◇15 変わらない日常と再構築




 溶けたアスファルトの匂いが漂ってきそうな暑さの中、やすらぎをのせた風が裸眼にやさしく触れる。少し前まで当たり前で、それでいて久しぶりの感覚。

 中身のある眼鏡ケースを入れた肩掛けの通学鞄が、いつもより少しだけ重く感じる。


 入れていた度数は微々たるもので、掛けていた期間も少しだけ。だから見えづらくはないはずなのだが――世界が少しだけ傾いているような、胸躍る違和感がする。

 勿論視界からナニカが消えたわけではない。むしろ一層はっきりとその存在を感じるが、一方で脳の奥へと染み入るような痛みは縮小している。

 それが慣れであるか、懐かしさであるか。今の自分には分からない。自分という要素を構成する過去が、抜け落ちて穴だらけになっている。それ以上でもそれ以下でもなく、ただそのまま受け止めていこうと決めたのは、家を出る前のつい先ほど。

 

 気を抜けば……いや、気が入りすぎてしまえば抜け出せなくなる。自分は本当に、まだ壊れていないのだろうかと。


 ――“僕の記憶は、あまりに“抜け落ちすぎている”。


 そこにある、と勘違いした人生経験から作り出したものはすべてが欠陥品だった。世界の見方も、今の在り方も。誰でもなかった『僕』。

 深路は。三谷は。天笠は。叔父さんは。どんな視線を、向けてくるのだろうか。

 想像しただけで骨の芯だけが冷たくなる、確かで、曖昧で、鋭敏で、不安定な憂慮。相談など、できそうもない。


 自分の手のみで、再構築が必要だった。すべて。ナニカに対しても。


 とても面倒だ。それを越えて痛みさえ走る。半ば自棄になっている自覚はあるし、自傷行為となんら変わらないことも間違いない。

 それでも気づいてしまったのだから、もう戻れない。多くを呑み込んでやれるだけやるしかない。


 じきに慣れる。慣れていくしかない。

 一度こうなってしまえば案外どうでも良くなるものだ。諦めることは得意だから。


 登校自体もいつも通りとはいかない。

 休日に外出、それも人となんて慣れないことをしたせいで、朝を跳び越えてもずっと寝こけていた。普通に遅刻だし、腰の動きも若干おかしい。叔父さんは家に帰っておらず、また従弟も呑気に寝すごしている僕を起こしてくれるはずもなかった。


(なんだかんだ楽しくはあったな。昨日は迷惑かけたし、後で礼を言いに行こう)


 家を出るときはもしやとも思ったが、当然ながら彼女の姿は通学路にはない。普通の高校生は出かけたぐらいじゃ疲れないし、ましてやあの元気の塊がそんな軟弱なわけなかった。

 

 風は気持ちいいのだが、陽が高く、いつにも増して日差しが肌に突き刺さる。暑いというより痛い。

 点在する日陰を渡り歩いて、ようやくたどり着いた正門をこそこそ通り抜ける。

 横脇の生物部が管理している池――名前忘れた――からは何かが腐ったガスのような匂いが漂う。春には絶頂期であった桜の木も碧く陰気になって喚く蝉と仲良くしている。熱中症にでもなってしまえばいいのに。

 校舎に入って下駄箱へと腕を伸ばしたタイミングで、何かが指に引っかかる。そういえば、と学校に入ってからも無意識にしていたイヤホンを外した。


 繋げていたのは音楽プレイヤー。

 6月2日に郵便受けへと入れられていた、いわくつきのアレ。あの夜が現実だと突きつける証拠の1つ。

 あの夜のことを思い出すから、これらは引き出しの奥へと閉まっていた。持ち主の分からない遺失物として警察に届けてしまえば、ずっと気持ちが楽になっただろうが、なぜかそれもできずにいた。

 

 これについての処遇を決められずにいたが、再構築という目標が生まれたことで、ようやく開き直ることができた。

 遠ざけることで日常を生きるのではなく、自分の背中を後戻りのできない谷底へ押していくための、最も効率的な方法として逆手に取った。


 相変わらず楽曲は1曲だけ。

 どうしてだか飽きることなく聞いていられる、底知れない魅力のようなものがあった。


 昇降口から屋内に入るが……相変わらずまったく涼しくないなうちの学校。教室はエアコンが効いてまだマシなので、脳が沸騰して死ぬ前に早く入りたい。


 とっとと履き替えて中央階段に向かう。うちの教室は3階のちょうど真ん中にあるので下駄箱に近い階段を使うのが最も早い。教室に向かうまでに他の教室の生徒から視線を向けられたが無視してそのまま歩く。

 今は4限の授業中であるため、後ろのドアを静かに開ける。つもりだったのだが、後ろのドアが少し固くなっていたせいで、かなり大きな音が響いた。その瞬間に、先生や同じクラスの生徒の視線がこっちを向く。


 ……くそ。

 僕はそれらに気付かなかった風を装って堂々と中に入るしかなかった。三谷の気持ち悪い笑顔がたまらなく鬱陶しい。


 気持ち強めに引いてしまった自分の椅子に座り、自分の鞄から筆箱とノート代わりのルーズリーフを取り出す。どんなに散らかしても最後にまとめさえすればいいこいつは、とても便利な代物だった。科目ごとにノートを作るなんて面倒でできない。

 なお、鞄、机、ロッカーの中には端が折れたり、破れたりしているルーズリーフたちで溢れている。中身は真面目に書いているのだが、これをまとめ直すのは途方もなく時間がかかるだろう。あまりに見事な伏線回収。


 そんなぐちゃぐちゃで整理のされていない机の中にがさり、と手を突っ込んで、教科書を取り出す。教科は日本史。2時間続きだから3限から続いている。

 机の上にペラっと置かれていたプリントは最初に配られたものだろう。黒板と空欄だらけのそれを併せて見ても、今どこをやっているのか全く分からない。……これでは蝉の声と変わらない。


 机に体を預け、半ば突っ伏し体勢で頬杖をつく。そのまま十分すぎるほどに明かりを取り込む窓から外を覗いた。

 誰も来ない正門を、雲のない空を、街並みを、ぼんやりと眺めていた。

 窓外にある構造上の凹凸が塵程度にでも影を作るのか、うすく、うすく、教室が反射していた。


(人間が空を飛べるわけじゃない)


 ヒトという肉体に囚われている以上、逃げることはできないが、恐れることはない。

 空を泳ぐ鳥と、透明な壁を隔てて映る僕らの違いは変わることのないものだ。


 寝惚けていないように映る、慣れているはずの自分の顔へ舌打ちをした。



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