◇7 ありふれた一日の続き
なんだかんだとその後も対局を続けた。
賭けに負けた気落ち、とも違う。なんというか、よくわからない。ただ2人とも自然に駒を並べ直し、当然のようにもう1ゲームが始まった。
いつもと同じ、ありふれた日常。
すぐに時刻は活動終了時刻の5時になった。夏ではやはり明るいままであるが、延長届を出していない部活や学級活動はこの時間までとなる。
いつもはそのまま天笠と帰っている。しかし今日はまだ学校に用事があった。
「じゃあ先輩。約束忘れないでくださいねー」
手を振る天笠を若干の反笑いで見送り、今は2階の廊下を歩いている。
すれ違うわずかな生徒が向ける好色の視線。校庭、体育館、いろんな場所からここまで響く運動部の練習する声。三谷のバスケ部もまだやってるだろう。彼女らに毎度毎度延長届を出させるのは不毛じゃないかとよく思っている。
本棟2階のフロアには職員室や事務室などの教室がある。まあ、真面目に生きていればあまり立ち寄ることのない階である。
かといって僕が何かやらかしたかと言われれば、別にそういうわけではない。
用事があるのは職員室の隣――生徒会室であった。
あいつ本当に行くつもりなんだろうか。……いや行くつもりなんだろうな。
さっきの天笠に言われたことを頭の中で反芻する。人と出かけることなんてほとんどない。というかこの表現すら若干見栄を張っている。期待なんかより漠然とした憂鬱さが勝っている。
「失礼します」
ドアノブを捻って生徒会室に入る。一瞬だけ感じた不穏な温かみ。誰かが果てぬ労働の後に燃え尽きたような……気にしないでおこう。
中には本棚や書類の山、コピー機などが壁に置かれている。僕の部屋といい勝負かもしれない。
その中心に置いてある長机にパソコンを置き、椅子に座っているのが僕を呼んだ張本人の深路であった。
「や、すまんな」
す、と綺麗にこちらに向けて片手をあげた。なるほど、顔を上げずに作業をしているところを見るとよほど大変らしい。
深路が教室を出る前に、「少しだけ白芸祭関連の作業を手伝って欲しい。部活の後暇か?」と声を掛けられていた。断る理由もなく、それを承諾した僕は健気にここまで来たという寸法である。面倒ではある。別にいいけど。
肩にかけた鞄を壁の端に置いて、中から筆箱を取り出す。
「なんだ。てっきり大変って言うからもっと大人数で作業してるのかと思った」
「人手が足りてるなら津島を呼ぶ必要ないだろ」
それもそうか。
「そこに積んである冊子の下書きあるだろ? それ、全部サインペンで清書してくれ」
「はいよ、了解。……割と量あるな」
指示されたものは分かりやすく机の端に置いてあった。
1、2、3、4……こんなに量用意してるのか。この手の学校紹介冊子なんて呼んだことないから知らなかった。
うわ、文字びっしりから手描きイラストまで。……これ3秒で描いただろ雑すぎる。なんにせよ地獄か。
こんなもんパソコンで作っとけよ。謎の学生感出す必要ここにあるのか?
……頭動かしてると文句しか出ない。とっとと片付けよう。
――――――
――――
「…………っくぅーー。こっちは終わったよ」
「ああ、私も今終わった。ありがとう、助かったよ」
サインペンを置いて大きく伸びをする。ペンを握っていた右手の側面はインクで黒くなり、傍らには消しカスの山ができている。
……死ぬほど疲れた。手の側面、小指球あたりの筋肉が痛い。
イラストの雑さと裏腹に構成が細かいところまで凝りすぎ。これを作った奴は絶対超の付くような真面目だ。僕だったら間違いなく投げ出す。
深路の仕事ではないだろう。この顔と雰囲気、生徒会長の肩書で真面目っぽく見られているが、こいつの中身は物凄くいい加減だ。
「終わったこれ、どうすればいい?」
「そのまま机に置いといてくれ……あー、その前に一度私に見せてくれ」
1時間ほどの血と汗と涙の結晶――清書した冊子たちを手渡し、机に突っ伏す。深路は受け取った冊子をペラペラと捲りながら確認を終えると、棚から引っ張り出したいくつかのクリアファイルへ入れて元に戻した。
「よし、今日までにやりたいことは全部完了」
周囲が華やぐほど満足げに顔を綻ばせて、小さく独り言。
普段の鉄仮面とのギャップがすごいが、これもいつも通り。少しでも感情が振れると驚くほど感情が顔に出るのだ。それはもうめちゃくちゃに。
「で、どうする? 帰るか?」
時計を見ながら問いかける。延長活動の最終時刻まではあと30分ほど余裕があるし、窓に映る空も暗くない。が、別にわざわざ残る理由は僕にはない。
「ちょっとだけ残ってもいいか? 絵の途中を描きたいんだ」
と言って深路は自分の鞄からスケッチブックを取り出した。僕が答える前に既に動いている、なんて指摘は――まさに詮無きことってやつだな。古文嫌いだし今日の授業はこれしか覚えていない。
……まあ別にいいよ。
つい勢いよく筆箱のチャックを閉めた。上体を起こして固い背もたれへと体重を預ける。やることもないので天井へと視線を飛ばした。
「お前そういえば美術部だったな」
「……お前もな」
スケッチブックをパラパラと捲る音――すぐに止まる。開いたページにどんな絵が描かれているのかは、体勢的によく見えない。鉛筆とティッシュを用意して、鼓膜に伝わる音は紙の上で走る鉛筆の擦れに変わった。
何度か作品を見せて貰ったことがある。それこそ昔から。
似非美術部の僕と違って、こいつは純粋に絵が上手い。たまに部活に来たと思えば僕とつるんで遊んでいることも多いのに、深路の技術はあの頃より衰えるどころか、明らかに進化していた。
描かれたものすべてが、それについての思索を躊躇わせるほどの線引きと確立感、そんな圧倒的な硬さが、僕にとって深路の作品の代名詞だった。しかし、昔は他のすべてを無視して疎外することしかしない一辺倒だったそれは、他者世界の存在と柔らかさを作品に認め、唯一無二の緩急剛柔として昇華されていた。
今の深路のタッチ、色使い、個性は、展示されるような画家の絵だと多くの人が勘違いするだろう。進路調査票に美術系の大学を書いていても欠片も驚かない自信がある。
しかしどうも昔の記憶には自信のない僕だが、小学校で初めて話しかけたときもこいつは確か絵を描いていたと思う。
そうやって頭の中に浮かんできた小学生の深路を今の姿と重ね合わせる。
……全く合わない。
こうして深路を見ていると、薄い記憶の中にある深路の姿とは似ても似つかない。
深路香奈という少女は、なんかこう、もっと自信なさげで無感情な子供だったはず、だと思う。
「なあ」「うん?」
「お前、やっぱ変わったよな。小学生の時と比べてさ」
その言葉を何気なく放ったとき、深路の表情が変わった。
驚いているような、悲しんでいるような。こちらの心の内を推し量るような表情に責められている気持ちになる。
……。
そんなに変なこと聞いてないよな、僕。
「……ああ、そうだな。そういう風になるわけだ」
「?」
よく分からないことを言った深路は、すぐに描きかけの絵の方に視線を戻した。
嫌に変な雰囲気だった。
……いつだったか、高校に入って再開してすぐの時もこんな感じだった気がする。でもあの時は確か向こうから……。
何か触れられたくないことでもあるんだろうか?
そんなことを聞ける雰囲気でもなく、室内は静寂に包まれる。
「そういえばお前。絵はもう描かないのか? それこそ昔はよく描いていただろ?」
静寂が破れたのは存外にすぐのことであった。
「僕?」「そう、お前」
他に誰がいるんだ、と言いたげに返される。
「前も言わなかったっけ。鉛筆握っても熱が湧いてこないんだ、格好いいだろ? もうずっと描いてないよ」
そう。深路と同じように、と言ったらおこがましいけど、僕も小さい頃はずっと絵を描いていた。
色も道具も使わない、時間をかけて頭にあるイメージを出力するだけの鉛筆画。
それは遠い、昔の話だ。
憮然とした表情の深路がこちらを見――睨んでいる。ご納得いただけないらしい。嘘でも何でもないんだけどな。
なら、遠回りで具体的な理由を提示してやるよ。
「……すごく好きな絵があったんだ。それへの憧れで描いていただけなんだよ、昔はね。まあどこで見た何の絵だったかもよく覚えてないんだけどさ」
それが明確なきっかけだった。
すべての活動が絵を描くことに括りつけられ寝食すらも忘れる。今考えると凄いことだ。風呂に入ったアルキメデスか、ともかく雷に打たれたような衝撃だったのだろう。
『それ』についての記憶が定かでないことが、……少しだけ寂しくなる。
その絵を見てから、特段の才能がなくとも描いて、描いて、描きまくった。おぼろげな記憶でもそのほとんどが何かを描いていたものなのだ。誇張はない。
焦がれたその絵や深路の描いた絵にはほとんど近づかずとも、熱に浮かされるまま描き続けた。何を考えずとも手が動き、脳裏のイメージが固まっていなくとも紙上に構図を完成させた。することができた。それが僕にとって絵を描くということだった。
しかし、入院したまま小学校を卒業して、中学生になって出てきたころには熱のすべてが抜け落ちていた。
頭の中のイメージは浮遊してすぐに消えてなくなる。補強するための技術――当たりやアウトラインで誤魔化そうとしても、鉛筆を動かすはずの熱が現れることはない。
どうしてだか、分からない。描きすぎて気持ちが切れたのか、人は皆子供の頃は天才であるとはよく言うが、これも成長だと言うのだろうか。深路が描く作品に現れる“成長”を見てから言いたくはない。
だが僕とではもとより才能が違う。それだけのことでしかない、とも思うのだ。
「さっきの冊子、イラストもあっただろう?」
「ありゃただの作業だろ? ……なんだ? そういう意図ってことかよ」
すぐに答えないところを見るに、どうやら本当にそうらしい。
……よく分からないな。僕の絵なんて今も昔も深路と比べる域にないのだけれど。
「それは違うぞ。少なくとも私はお前の絵が好きだったし、絵の評価なんて人それぞれだろう?」
口に出してないことを読み取るな。……僕、人のこと言えないのか?
「……そう言われるのは嬉しいけどさ」
「まどろっこしいな。じゃあこれだ」
深路は手元の紙にさらっと何かを書き込み、2つ折りにしてからこちらに投げてよこす。
これは小学生の頃からの、こいつとのお決まりの儀式だった。彼女の意向に後で文句を言わせないためのもの。
「1」
そう宣言しながら開いた紙には、僕のとは似ても似つかないような綺麗な字で『2』と書かれている。
仕組みは単純。1か2、どちらかを深路が選んで、また僕に選ばせる。数字が当たれば僕の意見、数字が外れれば深路の意見を受け入れるというものだ。なんという合理的。たった今僕は敗北したのである。
長い付き合いだ。今更違う数字が出ても思うところはない。これまでに9割近く負けているし、そこまで来るともはや受け入れるための儀式なのだ。加えてこいつは本当に意見を通したい時は普通にイカサマをする。
ちなみに残りの1割は昔暗号を作って僕がイカサマしていた時のもの。近所の家から人が顔を出すほどに癇癪を起こしたのですぐに禁止となった。横暴すぎる。
「お前がどうしても描きたくないような理由があるなら仕方ないが、今少し描いてみたらどうだ?」
ほら、と深路がスケッチブックから1枚切り離し、同じようにこちらにスッ、と投げてよこした。紙はクルクルと回りながら長い机を滑り、真ん前でちょうど静止する。
そんなに描かせたいのか。
感覚は――まだある程度残ってる。多分、実質上、描けなくはないのだろう、と思う。
だけど。紙面へと目を落としても何も湧いてこない。
学校のなんでもない風景。比較にならないほど目を見張る絶景の中で何度鉛筆を握ろうとして、諦めただろうか。やはり今の自分に『絵を描く』ことはできないのだろう。
……深路はもう自分の作業に戻っていたが、こちらの様子をちらちらと伺っている。正直面倒なのだが、特にやることもないのは事実だ。どうせ時間的にも最後まで描けなくてもともとだろう。はあ。
使わずに机の上に置かれたままの自分の筆箱を引き寄せる。鉛筆なんて入れていないが、まあシャーペンでいいだろう。
取り出したシャーペンを――少しでも期待している自分が惨めだ――くるり、くるりと右手で弄びながら、体勢を変えて左手で頬杖を突く。
“何を描こうか。”
色々考えるのは面倒だった。
特に描きたいと感じるものはない。当てもなく部屋中に視線を彷徨わせても――と視点が止まる。それは僕から見てちょうど正面、絵を描く深路の場所だった。
題材に困ったときは絶景か美人を描いておけば良い、と昔からお偉い先生方が教えてくれているが、まさしくこの状況にもおあつらえ向きの至言であった。
ただの模写なら深路の作業が終わるぐらいまでは保つだろう。面倒だからこれでいい。自分は選択肢の吟味などできない性分だ。
しかし人物画か、意外と描いたことがなかったかもしれない。まずはアタリを。そうやって紙にシャーペンの先が触れた時だった。
前触れなく、世界が壊れたのは。
天井に、床に、窓に、机に、椅子に、電灯に、時計に、絵画に、文房具に、人間に。
世界を黒とそれ以外のモザイクに分けるかのように。
説明できないあの黒い『ナニカ』が。
無数に。
支配的に。
冒涜的に。
滲みだすように現れ、蠢いた。
時間が止まったように停滞し、自分の体ではなくなってしまったように動かせない。
頭の中は3分割され、まるで自分という存在が切り離されてしまったかのように、それぞれが好き勝手に喚き散らす。
1つは耐え難い頭痛への絶叫。
もう1つは眼鏡をかけたままなのに、という困惑。
そして最後に脳に浮きあがっているのは1か月前に目撃した――変死体。
それ以上何かを描くことは、結局できなかった。
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