◇5 やかましい後輩と
蝉の声も差し込む陽光も衰えない放課後の教室。ホームルームの終わりと一緒に切られたエアコンの冷気が薄れるとともに、人もまばらになっていく。
もう両手の指で数えられるほどしかいない中、「寝不足? なんで?」「……阿呆真面目が無駄に増やして終わらせなかった仕事の尻拭い」――残った1、2グループの会話が蝉時雨をバックにしながらも自然と耳に入ってくる。
そんな空間で、僕はしがみつくように机に伏して鉄に溜まる冷気を右頬に感じていた。
当然、深路と三谷の姿はすでにない。そして僕にも用事が……ないこともない。だけれど。単なる疲労と違う何かで体は縫い付けられていた。
「おーい与一せんぱーい! 早く行きましょうよー」
ドアが勢いよく開かれたと同時に、声が響く。びりりと。平時でもよく通るその声は、静かになっていた教室には響きすぎた。
幸いにも幾人、それでも幾数の視線が声の主へ、そして自然な流れで呼ばれた僕のほうへと注がれた。
目、目、目。
僅かばかり身体に残っていた涼しさは、1粒の汗となって流れ落ちる。纏わりつくような熱と蝉の音が一気に感覚器官に流れ込み、思わず舌打ちと溜息が出そうになる。
立ち上がれなかった数秒前までの自分を恨む。どうしようもないが恨む。
「……」
……ズレた眼鏡を戻して目を開く。度が入っているのに未だ淡くぼやける視界の中では、呼びに来た主――見えなくてもそれが誰か分かっている――がこちらに歩いてくる。
視線から逃げるためにさっさと立ち上がる。横に掛けた鞄を無造作に肩に掛けて、歩いてくる奴を無視して逆側の扉へ、足早に歩き抜けた。のだが。
「何してるんですか先輩。上で待ってたのに二度足ですよもー」
教室を出てすぐのところで、後ろから鞄の紐を引っ張られ立ち止まる。
「……いつも僕の教室までくるなって言ってるだろ」
「えー、だってセンパイ。私が迎えに来ないと部活に来るかどうかわからないじゃないですかー」
「普通に今日は行くつもりだった」
「へー”今日は”ねえ。へー」
やかましく教室に現れた生徒の名前は天笠。美術部の後輩だ。交友関係の狭い僕の唯一の後輩と呼べる人物で、関わりはなかったが中学校も同じだったらしい。
細くて小さいその体にどんなものが詰まってるんだか、って言いたくなる程に、いつも快活で元気なやつだ。僕にとっては不必要極まりない場面も多いけど。
例えばそれは今。面倒臭いのでほっといて歩き出す。
2年生のフロアは3階部分。部室は5階なので階段側へ。
「あっ、ちょっと待ってくださいよー」
そんな少し早歩き気味の僕を追いかけて後輩も後ろをついてくる。
「深路先輩と三谷先輩はどうしたんですか?」
「深路は生徒会、三谷は部活。2人とも忙しいんだよ」
その言葉につながって零れた「僕とは違って」という自嘲に対してしっかり頷く天笠。僕のことを舐め腐っているな、この野郎。
「深路先輩同じ部活のはずなのに、春からまだお会いしたことないんですよねー」
「夏休み開けたらすぐ白芸祭だし、生徒会も忙しいんだろ。というか他の美術部員なんて知らない奴の方が多いだろ」
ここ東白森高校では全生徒が部活に入ることを義務付けている。が、高校生になってそんなモチベーションの高い奴もそう多くはない。美術部はそんな人間の受け皿のような存在になっていて、部員数は合わせると実際50人以上いるらしい。
らしいというのも、参加義務は週1だけだし、10人ほどしか顔も見たことがないのだ。
来たら来たで、仲間内で駄弁っているだけのグループと幽霊部員が大半というのが実態である。芸術にこだわっているのにそれでいいのか、ということは生徒誰しもが思っていることであるので聞いてはいけない。僕にもぶっ刺さるし。
「私はもっと皆仲良くしたいんですけどねー。手のかかる先輩がいるもんで……」
「やめとけやめとけ。皆現状で満足してるんだから」
そんな部活なので他人と不干渉な連中がほとんどだ。少なくとも僕はこいつと深路と部長ぐらいしか話したことがない。気を使うこともないから楽だけどね。……いや、なんかそれも違うな。あいつめっちゃ負けず嫌いだし。
「深路先輩は幼馴染ですから分かりますけど、三谷先輩ってなんでこんなどうしようもない先輩と仲良しなんですか?」
それは僕にとっても不思議なところがあるのだが、「やっぱり顔ですかね」とはどちらにも失礼な言だぞ、おい。悲しくも自分の長所なんてそれだけのものであり、10何年の人生で飽きるほど言われているので僕自身は何も思わないが。
しかしこの不思議な状況、実は昼にさんざん擦られた告白の件と関係がある話だった。
新入生の頃から周りとあまり関わってこなかった僕が2年生になってすぐ、春のこと。
クラス替えを挟んだとはいえ、1年間を経てある程度組み上がった人間関係。鬱陶しくも顔のせいで気分の悪くなる視線をした他人が絡んでくる期間も過ぎ、当然のように輪の外側にいた僕。
――『おい、すみっこイケメン。放課後暇だろ、ちょっと顔貸してくれよ』
片や輪の中心を自由に行ったり来たりする指折りの美人。唐突に声を掛けられたときは、流石に人違いだと思った。
イケメン、と言いながら顔をじっと睨んで怪訝な表情を浮かべ、あまりにもさらっと告げてピューっといなくなったものだから。実際僕は放課後帰ろうとしていたところを首根っこ押さえられて捕まったわけだが。
そして何をさせられるかと思えば、説明されないままにそこからずっと街中を連れまわされたのである。
そんな意味不明な過程ながら、僕と三谷の会話は割と弾んだ。こんな僕にとって“割と”というのは高校入学以来初めてぐらいのことであった。反応の大きさ、間の取り方、自然な笑顔、とまあ三谷のコミュニケーション能力の高さが存分に発揮されていた。
いつぶりかも分からない、特別な経験を堪能した別れ際、
――『気持ちは嬉しいけど、ゴメン。アタシ彼氏がいるんだよね』
と唐突に振られたのだった。
誓って僕は告白などしていない。結論から言って三谷のひどい人違いだ。
そんなことを知る由もない僕は目を点にし、それはもう大笑いしたのだった。大笑いする僕を見て、彼女も負けないぐらい豪快に笑った。
三谷が日常的に僕に絡んでくるようになったのはそれ以降のことだ。
その時のことを思い出すだけで面白いやら力が抜けるやら。
しかしそんな感情面は別にして「色々あったんだよ」とだけ返す。詳しく言うメリットがないから。
というかなんで深路のことを知っているんだろう。深路や三谷のことを僕から話したことはない気がするが……三谷は顔が広い方だし、深路は生徒会で人前に出ることも多い。って考えるとおかしくない、か。
「エロいことですか?」
「……」
こいつには今後も絶対言わない。
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