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「藪原も俺たちと同じ騙された側だよ」
根津が独り言のように呟いたのは、住井の拳が振り上がり切ったちょうどその時だった。それから彼女がその言葉を理解して、そしてようやく腕に込めた力が緩められたのは、その拳が藪原の顎をめがけて放たれてしばらくしてからだった。
藪原は顎を砕かれるのも覚悟して、歯を食いしばっていた。いつまで経っても顎が砕かれないことに気づいてから、根津の声の意味するところを解した。願ってもない言葉に最初は幻聴か罠の類かと藪原は疑った。恐る恐る瞼を広げると、すぐ目と鼻の先で住井の拳が静止している。そしてその奥では根津が穏やかな微笑を彼に向けていた。
「だが偽の情報を売った責任はきちんと取ってもらうよ。嫌とは言わせない。何なら俺たちは残り少ない人生を余すところなく大親友の藪原くんと分かち合うのも吝かではないんだよ」
根津は藪原に顔を寄せて、冷めた鉄のような笑みを見せる。藪原は引きつった笑顔で小刻みにうなずく。
「い、いいですよ、何でも仰ってください」
藪原は乾いた笑い声をあげた。彼の力なく垂らした手を、根津が両手で包んだ。
「君のパソコンで警察署のデータベースにアクセスして、署長のスケジュールを調べてほしい」
「それは無理です――」
遠くを見つめながら藪原が言った。引きつった笑みはまだ顔に残っている。
「――いくらセキュリティが緩いとはいえ、警察のネットワークは街の調査会社が一朝一夕に入れるような代物じゃない」
「IDとパスワードはわかってる」
根津がポケットから二つの文字列を記したメモを取り出した。彼が気づいた時には、そのメモ用紙は手から消えていた。
「それを早く言いなさいよ。一度警察のネットに侵入してみたかったんだ」
藪原がケロリとした様子で言った。小走りにデスクへ向かう彼の手には根津が持ってきた付箋が握られていた。
デスクに座りパソコンを操作し始めた藪原は、もう2人の襲撃者兼来客を見向きもしない。鼻歌までこぼしていた。
調子がいいわね、と住井が肩をすくめる。
根津も藪原の気分の切り替わりの速さに呆れていた。パソコンに熱中している背中に声を掛ける気にもなれず、彼はテーブルの前のソファに腰を掛ける。その上には彼が持ってきた氷とジャージャー麺が置いてある。割れた割り箸が皿に置かれていたが、餡はひと固まりになっている。根津は、藪原がジャージャー麺を最初に一気に混ぜてから食べていることを知っていた。
「俺のなんですから、食べないでくださいよ」
ジャージャー麺には一口も手が付けられていない。根津がそう気づいた瞬間に、藪原が釘を刺した。根津はもう再度肩をすくめた住井と顔を見合わせた。彼はずっとパソコンに向き合っていた。
「警察署長ってのは随分忙しいんだな。中心街とゴルフ場を行ったり来たりしているよ」
ゴルフ場って北のはずれだろ、と感心したように呟く藪原の声が、氷の崩れた音と重なった。
「もうわかったのか」
根津がわざとらしく驚いて見せる。藪原は得意げに鼻を鳴らした。
「IDとパスが分かれば後はスーパーで野菜を探すようなものだよ」
画面を向いていて見えないが藪原のしたり顔を2人は容易に想像することができた。先にデスクに向かった住井は、集中して画面だけを覗き込んだ。本当だ、と彼女は素直な声を上げてから、皮肉っぽく笑い声をあげる。
「――さすが警察幹部、速度超過なんてしないのね」
「攫うなら、午後6時の妥弓トンネルを通るタイミングだな」
根津の提案に、住井は難しい表情を返す。
「でもタイムリミットまで短すぎる」
「この時間帯のあの辺りは車通りも少ないし、トンネルなら逃げにくい。絶好のチャンスだ。逆にここ以外は難しい」
「仕方ないわね」
小さなため息とともに住井は言った。そして彼女は素早く身を翻してドアの方へ歩き始める。藪原は不安そうに根津を見るが、根津の方は軽く頷くだけだった。
「どこへ行くんだ?」
住井の背中に藪原の震える声が問いかける。どこって、と小馬鹿にしたような笑いを漏らしながら、住井が顔だけを藪原に向ける。
「――現場の下見よ」
閉まりかけるドアの向こうで、小気味よく曲げられる住井の手の指が見えた。根津はそれに応えて小さく手を振った。
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