◇14 変革と回帰




「……ただいま」


 夕暮れさえ未だの、想定より早い帰宅。珍しく家には叔父さんも広夢もいなかった。

 当然冷房なんて付いていない、下手をすれば外よりも脳にくる蒸し風呂状態。体調それ自体は幾分戻ったが……ただでさえ汗まみれのシャツと下着があまりにも重く感じる。

 靴下を脱ぎ捨て足早に階段へ。ぼんやりして足裏の汗で転落しそうになりながら、自分の部屋まで着いてドアを開ける。


 エアコンをつけ、ベッドの上に座り込む。

 徐々にエアコンがかかり始め、呪いのような暑さから解放されてしまうと手持無沙汰に感じ始めた。


 何の気なしに開いたスマホの写真フォルダーに見覚えのないものを見つける。途中からなぜか勝手に持って行かれていたので、恐らく天笠が撮ったものだろう。自分のスマホで撮れよ。それから送れば……別に欲しいわけじゃないけども。

 何枚撮ってるんだ、これ。一覧ページで1スクロールしても終わらないぞ。握る手の汗も乾き始め、ちょうどよく滑る指で画面をなぞる。

 メビウスの外観。家族連れなど多くの人々。吹き抜けから見下ろした多くの店。敷き詰まった本棚。天笠が買った本。昼時の混み具合。フードコートのざるそば。落ち着きのあるギャラリースペース。現代アート作品の数数。……見ることのできなかったあの絵があるのではないか、という小さな警戒は杞憂だった。


 最後の2枚は……ぽつん、と一時的に外された眼鏡と、調子崩してベンチで項垂れる僕を尻目に満面の笑みでピースサインを出す天笠。こいつ性格悪いだろ。


 ――ふ。


 思わず口元から零れた笑みを、気づいて、そのままにした。


 けれど、とその一方で首を傾げる。

 その満面の笑顔に、何か引っかかるものが……いや、誰かに似ている、のか? しかしその“誰”についてすぐ思い至る人物はいない。単なる杞憂だろうか。


 ――指でなぞって空に描くだけでは足りない。直接紙に描いて、確かめたい。


 思うだけでぞわりと怖気の立つ感覚が背中を通り抜ける。先日のナニカの侵食激化を。

 とうの昔に鎮火した、燃えるような情熱のせいではない。碌なことにならないと分かっているのに、一度気になってしまえば脳から離れない、焼け爛れた後にも残ってしまった本能的な好奇心という悪癖だった。

 これは絵を描くわけではない。だから大丈夫、と自分への言い訳が脳を回ると、身体は立ち上がり手が周りの荷物の山をかき回し始める。


 学校と家とで2つ用意しているルーズリーフの余り。滅多に家で勉強などしないから、どこかに袋ごと放置されて残っているはずだ。探す手は止めずにあっちこっちで物をひっくり返しながら、最後に使った用事をよく考える。1年前の試験の時だろうか。


 山からはなかなか見つからないので、壁際の机に備え付けられた大きな引き戸を開ける。

 そこには、中学生の時の教科書、ノート、芸術系の授業の作品、大量のクリアファイルなどが所狭しといったように並んでいた。部屋の状態と同じ、整理整頓のできない奴の見本市状態だ。

 

 最後に開けたのはいつだっけ? 当然のように埃をかぶっているから、鼻がむずむずする。うっとうしいけど窓を開けるのも面倒だ。エアコン付けてるし。

 もはやルーズリーフなんて探さずに使わないプリントの裏にでも描けばいいような気もするが、やはり見つからないまま放り出すことのできない性分だった。


 とりあえず、中のものを引っ張り出しては確認していく。


 違う。

 違う。

 違う。

 これも違う。


 これも……ん?


 違う、と自分の左側に形成されつつある山へと振り分けようとする途中で手が止まった。


 1冊のノートであった。


 表紙には『らくがきちょう』の文字。そのすぐ横に数字の7が、黒いマジックを使って手書きで付け加えられていた。


 ――僕のだ。


 表を見るだけで言い知れぬ懐かしさに襲われる。絵のために使っていたことをすっかり忘れていた。小さい頃は線のない落書き帳にある無限の可能性が好きだったんだ。

 7、ってことは他のもあるのだろうか。

 引き戸の中を先ほどより気持ち早く、どんどんと発掘していくが、なかなかそれらしきものは見当たらない。結局ここにあったのは7番目だけだった。

 もう捨ててしまった、のかな。


 なにはともあれ、とノートを開く。

 開いた先に現れたのは空白のページ。ノートの作り方の都合上、最初と最後は最も書きにくいページ。なかなか利口じゃないか、ぼく。


 次のページを開く。

 ページを開く。

 開く。

 開く。


 (……すごい)


 単純な自画自賛ではない。心からの感嘆であった。

 絵自体についてはおぼろげにも覚えていることはない。それでも、描きこまれた線の数や陰影の表現は一朝一夕では完成しえないものと分かる。


 単純なうまさは、やはり深路に及ぶものではない。だのに直に見ると溢れてくるような情熱がそこにはあった。

 まるで別人だ、とも素直に思った。

 こんな根気のいる作業は絶対に無理だ。面倒臭くなって途中で逃げだしたくなる。


 かかれている対象は様々だった。

 風景、人物、どれも現実にピンとくるものはないから、恐らく頭の中にある空想上の世界を描いているのだろう。やはりというか、当然というべきか、色が付いているものはない。このレベルならしっかり鉛筆画と言っても問題ないだろう。


(……?)


 ページをめくる手が止まる。

 指から伝わる感触が少し変わったからだ。

 所々が角張り、紙がよれよれになって変な折り目が付いている。


 どうなってるんだ?


 慎重な手つきで次のページをめくる。


「………………………………っっ!!!!」



 ソレを目にした途端――不鮮明だった1か月前の公園での記憶が、頭の中で叫び声をあげるようにフラッシュバックした。



 (……ぁ)


 呼吸ができない。必死に首元を掴むがどうすることもできない。

 方法がわからない。

 しかいがしろくかすみがかってくる。


 あれ。

 どうやって。


「……っはぁ!! へぁ、はぁ……っんぐぅあ……はぁ……」


 呼吸が戻る。

 飛びかけた意識と視界も徐々に続く。

 頭と喉にどろどろとした熱が溜まって気持ち悪い。


 死体。

 あの死体だ……。


 ノートをベッドの上に放り投げても、さっきの光景が頭に浮かぶ。

 作者が変わったように、紙を虐げるようなタッチで描かれたそれは――公園の惨死体と明らかに重なるものだ。


 刃物を持った右手だけが残る、人とは呼べない人。

 ありふれていいわけのない構図が、既にそこに存在していた。


「……っぁ……っく……」


 意味が分からない、どうして、僕は。ぐるぐる回る思考をせき止めるように、両手で顔を覆う。それでも溢れてしまいそうな思考を、頭を潰すほどの強さで押さえつけた。


 落ち着く。大丈夫。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。大丈夫。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。大丈夫。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。大丈夫。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。落ち着く。大丈夫。


 強引に、思考を止める。


 僕はまだ壊れてない。……まだ、大丈夫。



 いつのまにか寒く、暗い。汗だくのシャツが乾ききるほどエアコンが効いており、遅くまで登るようになった太陽ももう沈みかけていた。時計は、6時半。部屋に入ってからすでに2時間近くが経過していた。

 どおりでめが、ぼんやり、する。くらくてなにも――。


(……寒い)


 少しだけ明瞭になった頭が室温を認識し、思わず身体を掻き抱く。……とりあえずエアコン消さないと。

 重ったるい体をなんとか動かし、立ち上がって電気をつける。リモコンはベッドの上に置きっぱなしだった。倒れ込んで、停止させる。


 気力が残っていたのはそこまでだった。

 身体的、精神的疲労による限界。汗や冷房などの直接的要因がもたらす以上に冷たくなった全身には力が入らない。思考の上から眠気の膜が張り、重なり始める。何度も、何度も。


 その幕間のような間隙で、抑えられない思考が回り続けていた。


 描いた記憶がない。しかし見間違えるはずがない。

 タッチが多少変わっていてもあれは、あの死体の絵は――僕が描いたものだ。


 それでも僕の脳は、ほとんどあり得ないことだと分かっていながら、誰かが超高精度で模倣した可能性を求めて必死に回転する。


 だってあの絵は、僕と事件とに関連を生むものだ。

 だってあの絵は、過去に存在してはいけないものだ。

 だってあの絵は、ナニカが見えていないと描けるはずのない絵だ。

 だってあの絵は、決して僕から生まれるべくもない極地のような構図だ。

 だってあの絵は、不完全だ、とどこからか声が響くものだ。

 だってあの絵は……。


 “僕の記憶は、あまりに“抜け落ちすぎている”。




 今日はまた、あの夢を見る気がしていた。



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