四 地獄の番人


「それにしても、現世は雨が酷いのだな。めい、可哀想に。私を出迎える間に濡れてしまっただろう?そら、早く立ち上がりなさい。人間は風邪を引いてしまうのだろう?」


今この場に相応しくない一等目立つ容姿をしたその男は、こちらに手を差し伸べる。その青白い手には、似つかわしくない赤黒い色をした鬼のような長い爪とてのひらには何やら赤い刺青のように紋章が描かれている。



「い、嫌!!!あ、貴方は誰なんですか!?それにその井戸…!何が起こっているのかわかりません!!」


得体の知れない男からの手を冥は勢いよく振り払い、後退りした。降りしきる雨の中、だんだんと衣服が濡れているのがわかるが、今はそれどころではなかった。


手を振り払われた男の瞳の中の炎がゆらりと揺れた。先程までの笑みを絶やし、急に無表情になった男をみて、冥は手を振り払ったことをすぐさま後悔した。殺されるかもしれない。


(きっと、怒っているんだ…。私が手を振り払ってしまったから。)


突如現れたこの世の者ではないであろう男は自分を殺すのではないか、という恐怖心から冥の身体はカタカタと震え始める。


(殺られる…。私、殺されるんだ…。)


男がゆっくりとこちらに向かってくる。冥はもう、どうすることもできずにぎゅっと目を瞑った。




殺されてしまうと思っていたが、数秒経っても何の痛みもない。おかしいと思い、うっすらと目を開けると、男は震える冥の両手を先程、冥が振り払ってしまった自身の手でやさしく包み込んでいた。


冥はハッとして堪らず、男の顔を見上げると慈しむように、けれどどこか寂しそうに揺れる瞳とかち合った。


髪色や身なりこそ、燃え上がる炎を思わせるがその実整った美しい顔が目の前にあった。


「すまない、怖がらせるつもりはなかった。私がはしゃぎすぎてしまったな。こんなに震えて、身体だって冷えきっている。私のせいだ。」


彼は片方の手を空へ揺らすと、と炎を出した。


「これを持っているといい。私の術でできている炎だから、火傷をする心配もない。ただ、身体を暖めるだけに使うことができる。」


あまりに彼が必死な様に、自分も毒気を抜かれてしまったのか思わず作り出された炎を受け取った。


掌で包み込むように持つと、じんわりとやさしい暖かさが伝う。


「暖かい…。」


呟いた冥をみて、彼は安心したように優しい笑みを浮かべた。


「自己紹介が遅れてしまったな。私は閻魔。現世の人々の間で言い伝えられているように、地獄もとい冥界の番人をしている。この井戸はその冥界と繋がっているのだ。」


"閻魔"と、名乗る男を今すぐにでも「嘘をつくな、そんなものがこの世に存在するはずがない」と、言えたらどんなに良かっただろう。数分前まで、父を知る誰かからの悪戯だと思っていた自分が憎い。

容姿や服装はもちろんのこと、あの冥土通いの井戸とやらを通じて出てきたところを自分は確かにこの目で見てしまったし、術で作ったという炎も受け取ってしまった。


それに打ち付ける雨がやけにリアルだ。これが夢の類ではないことくらい、とうにわかっていた。未だ受け入れることができていないだけで。


「えっと…えん、まさん。その、貴方はなぜこ「閻魔様!!!」っ、え?」


冥の言葉を遮るように、冥土通いの井戸からはもう一人、何者かが出てきた。


「閻魔様!勝手におひとりで現世へ行かれては困ります!!人間に危害を加えられたら、どうするのですか!?」


藤色の短い髪をし、目元に泣きぼくろをこさえた青年は大声で叫ぶ。片耳にのみつけられた耳飾りが揺れていた。


「大声を出すのは良くないな、かい。現世は今、人々は寝静まっている時間。人間たちが起きてしまったら、それこそ大事になってしまうだろう。そうならないよう、ここら一体は私の結界を張ってある。案ずるな、抜かりない。」


閻魔は先程の優しい雰囲気とは打って変わって、『戒』と呼ばれた青年に強い口調で言い放つ。先程よりも瞳はギラギラと鋭く光っており、冥はごくりと息を飲んだ。


「大変申し訳ございません。状況把握ができておりませんでした。閻魔大王様どうか、お許しくださいませ。」


戒は雨に濡れるのも構わずにスっと、素早く跪くとこうべを垂れた。


「良い。私も伴をつけずに、出てきてしまったからな。心配をかけた。睡蓮すいれんはどうした?」


「はっ!実は、至急閻魔様にお戻り頂きたく、参りました。先程閻魔様が裁きをされた者の中でおきが出まして、睡蓮はそちらの対処に当たっております…!」


睡蓮?お憑き?何の話をしているのだろうか。聞いたことのない単語や人名ばかりが冥の周りを飛び交っている。すると、戒と呼ばれている青年がふとこちらへ目を向けた。


「失礼ですが、閻魔様。こちらが…?」


「あぁ。」


閻魔が戒の問に答えると、戒は切れ長の猫目を大きく見開き、後に心底ほっとしたような顔をした。


「左様でございましたか。とても喜ばしいことです。」


戒のまるで意図のわからぬ言葉に頷いた閻魔はくれないの装束をひるがえし、こちらへ向き直る。冥にはわからないが、先程の会話は二人の間では成り立っていたものなのだろう。


「冥、驚かせてしまった挙句まだ何の説明もしてやれず、申し訳ないが時は刻一刻を争う事態だ。ひとまず、私を信じて着いてきてほしい。良いか?」


未だ座り込んだままの冥と目線が合うよう屈み、燃ゆる紅が冥の瞳を一心に射抜く。


「あの、着いていくってどこへでしょう…?それに私まだわからないことばかりで…」


現実味のないことばかりがとんとん拍子に起こり、冥自身ももう何が何だかわからない。今わかっていることはこの閻魔大王を名乗る男は、冥に危害を加えるような人物ではないということだ。それは先程の、自分と戒への接し方の違いや時折ときおりみせる、彼の優しい瞳が物語っていた。


すると、続けて上から声が降ってきた。


「おひいさん、大丈夫だ。閻魔様を信じてくれ。あんたを危ない目に合わせたりはしない。それは俺も保証する。事が片付いたら、一から説明する。あんたの父親のこともな。」


驚いた。閻魔は父のことについて知っているのか。今確かに、戒は"あんたの父親"と言った。やはり、躑躅つつじの言っていたことは作り話ではなかったのだ。閻魔や戒、そして冥界と父は何か関係がある。


恐怖心や、心配がないわけではない。相変わらず幽霊やらあやかしやら、はたまた死についての話など得意ではない。むしろ、五十鈴いすず躑躅つつじの話を聞いているだけでも何度、足がすくんだだろう。けれど、今ここに君臨している、地獄を統べる閻魔大王のこの紅く燃え上がる瞳を、信じなくてはいけない気がした。



「わかりました。閻魔様に着いていきます。でも、一つだけ教えてください。父のことをご存知なんですか?」


今度は冥が、真っ直ぐに真紅の瞳を射抜く。


「あぁ。よく知っているよ。彼は私にとって、いいや私たちにとって、かけがえのない存在だったからな。」


閻魔は懐かしむように瞳を細め、こちらへ距離を縮めたかと思うと、素早く冥を抱き上げた。


「きゃ!?え!!!あの、降ろしてください!」


世にいう"お姫様抱っこ"をされた冥は真っ赤になりながら抵抗しようとするが、そんなのはお構いなしというように、閻魔は楽しげな表情で抱き抱える力を強くした。



「舌噛まないように気をつけろよ、おひいさん!閻魔様、こちらへ!結界は俺が!」


またもや青白い光を放った井戸の中へ、冥を抱えた閻魔は迷いなく飛び込んでゆく。井戸の中は光に満ちており、冥は無意識に自分を抱いている男の装束へしがみつく。


「そんなに怖がることはないさ、冥。ほら、目を開けてごらん。」


やさしい声色で閻魔に言い聞かせられ、冥はぎゅっと閉じていた瞳を少しづつだが、開けてみる。


「っ…!わぁ…!!!」


そこには様々な景色が広がっていた。誰とも知らない人々の喜びや悲しみ、怒りや葛藤、願いが映画のワンシーンをたくさん切り取って貼り付けたように、今冥たちが落ちてゆく空間の周りを囲っている。


「閻魔様、これは…?」


走馬灯そうまとうだ。本当なら、冥には綺麗な星空や美しい夕焼けなんかを見せてやれれば良かったんだが、曲がりなりにも私は閻魔大王なのでね。走馬灯、と一言で片付けられてしまえば、あまり聞こえは良いものではないかもしれない。

走馬灯とは、人が死んでしまう際にその人が見ることができる生きてきた一生を映したものだからな。

けれど、私は案外ここを通るのが好きでね。

走馬灯とは、その人間が生きてきた証だ。その人間の楽しい思い出や悲しい出来事、過ち、努力、懺悔、祝い事、愛や望みがまとめられたものだ。そのように考えると、とても尊いものだと私は思うんだ。

人間は儚い生き物だ。だからこそ、人々の生前の罪の重さを測り、その人間の今後を預けてもらっているのが閻魔大王である私だ。この役目を請け負っている者として、私はこの冥界へ来る人間たちへ、人間ではない私ができる数少ない手向けだと思い、これらの走馬灯をよく眺めているんだ。」



閻魔はそれらを心の底から慈しむような目で、見つめている。そんな閻魔の話を聞きながら、冥も瞳を大きく開き、様々な走馬灯を見届けた。


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