トイレに駆け込んで、根津はどうにか事なきを得た。彼は賞味期限の切れた卵を半熟の目玉焼きにした今朝の自身の選択を恨みながら、水洗レバーを下ろした。

 たまにしか使わないためか、不親切なことに洗面所にはタオルがなかった。根津はハンカチを持ってきた記憶はないものの、一応ポケットを探してみる。だが半年前のレシートや菓子の包み紙しかないのが手触りでわかった。

 彼は諦めてポケットに入れたままの手を中でグルグルと動かし始めた。ポケットの生地で手を拭うためである。手の甲に硬いものが触れたのは、車庫に戻ってきた時だった。

 ピピ、と下向きの電子音が前の方で鳴った。根津が顔を上げると、ベージュのマーチがヘッドライトを電子音に合わせて点滅させているのが見えた。


「おいおい、ようやく気付いた……」


 根津はわざとらしく小馬鹿にしたような声を出しながら、ガレージの出入り口を振り返る。しかしそこにいると思っていた住井はおらず、彼の言葉は戸惑いとともに散っていった。

 タバコがないことに気づいた住井が取りに戻ってきたのかと思ったが、そうではなかったらしい。思い返せばマーチが鳴らしたのは施錠音だった。彼はもう一度周りを見渡すが、人影は見当たらなかった。住井は戻って来ていないし、古節も二階にいる。車内に木根を残していたが、両手を縛られた彼が何かするとも思えなかった。この状況では、根津自身が原因としか考えられなかった。彼はふと、直前に手に触れたものを取り出した。

 彼の手は電子キーを掴んでいた。もう持っている理由はなかった。藪原の事務所に置いていくつもりだったが、藪原に突き返されてそのままポケットに入れ放しになっていた。

 もう一度マーチに視線を移す。助手席のヘッドレストには藪原の頭が作ったへこみがまだ少し残っていた。そう言えば、この鍵もマーチの鍵だったことを、彼は改めて思い出した。

 根津はこの鍵を彼の父親から盗み取った。それが根津の最初の盗みで手に入れたものだった。以来、かれこれ20年近く彼はこの電子キーを持ち歩いている。それは最初に盗んだ思い出の品だからではない。彼が最初の盗みで狙っていたのは父親のマーチだった。だが結局、マーチを盗むことは叶わず、今もマーチを探す手掛かりとして彼は鍵を持ち歩いていた。

 元を辿れば鍵は父親が盗んできたマーチのものだった。


 根津から見た父親はあらゆることが下手な人という印象だった。物を食べれば必ずと言っていいほどこぼすし、飲み物を飲めばよく咽る。そんな父親でも盗みの腕だけは天才的だった。だから彼は仕方なく盗みを生業としていた。

 その父親が最後に盗んだのがマーチだった。よほど嬉しかったのか、夜遅くに盗んで帰ってきた父親はその夜、幼い根津を連れて日が変わるまでドライブをした。

 県内で警備会社の輸送車が襲撃され、ナントカという高額な化学物質が3億ドル分盗まれたという事件が起きたのは、彼の父親がマーチを盗んできてから数日経ってからだった。襲撃犯のグループが乗っていたのは、根津の父親が盗んできたマーチだと報道された。車種からナンバーまで一致していた。

 もちろん根津は彼の父親を疑いもしなかった。それに時間的に不可能だという事も知っていた。盗んできたマーチは事件当日ずっと家に停められていたからである。それにニュースで流された襲撃時の映像には、キズやへこみのないきれいなマーチが写っていた。父親のマーチは色々なところにぶつけて、盗んだばかりの姿は見る影もなかった。

 すぐに警察が来て根津の父親を連れて行った。マーチも証拠品として押収された。取調室でシラを切るなり、違う車であることを主張するなりすればいいものだが、根津は父親がそんな芸当ができるほど器用ではないとわかっていた。

 だから根津は、連行される直前、父親に縋りつくふりをして彼のポケットからマーチの鍵を盗んだ。警察からマーチを盗み出して冤罪だと証明するためだ。

 けれど根津はマーチを見つけられなかった。そして根津の父親は連行中に逃亡を図り射殺された。

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