もし父親が自分と同じように爆弾で脅されたらどうするだろうか。根津は房緑組から解放された帰り道に考えた。恐らく彼なら何もせず死ぬことを選んだだろう。父親は、悪人以外からの窃盗と、殺人には絶対に手を出さなかった。


「警察に追われても逃げ切れる気がしないからな」


 まだ根津が小さいころ訳を尋ねると、彼の父親は恥ずかしそうに頭を掻きながらそう言っていた。しかし根津はその二つが父親にとって盗みを働く上での信条のようなものだと思っていた。

 結局根津の父親は警察に追われて命を落としたのだから皮肉なものだった。けれど根津が知っている限り彼の父親はこの二つに手を出したことはなかった。

 悪事を働いているわけでもない署長の誘拐も、たとえ命が掛かっているとはいえ、彼の父親なら手を出さないだろう。根津はそう確信した。


「やるの?」


 白み始めた空の下で、住井が自身の首を両腕で抱きながら、不安そうな視線を根津に送る。房緑組から与えられた猶予は48時間。明日までに署長を誘拐しなければ2人とも文字通り首が飛ぶ。

 自分一人だけならどれだけよかっただろうか。根津は顔には出さずとも深く後悔していた。だが住井がいなければここまでできなかったこともまた事実である。そのことも彼はきちんと理解していた。

 根津は彼女を勇気づけようとわざと呆れたような笑いを浮かべた。


「署長を誘拐しよう。明後日もお天道様を拝んでやろうじゃないか」


 彼はそう口にすれば父親のマーチを狙う資格を失ったことを自覚していた。だが父のような選択を取ることはできなかった。

 手に馴染んでいたはずの電子キーが、その時から急に触り心地が悪くなってしまった。


 ガレージに停まったマーチを前に、根津は電子キーを手にしていた。いつもどう握っていたか思い出せず、指先でつまむように持っている。彼はその開錠ボタンを押した。

 間髪を入れず、マーチが軽やかな電子音を鳴らし、ヘッドライトを点滅させる。根津は近づいて、ドアを引いた。ドアは何の抵抗もなく開き、後部座席に座っていた木根がこちらを向いた。言葉は発さないが、どうしたんだい、と今にも聞きたそうな佇まいだった。

 根津は木根のサインを無視してドアを閉める。彼はもう一度、今度は施錠ボタンを押した。

 施錠を示す電子音とヘッドランプの明滅。そしてドアの内部で鍵がはまる金属質な音。一連の動作が終わると、根津が再びドアを引いても、開けることができなかった。

 色はベージュに塗り替えられていたし、キズやへこみもなくなっている。だが車種もモデルも根津の記憶通りだった。

 彼は追い立てるように階段を駆け上がった。彼自身が気づかぬうちに、マーチの電子キーを手の平で包むように握りしめていた。

 2階は作業場のようになっていて、資料を収めた棚やホワイトボードが並んでいた。古節は作業机の向こうに座っていた。


「さて……」


 根津に気づき古節が口を開く。しかし根津の形相を見ると、古節は言い淀む。立ち上がろうとして腰を少し浮かしたまま彼は静止した。


「あの車はどうしたんだ?」


 根津が問いただしても反応はなかった。マーチだ、と怒鳴って彼は古節に詰め寄った。


「3億ドル事件の犯人が使用したマーチがどうして房緑組から俺たちに支給されているんだ?」


 机を挟んで古節と向かい合った根津は、拳を机に叩きつけた。

 大きな音と衝撃で古節は我に返る。ぼんやりと前を向いていた目が、すぐそこに立っている根津に合わせられる。すると怯え切った表情は薄れていき、目を見開いて根津の顔を見つめ始めた。古節の口の端には笑みすらも浮かんでいる。


「偶然というものは面白いものだな」


 古節は口の中でその言葉を転がしながら椅子に腰を下ろした。


「俺は警察のスパイだ。武器密輸事件の捜査のために房緑組に潜入している」


 自分の話しぶりで悦に入っているのか、古節は講義でもしているかのように手を広げて続けた。


「だがな、少し調べれば俺が警察にいたことくらい組にはすぐ知られてしまう。組に入り込むにはまず信用が必要だったのさ。だから俺は房緑組が関わっていた3億ドル事件の証拠隠滅と犯人のでっち上げに手を貸した」

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