◇22 人間と世界とキャンバスの境界線




「というわけなんだ」

「なるほど」「なるほどじゃねーよ」


 日は変わって翌日の美術室。お昼時に集められた僕と深路は、行儀よく、とはかけ離れて三谷の話を聞かされていた。

 解放されていない部屋を勝手に使っているだけなので、エアコンすら碌に稼働しておらず、空気が滞留してあまりにも暑い。時折、本当に時折ドアを開ける生徒がいたときだけ生を実感するほどだ。

 操作指令を出す方がやられているからか、五感はよく分からない所に焦点が向いてぼやけて、メチャクチャだ。

 バグって暑さを感じ取る嗅覚、ノイズキャンセリングされたように異音を一切感じない聴覚。視覚も勝手に目まぐるしく動いて……視界に映る前髪、2人が持ち込んだ水筒、透ける制服……あーどうでもいいどうでもいい。

 

 そんな訳で他の生徒の数は少ない。黒板に書かれた赤文字の日付は明日であり、作品のできあがっていない美術選択の生徒が学年問わずにちらほらいるだけ。

 ほどよい静かさで具合は悪くないのだが、こっち見てないで手を動かせよと。

 女子が多いから僕の方ばかり……とか思ってたけど、半分ぐらいは深路の方を気にしている。こういう系の美人は男女問わず視線飛んでくるのが笑えない。羨ましくも本人気づいてないんだろうけど。


 そういうのと一番うまく付き合っている三谷は、プレゼンターのごとく1人だけ座らずに僕らの前で力説し、『第1回白芸祭対策委員会』と僕よりちょっと綺麗な字で書かれた紙を掲げていた。


「せっかくの第1回なんだから気合い入れてくれよ!」

「2回目があるのかこれ」

 

 教室で今朝買った新商品のおにぎり『バジルニンニクレッドオクトパス』に手を伸ばした矢先の拉致だった。もちろん美術室は水筒を除いて飲食禁止だ。そんなもの学校に持ってこない僕は、いつも以上に目を細め、木製の小さな椅子の上に胡坐をかいて呆ける。食い物の恨みは怖いんだぞ三谷。

 深路だって口では深路の話を聞いている雰囲気を出しているが、隣の椅子に両脚を完全に乗っけている。手元のベージュのハンカチで額の汗を拭う姿には心なしかいつもの鋭さが感じられない。この様子では、こいつもまだ昼飯前なのだろう。


「……お前も絶対分かってないだろ」

「……津島が三谷の部屋でアレコレしてたってことは把握している」

「なんにも聞いてないじゃねえか」


 昨夜、感想をなんとか言語化したくてあの後たくさん捻り出した僕の言葉に気持ちよくなったのだろう。昨日の出来事を深路に語りながら、見せるまで渋っていたはずの絵を片手に力説している。


「そもそも私は絵のアドバイスが欲しい、と言われたから最優先でこちらに来たのだが……なんで昨夜の2人の情事を聞かされねばならんのだ?」

「「その言い方は止めろ」」


 そんなこと僕だって分かってない。

 昨日は三谷の小っ恥ずかしい話を聞いて、褒めて、それで上手くなりたいなんて言うものだから深路に丸投げしたのだ。

 描かれた絵に文句と感想を垂れることはできても、これっぽっちも描いてない僕には烏滸がましくてアドバイスなんかできない。身に付いてる中途半端な技術も、かつての僕みたいに熱を削ぎ落としてしまうだけだ。

 適任が隣にいる。こんな近くで別世界を見せてくれることなんてそうあることじゃない。

 

 だから、三谷は昨日僕に見せたスケッチブックを学校に持って来ていた。そこまでは分かるのだが。


「なんで白芸祭なんだ?」


 1番よく分からない部分を聞く。三谷は眼鏡のフレームを光らせ、待ってましたとばかりにマッキーを指の間でくるりと回し、ビシッと僕に向ける。


「いい指摘するじゃん与一。アタシはやっぱり何か中期的にも目標が必要だと思ったのよ」


 ちょうどいいでしょ、白芸祭なら別にどんなの出したって問題ないし……と三谷は呟く。舌を右から左に唇を舐める姿は、顔の良さのせいでニヒルな不敵さを自然に備えていた。


「そうは言っても時間は大してないと思うぞ。いくら美術部が緩いとはいえ、チェックのために夏休み明けまでの提出が義務付けられているからな」


 がっつり統括側である深路もそれを認めながら、より現実的な話をした。こいつの言う通り、真面目に絵を描くための目標として設定するのであれば、ちょっと早すぎるぐらいだろう。

 しかし、時間ならあるのだ。学生にとって一番長い自由時間が。深路はまるでピンと来ていないのだろうけど。


「つまり三谷は、夏休み中も手伝ってくれ、って言いたいんだろ」

「そゆこと」


 マッキーをもう1回転させてから傍に置き、ガシッと深路の手を握る。勢いにびっくりした深路は、一瞬だけビクリと飛び跳ね髪先からポタリと汗を落とした。

 頼むぞ先生、とガクガク揺らされ、あうあうあたふたしていた深路も次第に言っていることを理解し始めたらしい。


「私にかかれば1ヶ月もあったら津島を抜かせるかもしれんぞ」


 ずいぶん頼もしいことを言うな。どんどん抜かして貰って構わないぞ。


「それで具体的な話なんだが……」


 三谷と深路は熱を持って話し始め、僕の役割は終わった。ここからどう転ぶかは2人次第だろう。できれば早く打合せ終わってくれると昼飯的に助かる。


 戯れに三谷が持ってきた何枚かの紙を1枚、手元に引き寄せた。描くものは持ってきていない。

 利き手、右の人差し指をすうっと伸ばして紙に触れる。

 

 ナニカは湧いてこない。

 眼鏡を外して直視してきたせいで慣れてきたのか。

 それとも絵を描く気がないことを分かっているのか。


 とにかく僕の人差し指は、汗ばんだことによる若干の摩擦の中、紙の上をただ滑った。

 子供のように、ただ遊んでいた。


 いつの間にか、会話する音が聞こえてこなくなっていた。

 どうしたのか、と思って顔を上げ、目を大きく開いてこちらを凝視する深路と目があった。

 ……そんな目で見られると気恥ずかしくなってくるな。あんなに渋っていた奴がまんまと熱に当てられてんだから。


「与一お前話聞けよー」

「いや、もう僕の役割終わったでしょって」


 何年も前に発見されている数学問題の解を出すように、小気味良く2回指で机を叩く。絵に関して、僕にできて深路にできないことなどない。


「与一にも描かせるぞ」


 こんなトンチキな言は深路のもの。しかしそんなことおっしゃられても、と笑ったのに一向に僕のものだけが響いた。どうやら真面目な話らしい。

 三谷にとって意義がないし、意味がない。しかし当の三谷さえも、「さすが昔馴染。今言おうと思ってたんだ」と言い出す始末。趣旨はどこ行った趣旨は。僕の聴いてなかった隙にとんでもない軌道修正が入ったわけじゃないだろ。

 

「昨日も言ったけど、絵を描くのは仲良くなるためだからな。アタシは与一の絵も見たい。香奈と与一と一緒に取り組んでるって思いたいんだ」


 口に出さずとも顔に出ていたらしい。日本語の意味が整合していないようにしか思えないのは僕だけか。


「ほらほら、カッコいいのは見た目だけか?」

「その通りだよ」


 畳みかけられても、ね。


 三谷と深路、どちらも僕にとって特別な人間であることは――言葉にはとても出来るものでないが――今更疑いようのないことだ。

 それでも、やはり人である以上は例外なく個々で独立し、断絶した生き物だ。描かれる絵が僕と地続きであったからって、それは変わらない。

 いくら伝染しようとその熱は他人のものなのだ。僕のじゃない。本体から切り離された蛸足が動いていても、それは生きていないのと同じように。今も、ただ筋肉的な反射として指が動いただけでしかない。


「「「……」」」

 

 渋い顔をした僕に対し、深路は無表情で何かを訴えかけてくる。

 物騒で我儘な女の意識の外で三谷は、ふむ、と腕を組み、すぐにポンと手を叩いた。机の上に置いたマッキーを再度手に取り、紙を1枚だけ手にして、真っ直ぐに線を引く。


「じゃあ半分にしよう!」

 

 真っ白な長方形の紙の中心に、上から下へと惹かれた境界線。

 先ほどと同じように紙を胸の前で掲げてそんなことを言うのだった。


「半分! 頼むよ半分でいいんだ!」


 えぇ。


「夏休みが終わるまでに、きっと与一が描きたくなる片側を、アタシが描くよ。そしたらアタシがもっと描きたくなるような絵を描いて欲しいんだ」

「私も手伝う」


 もっと好きにさせてくれ、と三谷は言った。

 やっぱり趣旨は変わっている気がする。が、元より意思薄弱の自分が化物に1対2で勝てるはずもいのだ、と悟った。よくこいつらに付き合っていけてるな僕。


 反論もできたけど……いや、やっぱりできずに結局押し切られることとなった。

 どこかで汗が落ちたか、1本の境界線は途中で円状に滲んで決壊していた。



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