◇8 ありふれた一日の終わり
そもそもの発端は1か月前に目撃した死体――なぜかニュースに上がらない『あの』バラバラ死体だった。
6月2日。死体を目撃した直後、酷い頭痛に苛まれ定式が途切れた。再度覚醒したときには、僕は外出したそのままの恰好で自分の部屋のベッドの上に倒れこんでいた。
闇の中で最初に感じたのは困惑だった。何が起きたのか、自分がどうやってここまで帰ってきたのか、自分が見たものはなんだったのか。分からないことばかりが、ぼんやりとした頭の中に泡沫のように浮かんでは消える。
思考がまとまらない。
言い知れぬ不安。何もできない苛立ち。全身から服へ貼り付いた汗が不快感を煽る。前髪を持ち上げて頭を押さえる。掻く。軽く叩く。どうにも拭えない。
浮かんでくる記憶は夢幻だったのだろうか。
そんな都合の良いことを考えているとき、もう片方の手が何か固いモノを握りしめていることに気が付いた。
……なんだ、これ?
のそり、と立ち上がって机のライトを点ける。小さく強い明かりに照らされた時計が示していた時刻は未だ深夜。
そして開いた手が握っていたのは、黒い音楽プレイヤー。
どうして、とそれを無意識に弄んだ時。
(!?)
芯に冷や水を浴びせられるように、目が、意識が醒めた。
端末の裏側。そしてそれを握りしめていた自分の手。――そこには乾いた赤黒い何かが呪いのようにこびり付いていた。
呼吸が浅く、早くなるのが止まらない。目を閉じ、少し震える手で机の上に端末を置く。
目が覚めてからずっと感じていた謎の存在感。
何かがこの部屋にいるような、そんな違和感。僕は後ろを振り向く。
「…………ぁっ」
部屋の家具が机のライトに照らされて影を作る。
それだけではない。
影でも闇でもない黒。得体のしれない生物のような、不定形のような、虫の群体のような。
それはもう『ナニカ』としか形容できない――異形が部屋中で蠢いていたのだ。
――――――
――――
――ここ……どこだ……?
目を開けたとき、そこには知らない天井が広がっている。
自分の視界は、顕微鏡を覗いているかのごとく極端に狭くなっていて、首を動かしても白いものが写るだけだ。
力を入れようとしても、体が動かない。
……なんのおとだろう? ひとがたくさんはしっているような――――。
「……はぁ……っふぅ……」
そこで目を覚ました。
帰ってきて早々に倒れこんで寝ていたようだ。
病院にいたころの夢、なんていつぶりだろう。
弱弱しく伸びをしながら、たった今起こした上半身を再度ベッドへと倒れこませる。冷房だけ点けて、部屋の明かりは点けない。真っ暗のまま。汗だくの制服のまま。
疲れているわけじゃない。いつも通りだ。
記憶は不鮮明だが、その黒い物体が死体から這い出てきたものだと理解していた。
幻というにはあまりにも強烈な存在感。傷跡のように世界の中に留まり続けているのに、誰にも認識されることはなかった。
いたるところに存在しているのに、見えているのは常に自分だけ。
触れようとしても、霞を掴むようでまるで手ごたえがない。動かすことはできても、掴もうとすれば煙のように手のひらの中から霧散してしまう。
その存在を自分の中でもはっきりと証明することもできず、嫌悪と不快を拭いきることなどできはしなかった。
それから、『ナニカ』の蠢く世界が僕の当たり前になった。
初めは外出するのも恐ろしくてできず、学校もしばらく休んだ。直接世界を視なければ『ナニカ』を認識することがないと分かるまで、ずっと。
今まで不便でないからと気にも留めていなかった視力検査の結果用紙を片手に、すぐに眼鏡を作りに行って、ようやくだ。
眼鏡を用意してからの2週間、それまでの日常をほとんど取り戻したと思っていた。
はずだったのだが……まるで当てつけのように、今日またそれがひっくり返された。
もはや眼鏡を通しても、もやのようにうっすらと――少しずつその濃さを増しながら――黒い物体が視界の中に映りだしていた。
……もうどうしようもないのか。
諦念と絶望。
自棄になる自分が、眼鏡を外してポケットの中に突っ込む。
当然のように視界には――闇の中で薄く――ナニカが出現する。軽く頭痛がしていたが、もはや何の感情も沸き起こる気がしなかった。
………………。
……――寝ぼけた思考が急速に冷えていく。
いつも通り――いつも通りか。
その言葉の指すところは、この1か月間で大きく変容してしまったように感じる。
何も見えない、何もわからないこんな闇の中に、1番の安息を求めるようなものでは決してなかったはずなのだ。
無造作に突っ込んだ、ほとんど度の入っていない眼鏡を取り出して、机の上に置いた。
後でレンズを拭いておかなきゃ。
いつまでたっても慣れない。ずっと首回りが重いままだ。それでも手放せない。
暗闇にいれば、闇に紛れているであろう『ナニカ』を見なくて済むのだから。
歪な安心は暗闇に少しずつ慣れていくと同時に薄れていく。
不意にポケットに入れたままの携帯が振動した。
仰向きに寝転がったそのままの体勢で携帯を取り出し、少し考えないとどこに配置していたか忘れてしまうメッセージアプリを起動する。
新規メッセージの通知が溜まりきったクラスグループ。その上の相手に送った「日曜日どうするんだ?」に対しての返答はまだ来ていない。
手に持った携帯を傍らに放り投げ、小さく欠伸をしてから両手で自分の顔を覆った。
小さい時からの癖だった。こうやっていれば気分が落ち着いて楽になる。ナニカを見ることもない。
冷えていく部屋の中で、両の掌だけが温もりを感じさせた。
……今日のことは忘れよう。
そう思って瞼を閉じても、刻み付けられたあの日の出来事を忘れ去ることなどできない。闇の中に“それ”は浮かび上がってくるのだ。
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