調子悪くなってきちゃうわよ」


 それでも近くの男女は、号泣する少年に対して宥めるための言葉を投げかける。それが意味のないことだと分かっていても、自分たちへと言い聞かせるように。


「……晴、どこ?」


 しかし涙で震え嗚咽交じりに絞られ落ちた一言で、彼らも再び呆然と立ち尽くした。


 そんな姿を、そんなすがたを――もう一度、僕は思考を止めることにした。

 今度は目ではなく、耳を塞ぎながら。


 ――僕は。僕は。


 言葉の上でその先を探すことさえ、できなかった。



 しばらくの後、目をゆっくり開けてから立ち上がる。

 エントランスホール入り口にはいつの間にか先ほどの3人の姿は居なくなっていて、通過し外に出ることは容易になっていた。

 もうここにいる用事はない、早く帰ろう、という思いが脳内の多数派を勝ち取っていた。敗北したはずのマイノリティは今も頭のどこかから呼びかけてくる。それが正しいのか、それでいいのか、と。


 僕は全力で無視した。耳を塞いだ。目を閉じた。



「おい」


 突然、肩を掴まれた。


「……深路」


 振り向く前からそれが誰であるのか分かった。


「ちょっといいか?」


 肩に置かれた手には力が入っている。それがとてつもなく重く、痛い。

 用事があるんだ、忙しい、ちょっと難しいかな、そう言って逃げてしまいたくなるほど。


「……なんだよ」


 振り向けども、目を合わせられなかった。

 どこかで別れたのか、石見は近くに見当たらない。


 俯きながら彼女の言葉を待った。

 ……待っているのに、言葉がこない。


 どうかし――うっ。


 何が起きたのか分からない。

 目前に迫っていたのは深路の顔、その大きな目。


「目を見て聞け」


 顔を彼女の両手でもぎ取られるように固定され、直視せざるを得ない。覗き込まされていた目の奥には怒りが渦巻いていた。

 それは犯人へ、そして間違いなく僕へと向けられていて。心胆を氷漬けにして余るほど厳しい。


「三谷は殺された。『私たち』の友達だ。なら、どうするべきだろうか?」


 言葉から、指から、ほとばしるような熱が凍結させた心をボロボロに壊すように炙る。


「犯人を……捜す」


 苦しくて、苦しくて、絶叫の代わりに言葉を絞り出す。


「殺すか?」


 すぐさま紡がれた深路の言葉は、熱を帯びたナイフのようであった。あまりの熱に充てられて、喉が焼ける。もはや悲鳴すら上げられずにただ体を震わせた。


 明らかに、僕は、欠陥品だった。


「そうか、なら私もそうする」


 突き放すように頭の拘束が解かれる。ねめつけるような一瞥が、よろめいた体を地へと括りつけた。


 自分が悪いのは分かっていた。正しくないことだけは分かっていた。つくべき嘘も、それに必要な思いも、何もない僕には分からない。


 もはや深路は僕なんて見ていない。他人とすれ違うように、咎人を捨て置くように反対側へと歩き去っていった。



――――――――

――――――



 帰り道。

 冷房のない電車に乗り、ほとんど人のいない車内の座席に力なく座り込む。うだるような暑さは容赦なく責め立ててくるが、そのおかげで思考がぼやけてくることがこの時は好都合であった。


 ――ジジジ……リ。


 視線。

 気づいた感覚が鋭敏なのか、鈍感なのか。感情は読めない。

 後ろに寄りかかり、窓に体重を預けた首を動かさずに、閉じていた目をぼんやりと開く。



 正面の座席に……あの黒い少女が座っている、のだろうか?

 うすぼけた視界の中で姿形は陽炎のように揺れ、不思議と風景と少女の境目が分からない。だが、その視線は間違いなくこちらを捉えている。それはまるで深路の――ぅ。


 さっき向けられた『目』のイメージがフラッシュバックする。あれは、そう、咎めるような――。


「消えろ!」


 目を見開いて叫んでも、その先には何もいない。

 どこにも、いないのだ。


 ……思わず持ち上げた背中を、再び座席の背に預ける。急激に引きあがった心拍をなだめるように、小さく息をした。


 こんなことをしたって無意味だ。

 少女はナニカと同じで、自分だけにしか見えないと分かっている、のに。


 僕は何を恐れているのだろう。

 燃え滾るような深路の視線か。

 後ろ指をさされ糾弾されることか。

 周りで見つかる死体と同じように、自分が殺されてしまうことか。


 それとも、何もかも元には戻らない“この世界”に向き合うことか。


 ……ナニカが足元からせり上がってくる。

 もう一度目を閉じ、意識を落とした。


 

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