◇6 美術部の活動
歩いて合計3分ほど。階段を登りきればすぐそこに美術室がある。
僕と深路はそのまま美術室の扉を開け――ることなく、隣の美術準備室の扉を開けた。
埃と乾いた油や石膏の混ざりに混ざった独特の匂い。謎のマネキン、布を掛けられた絵、作りかけの彫刻、それらが乱雑に同居する中で金属製の網棚の上から2段目。そこに置かれているものを引っ張り出す。
木製の将棋盤と駒箱。僕のだ。
暇つぶし道具は他にもあるが最近はめっきりこれだ。ルールの不変性は洗練された古典的ゲームならでは。今どきのゲームにはないもので単純に好みでもある。
両手に持ち部屋の奥へ。美術室につながる扉を開ける。音に反応した壁際の部長が緩慢な動作でこちらに向いたので軽く会釈した。部屋には――なんだ、部長しかいないのか。やけに静かなわけだ。
教室の位置的に西日も入らないし、エアコンも動いている。すこぶる快適だ。
「ここにしよう」とできるだけ邪魔にならない位置を見つけて指差す。部長とは対角の開いているスペースに向かい合って座った。
さっそく駒箱から駒を取り出して、王、飛車、角、そして金、銀、桂、香。そして僕は歩を両端から2枚ずつ並べて、残りの5枚を手に握りしめる。並べ方の順番なんて最初は気にしてなかったのだが、打たされすぎて覚えてしまった。
あれ?
駒を並べているうちに香車の駒が1枚見当たらないことに気が付いた。天笠の側を見ると駒は完璧に並べ終わっている。もう駒箱の中に残っている駒もない。
「センパイ。床に駒落ちてますよ」
「まじ? ありがと」
椅子に座ったまま上半身だけを机の下へと屈める。未だに慣れないのか、鼻から落ちてくる眼鏡を抑えて床を探す。
駒、駒、駒……どこ?
「どこら辺に落ちてんの?」
天笠は何も答えない。聞いてないのか?
「おい――」
体勢を戻して天笠に再び呼びかけようとして、気づいた。
さっきまで欠けていた自分の陣地、香車のスペース。それが埋まっている。もしかしなくても天笠の仕業だろう。……子供か。
文句の1つでも言ってやろう、という考えがパッと頭に浮かぶ。しかしそれが言葉になって出力されることはなかった。
――先輩ってちょっと前から眼鏡かけてますよね?
あまりに脈絡なく天笠は言った。
無防備にもその視線と言葉が直撃する。思わず眼鏡のフレーム部分に手をやった。
「そんなに視力低かったんでしたっけ?」
そのまま固まった僕に対して、更に言葉が重なる。
眼鏡に関して彼女は何度も聞こうとする素振りを見せていたのだ。恐らく純粋な好奇心からだろう。その目には一切の悪意も感じられない。
それでも、その視線が痛く感じる。
いつもその度に話を、視線を逸らしてやり過ごしてきた。
「……いやその、うん。元々そんなに目は良くなかったんだよ。めんどくさいから作りに行ってなかったんだけど、ついこの前機会があって作ってきたんだ」
そう呟いてから、居心地の悪さをごまかして無意識に『眼鏡を一度外す』。
目に映る景色、世界、それに僕は……。
「……っ」
割れるような頭痛が走って両目を瞑る。両手は取り繕う動きで眼鏡拭きを使ってレンズを拭いていた。
長く、息をつく。
眼鏡をかけなおして目を開いた。
山、木、家、人間、校門、窓。視界には当たり前の世界が戻っていた。
「大丈夫ですか?」
呼びかける声に視界の焦点が急速に近まっていき、そして合わさる。そこにいた天笠は心配そうな表情を浮かべていた。
「ん。ああ、平気」
「それじゃ、さっさと始めましょ! 与一先輩」
先ほどまでの不安げな表情はどこへ、すぐにいつもの元気さが戻る天笠。……何とも言えない脱力感に襲われた。
「……おう」
振り駒のためずっと握っていた歩の駒はもう手汗で蒸れていた。気持ちいいものでもないのでさっさと盤上に投げると、表が2枚、裏が3枚で天笠の先行だ。
将棋において、取られたら負けの最も重要な駒である「王将」には王と玉の2種類が存在する。一般的に格上の方が王の駒を使うのだが、この対局において王は僕の陣地に存在している。天笠が駒の動かし方すら怪しい初心者だからである。
「てい」
8五玉。重要なはずの王駒、玉をずいっと前に出す。普通ならまず初手では指さないであろう1手である。
天笠はいつもこんな奇抜な手を打ってくる。意味があるんだかないんだか。それでもなぜか気づいたら追い詰められていることもあるので、あまり気は抜けない。
僕は無難に大駒の角の通り道を開ける手を打って、開戦の狼煙を上げる。すると今度もノータイムで天笠が指し、僕も時間を使わずに指す。
紙の上を鉛筆が、キャンパス上を筆が走る音に交じって、パチリ、パチリ、と駒が弾かれる乾いた木の音が静謐の中に響く。この時間だけは珍しく天笠が静かになるのだった。
駒組みの序盤を通過し、かかり合いの中盤に突入していく。お互いにどんどんと打ち進めていくと、まあ順当に僕の優勢が拡大してきた。
「先輩」
ふと手が止まる。
「なんだよ」
「今度の日曜日一緒に出かけませんか?」
……は?
驚いて指に挟んだ駒を机の上に取り落とした。
「お前今なんて……?」
「だーかーらー。今度の日曜日私の用事に付き合ってくださいって言ってんですよ。耳悪いんですか?」
い、意味が分からん。
何か目的でもあるのか……?
「何ですかその反応はー? 別に裏なんてないですよー」
心を読んだかのような反応に僕は一瞬ドキッとする。
何も目的がないだって? そんな馬鹿な。そんなはずはない。
パチッ。
呆けたまま打った僕の手に対して、ひときわ大きな音で天笠が盤上に駒を打ち付ける。子気味よく響いた音は僕の意識を一気に盤上に引き戻す。
天笠の顔を見ると、何か妙にニヤついた笑いを浮かべている。
「あ」
ハッとして盤上を見る。
……王手飛車取りだ。飛車を逃がそうにも王手がかかっていて逃がすことができない。
不味い。ここで飛車を取られたらまるっきり形勢がひっくり返る。
「……汚いぞ」
「えー何がですか? もしかして嘘だと思ってるんですか与一先輩。ひどいなー。私純粋に先輩をお誘いしたんですけど」
天笠の顔を見る。
まさか、え? 本当なのか?
脳みそが高速回転する。
「ほら、先輩の番なんですから。早く打ってくださいよー」
「あ、ああ」
そうだった。今は自分の番だ。飛車が取られるから逃げなくては。
というかこの盤面飛車をあそこに動かせば王手角取じゃないか。なんだこんないい解決策があるじゃないか。
バチッ。
よし、どうだ。
天笠の顔を見る。あれ?
「はい私の勝ちー」
あ。
天笠の手は僕が何かを言う前に素早く動いた。ぱっと僕の王をかっさらって自分の駒を盤に叩きつけ、曇りのない満面の笑みを浮かべている。
「先輩」
天笠の声がやけにはっきり聞こえて――頭を抱えた。
「ああああ!?」
「忘れてませんよねー? あの約束」
……。
「わ・す・れ・て・ま・せ・ん・よ・ね?」
「……いやその、天笠? こんな形で勝利を収めたって意味がないとは思わないか?」
「微塵も思いません。我が心に一片の悔いなしです」
どーん。という効果音がなりそうな勢いで天笠は胸を張る。
僕と天笠にはある約束があったのだ。
発端は2か月前、天笠が美術室に来た初日のことだ。
将棋セットは元々、深路が暇で美術室に来ているときたまにやるためのもの。1人で手持無沙汰だった僕は、たまたまそれで詰将棋を並べて遊んでいたのだ。
――『センパイ良いもの持ってますね。私とやりませんか?』
別に仲良くもなんともない年下の女子生徒だった。いきなりからこの態度である。
この時天笠は余裕で勝てるとも豪語していたが、初心者だったのにその自信はどこから出ていたんだろうか。普通に返り討ちにした。
なおも強がりをこぼす生意気なやつと連戦し、勝ち続けた。しかし、将棋でも深路に負けまくっている自分に、勝利に次ぐ勝利は甘美すぎた。
――『さすがに疲れてきたんだけど、まだやるの?』
――『あれ、先輩あきらめるんですか?』
――『どの口がそれを言うんだよ……逆に負けたら土下座してお金あげてもいいぐらいだわ』
ぐうの音も出ないほど調子に乗っていた。
――『あ、そんなこといっちゃっていいんですねー? そしたら次の対局で私の真の力を』
――『次とかないから。今日はもう終わり。……全く。お前みたいなのがこんなところで人生を浪費したっていいこと何もないぜ』
カッコつけた皮肉まで飛ばす始末。
ま、まあ言っていることは本心だから。美術部と将棋には悪いが、やることが何もないから暇つぶししている僕と違って、天笠のような人間が来て楽しむようなところでもない。
――『えー。じゃあなんかムカつくんでまた今度ここに来ます。さっきの言葉絶対に忘れませんからね』
――『え、めんど』
正直余裕をぶっこいていた。ちょっと練習したぐらいじゃ負けないでしょ、と。まさかこの冷やかしがずっと続くなんて全く考えてもいなかったし。
そしてそんな予想はあっさり外れ、この生意気な後輩――天笠に、僕は部活に顔を出すたびに勝負を挑まれ続けている。しかも毎回のように今日こそ土下座、土下座と絶対に忘れさせまいとのごとく口に出してくるのだが……。
「え、えーと」
晴れ渡る笑顔を見せる天笠に、口ごもる。
いつものようにしっかり集中していれば、あの場面からでも逆転できたはず。しかし負けは負けだ。いやしかし。自分が蒔いた種だし、自分が摘み取るべきだ。けれど今この場で土下座なんてできると思うか? しかもこいつに? いや無理だ無理。そもそも負けたらって言うのはあの場でに決まってるだろ常識的に考えたら。
落ち着け僕。冷静だ冷静。
こんなことで動揺してどうする。もっと強烈な体験をし――。
「別にいいですよ」
え?
「いや、まあ先輩が土下座しても気持ち悪いだけなんで」
そ、そうだよな。
「その代わり日曜、先輩のお金でお出かけですね。私行きたいところあるんですよ」
断る権利はなかった。
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