膠着していると思ったのか、一瞬だけ視線を外してから、木根は再び口を開いた。


「今から本物の署長を誘拐しに行くのもいいが、せっかくここに演技のプロがいるんだ」


 木根は恥じらうそぶりも見せず自信を指さす。しばらく根津は黙っていた。木根は調子のいいことを言っているが、ふざけている様子はない。そう判断した根津は、決意を固めて頷いた。


「正直言うとありがたいよ」


 君だってそうするだろ、と何か言いたげな空気を運転席から感じ取り、根津が付け加えた。住井は何も言わなかった。それを見て、木根が目を細めて笑った。


「まずは何をすればいいかな?」

「とりあえずこれを被ってくれ――」


 根津がどこからともなくズタ袋を取り出して木根に手渡した。


「――それから、しばらく本物の署長のふりをしてほしい」


 木根が袋を被ってすっぽりと頭を隠した。住井がチラリと見ると、そこにはただの人影が佇んでいるだけだった。顔というものは不思議なもので、隠してしまえば個人性は随分と薄れてしまうらしい。階級の高そうな制服を着ているおかげか、顔を隠せばなんとなく警察署長にも見えてくる。少なくとも映画俳優の木根鱒太だと気づく者はいないだろう。

 ちょうど対向車が途切れた。住井の見える範囲ではベージュのマーチと古節の車しか走っていない。背後から差し込む光が大きくなり、古節が加速しだしたのに気付いた。古節はそのまま反対車線にはみ出して強引にマーチを追い抜かそうとした。ちょうどトンネルで住井がパトカーにやったようにマーチを止めたいらしい。


「逃げる?」


 今ならまだ古節を引き離せる自信があった。いや、と住井がアクセルを踏む直前で根津が首を振る。


「向こうさんが一番執心しているのは、スパイの身分を隠すことだ。そのためなら署長は誘拐したがスパイの名前は聞き出せませんでしたというのが一番いい落としどころだと思う」


 住井が不可解そうな顔を浮かべた瞬間に根津が言った。アクセルから足を離しながら住井が頷いて見せる。


「お膳立ては向こうが全部してくれるってわけね」

「そう、俺たちはとやかく言わず古節に乗っかって爆弾を解除してもらえばそれでいい」


 コンビニへのおつかいくらい簡単そうに言った。そんなに簡単じゃないだろうと住井は思ったが、それでもいつものように反論する気は起きない。

 古節がマーチを追い越した。住井が大きく息を吸ってブレーキに足を置いた。案の定古節は唐突に急ブレーキをかけた。ブレーキランプが灯った瞬間に住井もブレーキを踏み込む。

 そのまま下車した古節はまるで思いがけない旧友に会ったかのような面持ちで、両手を広げながらマーチに近づいてきた。

 根津が窓を開けて首を出す。古節さん、と呼び掛ける。


「お望み通り、署長は誘拐したぜ」


 根津が怪訝そうな顔を作りながら言った。彼は親切に立てた親指を木根に向けた。知ってるよ、と古節は親指の指す方を一瞥もせずに言った。


「――トップを誘拐されたという大失態をして、いまじゃ警察は本部長指揮下で身柄を取り戻そうと火がついたように動き回っている」

「だったらどうして? じっと待っていたって俺たちは署長の身柄をデリバリーに上がるつもりだ」

「だからこそだよ。総長は爆弾を解除するつもりなんてさらさらない」

「おい話が違うじゃないか」


 根津が声を荒げ、窓から古節に掴みかかる。古節はなおも涼しげな表情を浮かべている。彼はそのまま眉を上げて見せた。


「話は違うが道理にかなってはいるだろう」

「この爆弾は解除もできないのか?」


 古節は呆れたような笑いを噛み殺しながら首を振った。


「変なところで爆発されても困るからな。しかし基本的に解除はしない方針だそうだ。アンタらを生かしておいたって証言者になるか泥棒に入るか、いずれにせよ組にとっては目障りだしな」


 だが、と言って古節は歯を見せて笑った。


「――俺はアンタらを助けたい」

「渡りに船だが気味が悪いな。ヤクザが人道主義に目覚めるなんて、奇跡でも起きたのかい。言っておくが、倶利伽羅龍王の顕現ならきっと、寝ぼけまなこで見た組長の背中だろうよ」

「こんな時に気分を逆なでするようなこと言わないでよ」


 住井が運転席から身を乗り出して言った。このままいけば根津の皮肉はさらに続いただろう。


「いいわ、私だって助かりたいし。それで私たちはどうすればいいの?」

「俺にいい考えがある。ここではなんだ、とりあえず車でついて来い」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る