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「いいのか?」
そう聞かれて、ソファに腰を下ろしかけた根津が小首を傾げる。意味を分かりかねている様子を見て、藪原はさらに続けた。
「お前なら絶対に下見なんかしないだろ」
「まあ、俺ならしないな」
「じゃあ何で住井には行かせるんだ?」
「アイツは下見に行かないと気が済まない性分なんだ」
「お前はそれをよく許せるな」
感心のしすぎか、藪原は素っ頓狂な声を上げる。根津は照れくさくなって苦笑いを浮かべる。そして藪原から目をそらして口を開いた。
「ナイフが二本に増えてもできることは限られてくる。それよりもナイフとフォークが一本ずつあったほうが便利だろ」
「わからないな――」
藪原は悪戯っぽい声色でわざとらしく言った。
「――箸とレンゲで喩え直してくれないか」
「わかってるじゃないか」
根津はソファの背もたれにもたれ掛かり、いつものようにポケットに手を突っ込んだ。右手に硬い物が当たる。指を這わせていくと、その中ほどでプクリとした柔らかい感触に出会う。それを指先で押し込む。深くまで押してようやくカチリという感触が返ってきた。もちろん、何も反応はない。
それはいつも持っていた車の電子キーで、取り出すと黒地に銀色のエンブレムが光っていた。いつもはポケットの中で弄んでいたが、改めて明るい所で見るとだいぶ古びていることに気が付いた。シリコンのボタンに印字されていた白い記号はほとんど剥がれている。ボタンのバネもへたっていて、最近は強く押し込まないといけなくなっていた。
根津は長い間このボタンを身に着けていた。ことあるごとにポケットに手を入れて、電子キーのボタンを押す動作は彼の癖になっていた。
藪原が根津の手元を指さして、感心した様子で口を開いた。
「古いな、出すとこに出せば良い値がつくかもしれないぜ」
「もう用済みだよ」
根津はその手で触っていた電子キーを乱暴にテーブルに放り投げた。それを見た藪原はたまらずに苦笑いを浮かべた。
「俺はまだ用済みじゃないみたいだな」
「どうしてそう思う?」
「署長のスケジュールだけじゃすまないって顔をしている」
藪原は根津の顔を面白そうに見つめながら言った。根津はバツが悪そうに目をそらして、顔を擦る。その様子を見た藪原は、気合を入れるように床を蹴って勢いよく回転椅子のまま回り始めた。まさか、とパソコンに向き直る間に呟いた。
「――ただでさえ危なっかしい橋を渡っている、アンタが警察にまで手を出す日が来るとは思わなかったよ」
「何も変わらないさ。サクラを代紋としてるのが警察でそれ以外は……」
根津は口をつぐみ、代わりに人差し指で自身の頬を何度かなぞった。
「そういうことを聞いてるんじゃない」
「何が言いたいんだ?」
「アンタらしくないってことだよ。いつもワルからしか盗らないじゃないか」
藪原が隠したつもりの小さな失望感を、根津は敏感に感じ取った。それを根津は迷惑そうに笑い飛ばす。
「どんなに高潔に見えるポリシーだって、他人にとっちゃ犬の糞未満だ。そんなものを押し付けられたらたまったもんじゃないだろ」
根津はそれから、彼に調べてほしい項目を言い連ねていった。その間も彼は癖の通りに繰り返し電子キーのボタンを押し込んでいた。
藪原は小さくうなずきながらそれを聞いていた。根津の声が途中からくぐもったことに藪原が気づいたのは、全て言い終えてからだった。
「おい何か食べてないか?」
「ああ、美味いなこのジャージャー麺」
「だからそれは俺の……」
藪原が椅子から爆ぜたような勢いで立ち上がり、根津の方に掴みかかろうとした。根津は最後の一口をかき込みながら、襲い掛かる藪原から身をかわす。藪原の指先は根津の服にかすれるだけだった。藪原の体はそのままソファに向かって突っ込んでいく。
テーブルの上で溶けかかったロックアイスが音を立てて崩れる。テーブルが揺れたのを知って、根津は脛をしたたかにテーブルに打ち付けたことを悟った。痛みはまだ感じない。そのままの勢いで彼はソファを飛び越えて、出口へと向かった。
「皿は玄関に置いておいてあげるよ。わかったことは電話で頼む」
去り際に根津は振り返ることもなくそう告げる。
「おい——」
閉まりかけた扉に向かって藪原が呼びかける。根津はその声色に苛立ちを見つけられずに、扉を手で押さえた。
「――忘れ物だぜ」
テーブルに残された電子キーをつまみ上げて、隙間から首だけを覗かせる根津に掲げる。
「鍵しかないんじゃ、ただのガラクタだよ」
藪原は根津の言葉を無視して、鍵を投げ渡した。根津はかったるそうな動作でそれをつかみ取る。当てつけに睨みつけようと顔を上げる。しかし根津は、目のアザを忘れさせるほど涼し気に笑う藪原をただ見つめることしかできなかった。
「さっき言ったことを忘れたのか? 物を蔑むのは他人に任せておけ」
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