署長誘拐

 一方通行の細い山道が県道と交差する手前で、ベージュのマーチが停車していた。ふかしたままのエンジンが木立の間で低く唸っている。

 その丸みを帯びた愛らしい見た目の車体とは裏腹に、運転席と助手席の二人がただならぬ空気を車内に充満させていた。運転席に座る住井が噛みしめた奥歯が擦れ、ガリガリという音が虫の音ほどの大きさで響いている。その横で根津は落ち着きなく黒いライター大の物体を手の中で転がしていた。

 マーチは房緑組から支給されたものだった。盗難車に偽造したナンバープレートでも取り付けたようなものだろう、と住井は予想していた。普段から監視カメラなどの監視網が張られた街なかを正規の手続きを踏んだ優等生の車で逃げるのは厳しい。こういう小細工が施された車を貸してくれるところを見ると、房緑組も警察署長誘拐には本気らしかった。

 だが住井はどうも運転席に腰を落ち着けることができなかった。車が辿ってきた後ろ暗さが、シートを隔ててすぐそばにあるようであまりいい気持がしなかった。

 フロントガラスからは妥弓トンネルの入り口周辺を見渡せる。2人は陽が暮れだしてから、空が暗くなる以外に変化のない景色を見続けていた。このまま何も起こらないのではないか。そんな不安が住井の脳裏をよぎるのに長い時間は掛からなかった。

 午後6時まであと1分を切った。


「来るのよね?」


 何度目かわからない質問を、住井はもう一度口にした。助手席を見ると根津が倒れ込むようにして座っていた。背中どころか頭までシートに埋めている。慣れない車は匂いが苦手だといつも文句を言っていたはずの根津にしては珍しくくつろいでいるように見える。2人きりの車内で住井は孤独感を抱いた。

 根津は座席に身体を沈めた姿勢のまま、街へ向かう方へ目を遣る。県道の奥に小さな光が瞬いているのに気付いた。それは段々と、それでも明らかに大きくなっていく。確実に光は2人に向かって近づいてきていた。


「来たみたいだ」


 根津はその日初めてそう答えた。時刻はちょうど午後六時、予定通り妥弓トンネルの手前で1台のパトカーが姿を現した。パトカーはマーチの前を通り過ぎる。2人にはパトカーの車内がよく見えなかった。だが後部座席に座る人物の着る制服は格式高く見えた。他に県道を下ろうとする車の気配はない。2人は確信を強めた。

 パトカーはそのままトンネルへ向かって走って行った。住井はようやく深く息をついてハンドルを握った。パトカーが十分離れるのを待ってから、アクセルを踏む。マーチはそのまま県道へ侵入し、パトカーを追ってトンネルへ向かった。

 オレンジ色の光で溢れるトンネルの中ほどにはパトカーが一定の速度で走っていた。住井たちが後をつけていることなど想像だにしていないような穏やかな走行だった。トンネルには他にベージュのマーチしか走っていない。

 根津が握りしめて生ぬるくなった黒い物体のキャップを外した。あからさまにボタンとわかる赤い突起が姿を現す。彼はそのボタンを親指で押し込んだ。

 それはリモコンのボタンだった。押した瞬間にリモコンが信号を発信し、根津が前日に仕込んだ発煙装置が起動、そしてパトカーの下から勢いよく煙が噴き出る――はずだった。

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