3
おい、と男の怒号が敷地を越えて響く。慌てていたのかその声はやや裏返っているように聞こえた。
「香典がないぞ」
そう叫ぶのは先ほど階段から転げ落ちかけた古節だった。彼は手あたり次第にポケットを探している。動揺した彼の目はすぐに確信に変わった。
「あいつが盗んだんだ」
彼が垂れた髪を掻き上げながら睨んだ先は、彼とぶつかった若い僧侶だった。古節が言い終える前に何人かの組員が走り出していた。疑いの目を向けられた若い僧侶はその場に立ち尽くして組員たちを迎えることとなった。その狼狽ぶりはまるで心当たりがないようだった。
根津は組員たちの怒鳴り声が重なり合うのを背後に聴きながら、車止めへと向かっていた。左手には国語辞典よりも分厚い香典の束が入った袋を抱えている。
トラブルの発生を知って、喪服姿の男たちが会場へ向かって走っていく。中には明らかに組に属しているとわかる格好をした男たちも混じっていた。深刻な顔を浮かべてすれ違う彼らを嘲笑うかのように、根津は何度も片手で香典を投げている。もう片方の手はポケットに突っ込んでいた。その中には車の電子キーが入っている。彼は何の反応も得られないことを半ば承知で、キーのボタンを繰り返し押していた。
車止めには日光東照宮がから切り取ってきたような、豪勢なお宮を積んだ霊柩車がポツンと佇んでいた。霊柩車を警備していた人員も香典盗難を受けて出払ったのか、根津がいくら近づいても咎める者は出てこない。血よりも濃い盃で結ばれたはずの親分の骸も、金の前では切り捨てられるらしい。根津は独り口元に嘲りの笑みを浮かべた。
その矢先、根津は霊柩車の向こうを茫然と眺めて立ち止まった。彼の視線の先には、霊柩車の影から足が横向きに飛び出していた。車体で見えないが、どうも地面にうつぶせになって倒れているようだった。
「随分派手な騒ぎを起こしたわね」
お宮の屋根に隠れるように立っていた人影が、暗がりで肩をすくめるのが根津には見えた。
「起こすなら一番儲けの出る騒動がいいだろう」
根津はその厚さを示すように、香典の束を手の平で叩いた。何枚もの紙束が重なった香典は、重厚な響きを奏でる。
「それよりも住井、そっちはどうなんだ?」
「うまくやったわよ」
住井が月明かりの下に極楽典礼の制服を着た姿をさらした。彼女は得意げに喫煙所の男から奪ってきた鍵の束をジャラリと鳴らしながら取り出した。
彼女はその鍵で霊柩車のお宮の扉を開けた。中はひっそりとしていた。車体に負けず劣らず豪勢な彫刻が彫り込まれた棺桶が横たわっている。故人にちなんで龍や唐獅子が鮮やかに表現されている。
しかしそんな豪華な飾りがついているとはいえそこに葬儀場で男たちが放っていたような圧を彼女は感じられなかった。入れられているのも所詮トランクルームである。表の方からぼんやりと届く混乱の声と相まって、住井はどこか寂しさを感じていた。そんな彼女を横目に、根津は嬉々としてお宮の中へ飛び込んだ。
「臭いな」
根津が顔を歪める。住井はお宮に顔を入れて鼻をクンクンと上下させたが、いまいちわかっていないような顔を浮かべた。
「屍臭?」
「趣味の悪い芳香剤」
根津が口をとがらせてそう言う。それから彼は申し訳程度の合掌を、下心から来る笑みを隠すことなく棺桶に披露した。
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