◇3 ありふれた一日の教室①




「なあ、お前どう思う?」

 

 あつい。すずしいけど、暑い。

 すべては、先ほどの授業で使っていた特別講義室のエアコンが故障していたことが元凶である。現場ではあまりの熱波による地獄が展開されていた。窓は全開にしたからと言われましても、風なんかまったく吹いていないんですけど。

 昼休みになり、いつもの教室に戻ってきてからは天国である。呪文のような蝉の声と急激な温度変化に、どろどろと脳が溶けていきそうだ。


「おーい。聞いてるかー」


 エアコン万歳、とそのまま盲信したいところなのだが、しかし窓からピンポイントに差し込む日差しは、嫌がらせのように窓際後ろから2番目――つまり僕の机へ。

 あそこ、カーテンの可動域のちょうど狭間だから不可避なのだ。ふざけんな。


 張り付いてくる肌着は煩わしいし。というか朝の霧雨はなんだったんだよ、予報はされてたけどさ。あーあ。何もかも嫌になりそう。

 ……なんか腹減ってきたな。そろそろ飯食うか。朝何買ったっけな。


「おい。聞いてるかって」

「聞いてない」


 突っ伏した体勢のまま、投げやりに答える。が、声はおかまいなく続いていく。


「昨日さー、すげー大変だったんだってマジで。千代が智久の態度に本気で切れちゃってさー。止めに入っただけなのにアタシ教科書詰まったバックでぶん殴られたんだぞ。ほら、赤くなってるだろ」


 段々ヒートアップしてきたのか、声の主は肩を揺さぶってくる。こちらの返答なんてこれっぽっちも聞いていない。

 実に面倒なことながら、いつも通り僕が反応してやらないと終わらないのだ。


「そんなこと、いつもやってるじゃないか」


 眼鏡がズレないようゆっくり顔だけ上げて声に答える。暑さにやられた心情と、見上げる格好になったことで三白眼のようにすこぶる悪い目つきになっていただろう。間抜けにも頬には教科書の跡付きで。


 そんなどろりとした眼が捉えたのは、前の椅子に逆向きに座ってこちらに顔を突き出す同級生――三谷晴の姿だ。

 赤茶がかったショートカットは切り揃えられた、と表現するには遊び心に溢れており、当人の性格とこだわりが現れている。かきあげられた前髪と、スクエア系でメタルフレームの眼鏡が彼女のシャープな顔立ちを際立たせてスタイリッシュ……横文字多いな。


「なんだ。聞いてんじゃん」

「聞かされた、な」


 うまく着崩された半袖のワイシャツは、僕が顔を上げるとせわしない動きを止める。力なく悪態をついたが、ともかく話は本当らしい。いつもは健康的な白さで整った顔が、全体的に赤くなっていた。


「顔痛そ。小さいから朝は気が付かなかった」

「お前思いっきり遅刻してたじゃねーか。ま、嫌味が言えるぐらいなら大丈夫だろうが、本当に調子悪かったら素直に帰って休んどけよ。長期で入院してたことあんだろー?」

「……別にこんなのはどうってことないよ。しかもそれ小学生の時の話だし」


 若干の意趣返しも込めた身長差への揶揄。それをあっさり心配に変換されると、性格の差で立つ瀬がない。

 分が悪くなって無意識に解いた頬杖の左手に、机に出しっぱなしだった古文の教科書が触れる。半ば手癖のように鞄に突っ込むと、その中に入っていたビニール袋が見えて気が付く。

 昼休みだ。つまり昼飯だ。

 認識したとたんに暑さで吹っ飛んでいた食欲が戻ってきた。


 というかなんで眼鏡かけたまま突っ伏しているんだお前は、と呆れ顔の三谷を無視し、袋を出して机の上に置く。中にある2つのおにぎりから適当に選んで取り出す。


「2つで足りるのか? 健全な男子高校生だろ」

「大した運動もしないのにそんなエネルギーはいらないね。最低限で十分」


 わさびカルビマヨネーズ。今朝のコンビニで新商品だとしても異様なほどプッシュされていた一品。それにまんまと釣られてあげたのだ。

 さっそく包装を開けて小さく1口ほおばる。


 ……意外とおいしい。


「うわー……またお前変なの買ってんなー。どれどれこっちは……ネギみそ醤油コーン。アタシには理解できない世界だ……」

 

 三谷は僕の買ったおにぎりの具を見てどこか遠い目をしている。これが楽しみなんだよ、ほっとけ。


「そういえば与一。昨日この近くでなんか事件あったらしいって知ってっか?」いつのまに行っていたのか、購買の焼きそばパンを頬張りながら三谷がそんなことを言い出した。


「いや初耳だけど、そうなのか?」

「ほら、うちの兄貴って警察官だって話前にしたよな? 確か」


 それこそ全くもって初耳なんだけど、と右の掌を天井に向け小首を傾げると、「そうだっけ?」とオウム返しのように三谷はほとんど同じ動作をする。惚けた顔を誇張して作りながら。


「まあどっちでもいいや。とにかく警察官の兄貴がいるわけなんだけどさ。なんかその兄貴が昨日バタバタしててさ。アタシはそれとなく訳を聞いたのよ。どうしたんだって」


 そこは本題じゃないと言いたげに、天井に向けた手をパチッ、と叩いて鳴らし、一気に話し始めたので適当に相槌を打った。おにぎり食べながらじゃダメか?


「そしたら兄貴が『物騒な事件だ』って。そのときの兄貴の雰囲気がなんかやばそうな感じだったから、なんか事件でもあったんだろうなって思ったんだけど……もしかして知らない?」


 言われて流し見していた今朝の報道番組を思い返してみたが、条件に合致しそうなニュースには覚えがなかった。そんな事件があったとすれば、朝に強くない僕でも流石に覚えていると思う。


「知らないなあ。少なくともニュースではやってない気が……まあ僕が知らないだけの可能性もあるか」


 印象に残っている内容は……“今年の夏は例年よりかなり暑くなるため熱中症に注意!“ぐらいしかないものな。


 おにぎりを一度包装の上に置き、自分の携帯を取り出す。そして検索エンジンに“白森市 事件 7月2日”と打ち込んで調べ、警察のホームページへと飛んだ。

 ”7月2日 白森市下川 引ったくり”。

 “7月1日 白森市大登 痴漢”。

 ”7月1日 白森市五池 自動車事故”……。

 他は詐欺だったり、交通事故だったり、目を引くような内容は6年前3年前だったり。らしい事件は見つからない。


「えー、やっぱりない感じ? おっかしいよなあ。アタシもちょっと調べてみたんだけど何も出てこなかったんだよね」


 三谷は「どっかから死体でも出てきたのかなと、ってのは流石に不謹慎か」とおどけたが、僕にとってはあまりに質の悪い冗談だ。


「実はどっかの組織の陰謀だったりして……まあいいやその話は。たいして重要なことでもないし」


 陰謀論まで絡めてオチがそれなら聞くなよ、おい。ちょっと構えて損した。

 呆れと一緒に喉が渇く。


「それよりさ……香奈と生徒会の山下って”デキてる”らしいぜ」

「!?」


 突然の爆弾投下に、危うく飲もうとしていた水筒を落としかける。


「おいおい三谷、本気で言ってるのか? あの深路だぞ」


 深路香奈は三谷と僕と3人でつるむことの多い女子生徒だ。

 ……まあ確かに美人であることは分かる。しかし、昔よりマシになったとはいえ傍若無人、自分中心を地で行く厄介な性格の面倒な女だ。

 僕には恋愛のれの字も連想できない。


「アタシとしてはなぜお前がそんなに言い切れるのかわからないんだけど。あいつ、うちのクラスではかなりの美人だろ」


 三谷は「山下以外にもう1人ぐらい噂もあるし、他のクラスの男からも人気あるって聞くぜ」と続けたが、にわかには信じがたい。

 無表情と鋭い視線の威圧感はかなりのもので、人付き合いの数自体も僕と同じぐらい少ないはずだ。……逆にバレてなくてプラスに働いているってことなのか?

 もし付き合う奴が本当にいたら、とんでもない物件をつかまされた、と3日もしないうちに後悔するだろう。ご愁傷様。


 顔が良ければ何でもいいのか、という渋い顔をすると、あれぐらい良ければ何でもいいもんなんだよ、となぜか得意げな三谷。


「同じぐらい美人だし、付き合うなら三谷の方が良いだろうに」

「おお、イケメンは言うことが違うな! また告白してみるか?」

「しねーよ。というかしてねーよ」


 けっけっけ、と悪戯な笑みにツッコミを入れたその時、


「何の話をしてるんだ?」

「「へぇっ!?」」


 唐突に後ろから聞こえてきた声に背筋は凍り、心臓は天高く跳ね上がった。

 停止した体を首だけをギギギ……と音が鳴りそうな感じでそちらに向ける。先ほど生徒会室に行ったはずの深路がそこにはいた。



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