◆9 6月2日のあの日/妙な体験
「こちらのものでお間違いないでしょうか?」
「はい。ありがとうございます」
「中身もご確認できましたら、こちらの書類をお願いします」
6月2日。
梅雨全盛に入ろうかとするこの頃。地域の中心である白森駅まではるばると出張ったのは、先日電車に置き忘れた物を取りに行くためだった。
都会の駅は人が多くて敵わない。無駄に高い身長は紛れることもできずに視線を集める。
目当てを回収した帰り道の途中、日差しはギンギラギンギンギン。地球温暖化とはかくありき、という夏日であった。
両手の人差し指と親指で長方形の枠を作り、通して見上げる空には、雲1つも、眼鏡だって遮るものはなく、くっきりと映った。
「……降水確率100パーセントじゃなかったのかよ」
掻いた手汗を制服のズボンで拭い取ってから、ポケットから手早くスマホを取り出す。
朝の時点では午後まで横1列に傘のマークを躍らせていたはずの液晶。そこに映るのは顔の付いた太陽だけ。やけにその笑顔が馬鹿にしているように感じる。
曇りですらない。……これは訴えたら勝てる気がする。
周りの通行人に傘を持っている人はほとんどいない。手からぶら下げた大きめの黒い傘はかなり浮いている。
今朝の雨で湿ったアスファルトの臭いが苛立ちをさらに強めた。
溜息をついて高性能な役立たずをポケットに突っ込む。
代わりに学生鞄の中から受け取ったもの――ペラペラで安っぽい作りの迷彩柄のポーチを取り出す。
外出する時にいつもこまごまする物を入れておく、昔から愛用していたものだ。ないと結構困るから気は回しているんだけど……疲れて寝過ごし、電車に忘れたのはあの特別講演会の日。
大仰な講演会場を貸し切り、金髪ロン毛で若作りした30代後半の特別講師が意味不明かつ面白くない身上話を繰り広げる。我が高校において毎年開催され、その後のレポート提出も含めて生徒間でのトップオブ不評イベント。
寝ている生徒を取り締まる先生たちの目つきが異常なぎらつきを見せるなど、色々な部分に闇が見え隠れしている。大人って怖い。
今ポーチの中に入っているのは、ペン、クリップ、それとメモ帳――これを電車に置き忘れた日に書いたメモが残っている――だけである。
最新のページに遺言のように残る摩訶不思議な文字は、講演で話された量とは明らかに釣り合っていない。これでも頑張った方だ。忘れてひと手間を掛けさせたこの日の自分さえ責める気持ちは生まれてこない。
(――――なんだ、これ?)
メモ帳、最後のページに、身に覚えのない文字。
『あの日をもう一度――marginal summer』
当然僕にはメモ帳を後ろから使う、例えて言うならあとがきから本を読むような趣味はない。
誰が、いつ、こんな悪戯を?
もしこれが仮に僕に向けられたものとしても、ああしろこうしろ、という指示でもなければ、何かへの警告でもない。いったい何のためのものなのか。
あの日をもう一度、というのは過去への郷愁だろうか。僕にも、誰にでもある普遍的な感情で、これじゃ何の手掛かりにもならない。
Marginal summerは……単純に読めば“境界の夏”。こっちは全く意味が分からんな。ゲーム、楽曲、絵画、何らかの作品のタイトルにも見える。
……頭を悩ませるだけ無駄だな。
ページを破って丸め、ポーチの中に放り込んだ。
「……はぁ」
そんなこんなで暑い道中、だいぶ汗をかきながら家に帰ってきた時にはもう夕暮れ時だった。
いまだに冬場の癖で、ドアノブより先に外に置いてある郵便受けを開ける。先に違うものに触れて置けば静電気も怖くない、という寸法である。
大抵何も入っていないからすぐに閉めるんだけど……あれ?
ひやりとした感覚が指先に伝わる。
郵便受けの底に何かが入っている。
「……?」
薄く縦長で、手のひらよりも小さい。それに……固い?
人差し指と親指でつまんで拾い上げた。黒いそれを裏返すと、液晶のディスプレイと三角四角……ああ、なるほど。
これは――小型の音楽プレイヤーだ。
今や携帯電話が音楽プレイヤーの役割もこなせる時代である。電気屋に行けば見かけるだろうが、僕を含め物好きでない人間にとっては必要性の薄い代物だ。
なぜこんなものが家の郵便受けに入っているのだろうか?
僕以外の2人が購入したもの、なんてことはないだろう。いかに運送業界が人員不足だとしても、商品をむき出しのまま送ることはないはずだ。
それに裏面をよく見ると、これは明らかに新品ではない。ほとんど背面と同化しているメーカーのロゴのところ、隠し味程度に振られた胡麻のような金の点々が付いていた。恐らく金の塗装部分が剥げたのだと分かる。
メモといい、今日は妙な体験ばっかりだな。……とりあえず後で心当たりがないか聞いてみよう。
「ただいま」
本来は休日でも何でもない日。
叔父さんも広夢もまだ帰ってきていないだろう、という当ては、しかし外れた。玄関先には僕の革靴よりも一回り小さいスニーカーが、綺麗に整えられた状態で置かれていた。
靴の持ち主――広夢は形式上僕のいとこにあたる。
従妹ではなく、従弟であるうえ、仲のいい関係でもない。一部の人が胸躍らせるような境遇とは程遠い。
広夢側の心情はともかく、特定の確執があって嫌っているわけではないのだ。成長してからできた同居人といきなり仲良くなるのは、壁の崩し方が分からず結構難しい。
もう何年たつのかは、分からないけど。
玄関を抜けてすぐはリビングだが、人の姿はなかった。恐らく自分の部屋にいるのだろう。
深く気にせず、僕もさっさと2階の部屋に向かう。ドアを開けた途端にこもった熱気が全身を襲ってきた。いつも通りの動作でエアコンをつけるが、遠出の疲れも会ってもう限界だ。今すぐベッドに寝転がりたい。
だが今の汗だくの状態でそれは許されざる行為である。最後の余力を整頓されずに散らばっている参考書や教科書を横に避けることに使って床に寝転がった。ブレザーをハンガーにかけるような気力はもうない。
そうして心地よく意識を……。
……お腹空いたな。
とてもとても動きたくないが、1度でも意識して脳に信号が回れば、目を閉じた裏に湯気の立つ総菜が浮かび上がる。
……もう起きるしかない。しかしそれには言い訳が必要だった。
エアコンが効くまでは部屋にいても暑いだけ、そう自分に言い聞かせることから始める。
横になったまま、ワイシャツと制服のズボンと、後は汗の掻いた下着をのっそりと脱ぐ。白ティーシャツとスウェットという格好に着替える頃にはようやく諦められた。
投げっぱなしの学生鞄から財布を取りだして、洗濯物を持って部屋を出た。
さっきまでいたのに熱気でクラクラしそうだ。冷気を閉じ込めておくためにも、部屋のドアはしっかり閉める。
階段を下りて1階の洗濯機に下着とワイシャツとを放り込み、前のハンガーにズボンを吊るす。冷蔵庫を開け、キンキンに冷えたお茶を取り出す。暑い時期にこれ以外の選択肢はあり得ない。
コップにお茶を注いでから、スマホのロックを外して通知を確認すると――何か来てるな。
タップしてあまり役に立っていないメッセージアプリを起動する。トモダチの数が5人、同居人を除けば3人。つまりそういうことである。
新規メッセージは2件。
先ほど写真を撮って載せておいた、音楽プレイヤーに関しての返答であった。
『この音楽プレイヤー知ってる? 郵便受けのところに入ってたんだけど』
『うーん……ごめん。分からないや』『知らない』
送ったメッセージに対して、少し時間をおいて叔父さんが答え、そのすぐ後に広夢が答えていた。
しかし2人が分からないとすると、いよいよ謎だらけ、か。
これで音楽を聴くと呪われて、他の人に送り付けないといけない……って新手のチェーンメールみたいなものとか? もうそこまでいくなら犯人は知り合いであって欲しい。じゃなかったら怖すぎる。
まあ、これも考えたって仕方がないんだよな。
あることを思いついて、お茶をぐっと飲み干す。それならそれで有効活用してやろうじゃないか、という奴だ。
さっきの音楽プレイヤーがリビングの長机にそのままであることを確認し、もう一度階段を上って自分の部屋に戻った。
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