事前準備
1
周りは現役の警察官ばかりである。警察署という場所柄を考えれば当たり前のことだが、これからの企みのことを考えると住井は自然に肩の力を入れてしまう。
住井は交通課に赴いて、カウンターで書類に記入していた。顔は目の前の書類に向けながら、目だけを動かして周囲の様子を窺ってみる。特に彼女が警戒されている様子はなかった。警官が大勢いるものの、パソコンの操作や書類の整理など各自の仕事に忙殺されているようだった。先ほどまで彼女に説明していた婦警も彼女が書類に記入している間を別の警官との話し合いに充てている。
住井は考える風を装ってボールペンのヘッドを服の肩のあたりに押し付けた。手遊びをするようにボールペンを回す。念のために3周して拭ったヘッドを、先ほどの婦警に向けた。
「すいません、ここの住所なんですけどお――」
「あまり動かすな」
ヘッドに埋め込まれたカメラの映像を見ていた根津の苛立ちを抑えた声が耳元に割り込んできた。舌足らずにしていた口調に引きずられて、ついボールペンを持った腕を揺らしていた。彼女はゆっくりと腕の振れ幅を減衰させながら、何事もなかったかのように続けた。
「――市の名前からで大丈夫ですかねえ?」
「いえ県名からでお願いします」
それから、と婦警は同僚との話を中断して、住井の方に近寄ってくる。住井はボールペンをカウンターに置いて、その上を手で覆った。婦警は住井のその動作を気にせず、彼女に話し続けた。
「――運転免許証など身分証明書の用意をお願いします」
「撮れた。ばっちりだ」
婦警の言葉に重なって根津の満足げな声が耳に届く。住井はすぐにボールペンを鞄の中に入れた。それから鞄の中を探すふりをする。
「あ、免許証忘れちゃったあ。また来まあす」
婦警が口にした免許証という言葉を思い出して咄嗟に口実を考えた。それから彼女は引き留められないように、すぐに踵を返した。後ろへ振り返るときに、婦警の信じられないといった視線が視界の端に映ったような気がした。しかし彼女は頭から振り払い、足早に出口へ向かった。
入口の立哨からおざなりに頭を下げられる。住井はようやく緊張から解放された。肩のこわばりが解けて、彼女は酷く肩が凝ったことに気づいた。首筋に手を伸ばす。肌に触れる前に、冷たい質感が指先に触れた。重すぎないがしっかりとした存在感に四六時中付き合っていると次第に慣れてくる。若干の安心感さえ覚えていることに気づき、住井はぞっとした。
一日市の警察署長を誘拐して、身柄を房緑組に渡す。それが房緑組から2人に言い渡された、首の巻かれた爆弾を解除する唯一の条件だった。2人に与えられた時間は48時間、つまりタイムリミットは明日。それまでに署長を引き渡せなければ、爆弾は無条件に爆発する。
警察署を出てしばらく歩いていると、背後から声を掛けられた。住井が振り返ると、機械油で汚れた根津が立って手を振っていた。
「もう終わったの?」
ふらふらとした足取りで近づいて来る根津に住井が尋ねる。根津は愛想の薄い返事をした。
「ビデオを見ながらでもネジは締められるだろ」
根津の言葉を聞いて住井が眉をひそめた。
「片手間で作業して、当日はきちんと動作するんでしょうね?」
「動かなかったらその時はその時だ」
「使わないことを祈るしかないのね」
「せっかく取り付けてきたんだから使おうよ」
「そうは言っても、まだ署長のスケジュールを調べてないでしょ。そんなに都合よく署長が動くとはとても思えない」
「その時はその時だ」
そう口にする根津の鷹揚さが住井には信じられなかった。先を歩く根津の後ろ姿を見ると、襟からその首につけられた爆弾が見えた。そのロボット掃除機の真ん中をくり抜いたような機械的な見た目の首輪は、確かに起動中を示す緑色のランプを点滅させていた。
彼女はエッシャーの絵を凝視した時のような心地の悪さを覚えた。だが住井はどんどんと先を歩く根津の背中を眺めることしかできなかった。
根津は背中の気配が薄れたことに気づいて立ち止まった。振り返ると住井が後ろで立ち尽くしている。車をぶつけた時の怪我に紛れているが、改めて見ると住井はゲッソリとやつれている。もともと物事を酷く悪くとらえるのが住井の悪癖だった。そんな彼女が首の爆弾をテクノなデザインのネックレスだと捉えられるとは、根津は思ってはいなかった。
手のかかる腐れ縁だ。根津は苦笑いを浮かべながらため息をついた。住井に楽観視を覚えさせるなんて芸当はできないが、まだ根津に出来ることは残っていた。
根津は茫然と立っている住井に呼びかけて手招きをする。
「来ないのか?」
「お昼?」
「昼はいらない。アンタのカメラワークに酔っちゃったよ」
顔を歪めながら根津は首を振る。悪い意味でだ、と彼は念を押すように付け加えた。
「ならどこに行くの?」
「決まってるだろ、これのお礼を伝えに行くんだよ」
根津は襟を下ろして首の爆弾を露わにした。住井はすぐに根津の意図を理解して、悪い笑みを返した。
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