◇21 彼女と僕の境界線
ドライヤーの音を辿って着いた洗面台で、三谷に並んで手を洗う。
隣が風呂場らしく脱衣所も兼ねているのだろう。棚に積まれたカラフルなタオル群の断面は不揃い、洗濯ネットや洗剤類は場所だけ決めて置かれている。……洗濯物が無造作に突っ込まれたカゴは努めて見ないようにした。
玄関からリビング、廊下を伝ってここに至るまでに感じる雑然とした生活感は、彼女のいつものイメージからは少し離れている。
三谷はパックもタオルも既に外し、気持ち良さそうに冷風を扇いでいる。口元は「――――ぁ――にっ――」と動いているが、聞き取ることはできない。
(……静かだ)
ドライヤー以外の音がしないと、無音であるかのように耳が勝手に錯覚する。
端的に言って、どこか落ち着かない。こんなところにもナニカがいることに、逆に安心させられる。
瑞々しさで艶めいたその横顔を、眺める。
なんというか、そう、随分と久しぶりな光景だ。最後に見たのは、定かではないが母親だっただろうか。ずいぶん昔のことで、今はあの人の顔なんて思い出すことさえできない。
そんな僕には、女性の身支度がどれぐらい時間がかかるものなのか、検討もつかない。そもそも立ち会うようなこの状況は正しいのか。許されるのか。
出来ることもないので、手も拭き終えた僕は逸れて端で待つだけだった。
何もせずにいるだけで、ゆっくりと、ゆっくりと静寂が晴れていく。感覚器官が明瞭に、中外から入る生活音、他人の家の匂い。
そんなつもりはなかったのだが、緊張していたのだろうか。
化粧水、乳液、ジェル、云々よく分からない化学物質たち……結局三谷が一連の流れを“完了”したのはしばらくしてから。女子は大変だ。
「部屋で待ってていいって言ったのに」
「場所どこだよ」
後ろに付いていくしかないのだ、そもそも。三谷は、脇に積まれていた見覚えのある教科書たちを拾い上げながら、階段を上っていく。
ある部屋のドアまで着くと、「ちょっと整理するから待ってろ」と僕に告げてから開ける。
「外で?」と聞くと、「なんで?」と返されたので、僕も中へと立ち入った。
部屋の中身はごくごく一般的。だからこそ浮つきに非日常感が生まれる。良い匂いは……意識すれば嗅ぎとれる。やらないけど。
「恥じらいとか隠すものとかないのか?」
「ねーよそんなもん」
気持ちの良いことで。
整理する、とは言っているが、床も机もベッドも、現状で僕の部屋よりよっぽど片付いている。勝手に触るのも怖いし、手伝う必要もないだろう。
持ってきたUSBを三谷に手渡し、そこ、と指定された椅子に座って、いそいそ物を動かす三谷を眺めることにする。
窓は開いており、うすく小さいカーテンが僅かに揺れる。崇め奉りたくなるほど珍しい、エアコン要らずの涼やかな夜。
しかしどこかに感じる温さは、腰が落ち着いても変わらなかった。
「……」
ようやく僕らの空気感さえ落ち着きはじめたのも束の間、下の階から、「おーい、晴! またちょっと出かけてくるぞ」と良治さんの声が響く。
「忙しいんだな、良治さん」
「仕事始めてからずっとだけど、最近は特になー」
アタシらも大人になったらそうなるんじゃねーの、と兄に声を返すこともなく、玄関のドアが閉まる音がした。
しばらくして、よし、と三谷が呟いた。やり残しを探しているのか口を尖らせ部屋を見回していたが、すぐに戻して、むふー、と頬を緩ませる。大きな小動物のようだ。
そんな彼女ほどはくつろげていない僕は、すぐに「終わった?」と声を掛ける。彼女は「もちろん」と答え、何かを両手に持って僕の方へ向いた。
「教室でも言ったけどさ、最近アタシ絵を描いてるんだ」
三谷が持っていたのは、「見せたいもの、ってのはこれのことだよ」——スケッチブックだった。
表紙には見覚えがある。1年生の時に授業で使うために全員が買わされたやつだろう。自分では1/3ぐらいしか使わなかった。
「アタシの絵を見て欲しいんだ」
「……え、なんで?」
「見てもらうために描いたから」
その理由を聞いてるんだが……なんか歯の浮くようなことを平気で返答されそうなので言わなかった。
三谷はふふん、と鳴らした鼻と言葉とは裏腹に、他のページが僕に見えないよう小さく開き、ゆっくりとページを確認していく。やけに勿体付けるものだから、その1枚1枚をめくるリズムに拍動が近づいていく感じがした。
指が止まったのは、堪え性なく「何を描いたんだ?」と聞いたのと同じタイミング。
ズレたシンクロ。錯覚する心臓。ん? と軽く首を捻られて気まずいことこの上ない。
気をとりなお「黒い球だぜ!」……嚙み合わない、のはさておいて。
顔の前面に突き出され、視界のほとんどを埋め尽くしたキャンパスの“それ”は、確かに黒い球だった。
人の絵には多少うるさい自覚はある。だがこれは。
「感想を求められてもな……」
黒い球、とは鉛筆で曲線を重ねて描かれた、文字通りの球体。遠近、陰影、質感とベーシックな部分をおおよそカバーし、美術の授業なんかでは最初の方で取り組むのかもしれない。どころか遊びで描いたことのある人も多いのではないだろうか。
抵抗する手からスケッチブックをやや強引に奪い取って、目でよく浚う。
線の重なりは真面目だ。描き込まれた本数に性格が出ている。しかしどうしても真球にはなっていない歪み、光の当たっている位置、影の形。
違和感だらけで、濃さも甘い。
嘆息するでも茶化しでもなく、ただ、これは“お絵描き”だった。
上手い。よくできてる。本当に初心者か。そんな急がなくても。凡人。才能ナシ。これなら小学生の僕の方が上手いな。深路の凄さが分かるだろ。――正直、感想を言うだけなら何とだって。
「あ、おい。そっちは見るなよ」
ページをめくっていっても、黒い球体しか出てこない。1番出来が良いものを僕に見せたんだろうな、とすぐに分かった。「本当に全然だから!」と焦り気味の三谷を無視して進め、ようやく違う絵に辿り着く。
「どう?」
三谷の一言はさらりと、流れるには続く静寂の中に響きすぎていた。揺れを最小限に抑えられた瞳孔は、不安よりも期待感を滲ませていた。
そんな視線を逸らすのはいつだって僕の方で。しかし視線を手元に落としてすぐ、そんなどうでもいいことは忘れてしまった。
「これ、いつ描いたやつ?」
「美術の授業だから去年かな」
鉛筆の跡が不細工に残る水彩画。異星人とのコミュニケーションでもなければ、切り離された世界でもない、僕らのいる日常と地続きの風景画。
なんてことはない教室の風景。その切り取り。
三谷の目線から描かれたであろうそれは――とても、明るい。
もしかしたら、全国の高校生がこれと同じものを描けるのかもしれない。
没個性的なものの1つに過ぎないのかもしれない。
だとして、僕が同じ構図で絵を描いたとして、こんなに明るくなるはずがない。
景色の違い。作り手の違い。――いや、違う。
(“描き手”自体が、僕にとって特別なんだ。)
深路のように『津島与一』が作った幼馴染という枠ではなく。
恋愛感情、なんて安っぽいものでも当然なく。
胸に在った非言語的な原感情。もしかするとそれが、僕に必要なものだったのではないか。
「なんで絵を描こうと思ったのか、本当のところを教えてくれよ。言うことはそれで変わってくる」
質問を重ね、あまつさえ「別に正直に言ってくれていいんだぜ」と念押ししたのは、断言してもいいぐらいの逃避行為だった。
『津島与一』と言いきれない、抜け落ちて空っぽの“僕”に向けられた矢印。
その答えを、自分の中に探したら間違えてしまう気がして。
三谷は伏し目がちに指と指を突き合わせ、わざとらしく緊張してみせる。
そんな目の奥に浮かんだおぞましい何かを、三谷はいつの間にかじっと正面に捉えていた。
作為にも不作為にも見える緊張と地続きに、「見せたくなっただけ、ってのは本当だよ」と発した声は普段と同じくクールに響いた。
「もっと仲良くなれると思ったんだ。これもアタシの勘違いかもなっ」
結局そうやって笑ってくれると分かっていた自分は、期待して逃げた自分は、やっぱり弱い人間だ。
だから、惹かれてしまう。
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