◇20 黒い少女と境界線




 天井のLED電灯が無自覚に押し付けた白さの下、列を成した黒箱が黙して耐えるだけの情報室。その1つを使って作業し終え、座り待つ自分の他には、誰もいない。

 それでも、ピロン、と鳴る電子音は僕にとっては耳慣れなく、自分のスマホのものだと理解するのには少し時間が必要だった。


『ごめーん。USBのこと完全に忘れてた。見せたいものもあるし、家まで持って来てくれー』


 てへぺろ、という絵文字付きのメッセージが届いていた。

 教室前方、音を刻む時計の両針俯く6時30分。延長届を出している部活すらとっくに活動を止めている時間である。……すっぽかしには薄々気づいていた。

 スマホを裏向きにキーボードの横に置く。


 腰かけていたオフィスチェアを、一旦床を蹴って回して1回転。長時間のパソコン作業で凝った肩を緩めようと伸びもして――頭を切り替える。


 しっかりと待ちぼうけをくらったが、全面的に三谷が悪いわけでもない。

 僕もちゃんと伝えてなかったし、ぶっちゃけ完成したのもさっきだ。だから、行くしかないだろう。

 彼女の家まで行ったのは5月頭のGWに1度だけ。まあ、それは夜だったから家の前まで送り届けただけだったが、場所はなんとなく覚えている。


 それにしても管理の甘い学校だ。もう30分以上経ったのに見回りも来ない。

 すぐに家に向かってもいいけど、と立ち上がろうとして、ポケットに張ったUSBの固い感触に意識が向く。


(……気づかれるまでもう少しだけ)


 前のパソコンにUSBを挿して、備え付けのゴテゴテしたヘッドホンを再度装着する。一度強引に切り上げて妥協したはずの難行苦行が再開された。



――――――

――――



 校舎を出てから三谷家まで、すでに夜のとばりが降りた中を歩く。

 珍しく熱帯夜とは言えない涼やかさに、心地良いそよ風までが加わり、それが唯一の音のように耳朶を打つ。肩にかける鞄の重みも気にならない。

 ちらちらと街灯が危なげに放つ光。きまぐれに現れる車の光。24時間営業のコンビニの煌々とした光や、住宅のカーテンの裾から漏れ出るわずかな光。

 図書館のあるこの辺りはまだ栄えている方のエリアだろうが、こんな地上を眺めたら月はへそを曲げるだろうな。ナニカと違って、夜闇は存外暗くないものなのだ。


 スライドは妥協の域も越えて満足の出来に仕上げることができたが……いまいち釈然とせずにモヤモヤする。見回り適当だったくせに、なぜ僕が怒られなきゃいけないのか。


 川沿いの土手道に出ると、春には桃色で土手道を埋め尽くしていただろう桜の木が、青々とした緑に変わっている。水面に反射した光が浮かばせる葉の1枚1枚が、ナニカと共に揺れ動きながら。


 前回ここを歩いたのは、あの死体を見るより前のGWの夜。

 その日、三谷と深路と集まったのは、三谷の家でなく僕の家だった。

 ……いや勝手に来ただけだから、集まった、は語弊があるな。告白騒動や三谷のおせっかいによる深路との雪解け、それらを経てもその時は今ほど頻繁につるんでなかった。


 そうして忘れ物をした三谷へと届けるために、彼女の家へと歩を進め、


 ――あの黒い少女に初めて会った。




 その日、三谷のスマホと学生手帳を服の内ポケットにしまって外に出ると、季節違いの冷たい雨が降っていた。

 ふうっ、と息をついて手持ちの傘を開いて歩き出す。吐いた息は白くなりかけで、とてもじゃないが春も中ごろとは思えず。

 ほとんど仕舞いかけていた長袖のシャツを冷気はたやすく貫通し、微風にさえ身震いさせられる。地図アプリを起動したスマホを持つ右手も、傘を持つ左手も、かじかんで赤くなっていた。


 土手道では多くの水たまりがそれ以上に無数の光源たちを意味なく映し取り、頑なだったアジサイの蕾が清楚な顔を覗かせつつあった。冬将軍の居座る気温とは裏腹に季節の移り変わりを実感させている。


 駄々をこねる迷将にため息をつきながら歩き続け、次第に閑散とした住宅地の方へ。多くない平地に押し込められたように狭く犇めく木造住宅たち。さらにその中へ、街灯の切れかかった薄暗い路地に入っていく。

 迷っていないのか不安になるほど、目印のポストの発見には手間取った。なんせ暗いし雨も降っていたから視界は悪かったから。


 その角を右に曲がる。するとすぐの家が――


(……ッッ!!)


 そこで一瞬の寒気に襲われた。

 自分の脳と、そして目が、ここは何かがおかしいと警告を発したのだ。


 周りを見回しても、自分以外に人は誰もいない。変わらず静かな夜に包み込まれているだけ。


 後ろだけは決して振り向けぬまま、もうすぐそこに見えている目的地へ、歩みは再開される。こんなところで立ち止まる選択肢はなかった。

 ほどなくして目的地――その扉の真正面へ。呼び鈴を押そうと伸ばした手は、寸前で止まった。


 感じていた寒気が、流した違和感が、真後ろで強烈に強まったのだ。


 やけに冷たい汗が額に流れ出し、手の中で滑りそうな傘を強く握りしめる。先ほどまで視界の中にあった場所。変わった部分はなかったはず。

 恐怖が、身体の中心からぞわり、と這い出てくるのが分かった。自分の首が、少しずつ、少しずつ回り始める。今度は振り返ることを止められない。


「……ぁ」


 そこにいたのは――こちらを見つめて佇む美しい少女だった。

 思わず息をのんだ。

 病的に白く滑らかな肌と、それを包み込む宵闇に溶け込みそうなほど黒い服に、地面に付きそうなほど長く伸びた黒髪。そこから受ける印象は、白か黒かで言えば圧倒的に黒。

 感情の読めないその瞳、強い意志を感じられない瞳は、それでも僕がその中に映っていることだけは間違いなかった。


 傘を差さず、靴を履かず――いつもであれば感じるはずの明らかな異常さにも、この時の僕が気づくことはなかった。


 口が動かず、だから返答もなく。

 その感情の読めない視線を向け続ける少女の顔を見たまま立ち尽くし、時間が止まる。

 逃げ出したいという気持ちが膨らむほど、返しの付いた釣針のように、感覚器官は彼女の姿を奥底に刻み付けていく。


「またね」


 最後の呟きははっきりとは聞こえず、瞬きの間に忽然と姿が消えるまで、非常に長い時間が経っていた。




 そんなことを思い出しながら、件のポストを曲がったところで後ろを振り向く。


 ――誰もいない。そりゃそうだ。


 無意識に握り込んでしまっていた拳を緩める。

 あの時の他には、死体を見る前と、先日メビウスに赴く前の3回。

 死体も、ナニカも、夏の夢も、再構築も、すべての奇妙な出来事は少女を目撃してから始まったものだ。

 自分の視界から、世界から欠落していた部分が、きっかけ1つで主張を始めて暴れだすように。入院してから高校2年生となった今まで、部品が欠けて止まっていた時計が新たな部品の落下で崩壊していくように。


 天啓でも、直感でもなく、これはもっと自分の内側から出る本能。

 自分自身から抜け落ちた過去に繋がる鍵は、恐らく彼女なのだろう、という。


(……また会うことは、再構築のメリットでしかない、のに)


 再構築をすると息巻いても、過去に端を発するものだとしても、どこかでそれを恐れている自分がいる。今日の石見とのことだってそうだ。


 だとしても、だ。

 開いた手のひらに滲んだ汗を、制服の膝で粗雑に拭い去る。

 自分にできることを精一杯やるだけだ。


「おーい家はこれだぞー! なんでそこで突っ立ってるんだよー」


 周囲の家に配慮した声量ながら、背中からこちらへと呼びかける声が通る。

 振り向けばすぐ先、このあたりに一様に並ぶ木造2階建ての家の1つから、ドアが開いて明かりが漏れていた。

 縁に手をかけ上半身だけを乗り出してこちらを覗く……誰だこれ、暗くてよく見えん。


 3足ほどの距離を歩み寄り、よ、と片手をあげる。ある程度は予想通り、それは三谷さん家の晴だった。

 いつもの眼鏡は描けていないどころか、顔全体には白いパックを。髪の毛にタオルを巻いて、完全に部活後の風呂あがりタイムらしい。


「お前だって分かんなかったよ」

「別にどんな格好でも変わらず美人だろ?」


 ビッグシルエットの涼しげな生地の上下は、恐らくバスケのものを回した部屋着なのだろう。そこから伸びるしなやかな手足は光に白く、鮮やかな血色と共に映える。思わずドキッとするほどに。


「……そうだな。目新しく見える」


 誤魔化すような早口を携え、鞄を肩に掛けたまま胸の前まで持ってくる。中から渡すためのUSB を取り出そうとチャックを掴む。


「おっ、与一君じゃねーか」

「良治さん、でしたよね。お久しぶりです」


 土間にサンダルで立つ三谷の後ろには、ボンバーヘッド気味な癖毛頭をワシワシと掻く痩身の男が立っていた。

 くたびれたワイシャツに無精ひげ、と三谷とは対照的な出で立ちだ。が、紛れもなく彼女の年離れた兄――良治である。以前来たときにも顔を合わせたので覚えていた。


「アタシ見せたいものあるって言ったろ? ちょっと上がってけよ!」


 はらりと崩れ落ちそうな頭のタオルを抑えながら三谷は家の中へ。その場には僕と良治さんだけが残される。


「……」


 土間にサンダルで立っていた三谷より、上がり框の高さを加えてだが悠々に頭1つ分以上は背が高い。恐らく並んでも僕より大きいだろう。

 上から見下ろされ、また刑事の眼光というやつなのか、決して子供には持ちえない怖い威圧感があった。


 無言の空間で、良治さんの視線が揺れていることに気が付く。

 目の前の僕に、後ろに消えていった三谷に、そしてここにはいない誰かに――あ。


 そこで初めて、彼の感情が“恐怖”の類だと気が付いた。そしてその対象もなんとなく。


「や、そういうのじゃないんで」


 やましい関係でも何でもないが、この場面が噂通りのあの彼氏に見られると思うと背筋が少し冷たくなる。

 室内の方が温いと思ったのは久しぶりだなあ。



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