駅から少し離れた飲み屋街の裏通りにある細長い雑居ビルに2人が着いた時、ちょうどビルから中華屋が岡持ちを持って出てくるところだった。


「いるね」


 住井は嬉しさを抑えた声で呟いた。根津は静かに頷く。

 中華屋の男が出るのを待ってからビルの狭い入り口をくぐる。根津は気合を入れようと、ロックアイスを入れたビニール袋を肩で背負うように持ち直した。今は法律が許さないであろう急な階段を、2人は駆け上がっていく。足音を隠そうともしないのは、逃げ道が今まさに上っている細い階段しかないからである。

 4階につくまでに、根津は肩で息をし始めていた。画面酔いがまだ治っていないうちから急な階段を上がるはさすがに堪える。ビルの古さの割にかすれの一つもない「藪原商会」の文字が掲げられた扉の前に来ても、彼は息をするので精いっぱいだった。

 酸素不足で朦朧とするなかで、根津は汗一つかいていない住井を見上げた。彼女は息を荒げていたがそれはこれから起こることに心躍らせているからだった。

 住井がドアをノックした。


「すみません鮮清軒です。先ほどのお釣りを間違えてしまいまして……」


 部屋の向こうから男の返事と独り言のようなものが聞こえた。ドア越しで分からないが、気怠そうな口調が徐々に大きくなってくるのが根津にもわかった。

 ノブが回される。どうもね、と同時に男の明瞭な声が聞こえ出した。根津がすっかり聞きなれた藪原の声だった。すかさず住井がドアに手を掛ける。


「――お釣りは間違ってないとおも……」


 男は空いた隙間から住井を認めて固まった。一瞬の間をおいて、男は張り付いた笑いを住井に向けた。住井はその短い間にドアの向こうの男が一気に老け込んだように見えた。


「お釣りは結構ですっ」


 慌ててそう言って、男はドアを閉めようとした。だがドアは住井が押さえているためビクともしない。それどころか、住井はまるで男が手を触れていないかのように、やすやすとドアの隙間を広げていった。

 ドアノブを握ったまま引きずられた藪原の肩に住井が手を置いた。


「それは困りますよ」


 住井はあくまで諭すような口調だった。藪原はノブから手を離し、ゆっくりと住井に視線を向けた。彼は覚悟を決めたようだった。住井に肩を掴まれたまま、藪原は自分の事務所へ押し込まれていった。あまりに軽々とした住井の動作は、根津がぬいぐるみを運んでいるのかと錯覚するほどだった。

 ドア越しに聞こえる、何かがぶつかり合う音を聞きながら、根津は廊下で息が整うのを待った。ようやく落ち着いた根津を迎えたのは、住井に耳を引っ張られて必死にもがいている藪原だった。その目の周りには青くなりかけのアザもある。

 根津に気づくと住井は手を離した。草食動物のような反射神経で、藪原は部屋の隅まで逃れ、耳を押さえてうずくまる。


「俺たちだって何も手ぶらで来たわけじゃないんだよ」


 根津はそう言いながらテーブルにビニール袋を置いた。テーブルには先ほど届けられたであろうジャージャー麺も置いてある。

 お土産の存在を知った薮原は途端に表情を和らげた。もちろん、目の周りのアザはちっとも薄くなっていないどころか、ようやくアザらしい色になっていた。


「何を持って来てくれたんですか?」


 耳のことをすっかり忘れた藪原はビニール袋に爛々と輝く目を向けている。


「氷」

「……だけ?」


 長い沈黙に何も続かないと気づいた藪原は茫然とした様子で尋ねた。根津は不服そうに頷く。


「冷やすのに使うだろ」

「用意周到なら殴っていいわけじゃないんですよ」

「こんな香典返しをいただく羽目になったんだ。お裾分けしないと気が済まない」


 根津は藪原の前で襟を下ろした。藪原はまるで初めて見たような顔で目の前の爆弾を眺めていた。爆弾だと思ってもいないようだった。爆弾だとわかっていれば藪原はきっと火がついたように騒ぎ出すと根津は思っていた。


「聞いていないのか、俺たちは房緑組の総長直々に爆弾を付けられたんだよ」

「爆弾を持ってきたのか」


 藪原が悲鳴を上げる。彼は壁際まで逃げようとするが、力が抜けて這うこともできずただ手足を床に擦るだけだった。

 住井に髪を掴まれて藪原の腰が床から離れる。それでも彼は必死にもがいて空を掻いた。その白々しさが彼女の癪に障った。一晩過ごして爆弾に慣れた彼女にとって、今さら爆弾を怖がる様子を見せられることにすら腹が立った。


「一挙両得って腹の癖にいつまでとぼけているつもり?」


 そう叫ぶと住井は藪原を壁際に放り投げた。鈍い音を立てながら床に倒れた藪原に向かって住井が拳を振り上げる。

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