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「俺が盃を交わしたのは金岡の親父さんとだけです。あなたにとやかく言われる筋合いはありません」
男は古節に襟元を掴まれたまま毅然と言い返す。住井は遠目ではわからなかったが、しばらく何も言い返さない古節の様子から、相手の男は強がりで言っているわけではないらしかった。
若くしてこの地域の組員を、ほぼ1人で束ねているといわれている古節とも渡り合えるほど肝が据わったカタギの男に住井は興味が湧いていた。しかし周りの配達員は一瞥もせずに列をなしてこの場を去り始めていた。住井だけ残って2人を眺めているわけにもいかず、仕方なく彼女も列に混じった。
「貴様はその親父の顔に泥を塗ろうとしてるんだよ」
古節が噛みしめた歯の間から漏らす声。住井は背後から聞こえて、立ち止まりたい衝動にかられた。古節の相手が引き下がった様子もなく、ますます住井の衝動は大きくなる。だが少しの遅れも許さない列の中で、住井は前後を挟まれていた。仕方なく彼女も前後に歩調を合わせて寿司桶を運んでいく。
寿司屋のデリバリーの列が向かっていたのは、どこの宗派にも寄らない、しいて言えばギリシャの神殿のようなデザインの建物だった。刃物のような目つきの男たちが出入りする中で、読経を終えた僧侶たちが清らかな雰囲気を纏いながら建物から出てきた。
弔問客を見ないように若干下に傾げられた目は、いずれも風のない湖の水面のように穏やかで澄んでいた。住井は彼らが纏っている清らかで尊い雰囲気からは、目玉が飛び出すような額のお布施を懐に抱えているとは想像がつかなかった。
その剃髪した一団の中に、彼女は見知った顔の男を見つけた。その男、根津は列から膨れて歩いていた。仏とは程遠い俗界の欲に首輪をつけられたような生活をしている男だったが、頭を丸めて口を閉じていると、そんな男でも一端の僧に見えた。
根津は完璧に僧侶の集団に溶け込んでいた。僧侶たちですら不審がる気配はない根津の擬態が住井の頭を痛めていた。彼の佇まいは、住井から見てもお経を上げに来た僧そのものだった。彼の様子を見ていると、このままただ僧侶たちに付いていって寺まで帰ってしまうのではないかと思えてくる。
周りの僧侶に混じって落ち着き払った顔を浮かべる根津の頭では、これから起こす騒動を思案していた。
ちょうどその時、根津の視界の端で2人の男が言い争いをしていた。言い争いとはいえ、手を出さないだけで、片方の男が相手に掴みかかってはいるほど激しいものである。若い連中が必死で宥めようとしている。その様子から掴みかかっている方の男が古節だと根津は気づいた。
「警官のコスプレをして足を洗ったつもりになるなよ」
古節が男の襟を離してそのまま後ろに突き飛ばした。古節は素早く根津たちの方に向き直る。彼を抑えていた若い連中も彼に従う。一団はそのままこちらに向かって肩で風を切って歩き始めた。彼はさりげなく列から少し横に外れた。このまままっすぐ歩けば、目の前の男とぶつかる位置である。根津の予想通り後ろを歩いていた若い僧侶は、彼が横に動いてからもピッタリ後ろについていた。
建物から伸びた階段を下っている最中に、根津は唐突に身をかわす。向かってきた男を、根津は寸でのところで避けられた形になった。根津が避けた男は、根津が先ほどまで立っていた空間を当然のように突き進んでいく。男が身にまとっているのは、ノリの効いた黒いスーツで、この中でもひと際高そうだった。髪は後ろに流してギチギチに固めている。目つきは格段に鋭く、冬場の乾ききった紙のようだった。
根津の後ろの若い僧侶が向かって来る男に気づいたのは、根津が直前で避けたその瞬間だった。そして若い僧侶の意識にその男が立ち上がったのは、お互いの鼻が触れそうになるほど近づいた時だった。相手が避けることを前提として歩いていた男は避けようとすらしない。当然、若い僧侶も避け切れず、2人は派手にぶつかった。
それに気づいた順番に、周りの者は顔を蒼くしていった。若い僧侶とぶつかった古節猛は、そのまま後ろへ倒れかけた。房緑組の次のトップと目される古節の後ろには、ボディガードとして若い組員たちがついていたが、彼らは口をあんぐりと明けて見守るばかりだった。一人一人がどうにか漏らした悲鳴が重なって、葬儀場の上に渦を巻く。
僧侶たちはこれからわが身に降りかかる制裁を想像し、先ほどまでの高潔な雰囲気を投げ捨てて戦慄とした表情で固まってしまう。根津も周りに合わせて恥ずかしげもなく驚いて見せた。そして予測していなければ不可能な身のこなしで、転びかけた古節の後ろに回る。
「大丈夫ですか?」
古節が倒れる前に脇を抱えた根津が尋ねる。古節は唇を小刻みに震わせるばかりで何も答えない。彼は代わりに何かを確かめるかのように必死で頷いていた。額に掛かる一束の髪には気付いてもいない。濡れた子犬のような古節を安心させようと、根津は爽やかな微笑を浮かべる。
「ありがとう、おかげで助かった」
ようやく口が利けるようになった古節はすっかり根津に身体を預けている。根津は彼を抱きかかえるようにして体を起こした。
誰もが流血沙汰を想像したこの騒動に注目している隙を見て、住井はそれとなく寿司を運ぶ列から抜け出した。彼女はそのまま喫煙室へと向かっていった。
つい先ほどまで葬式のメインパートが行われており、人はほとんど出払っていた。喫煙室には1人のスタッフが煙草をふかしているだけだった。建物の裏手にある喫煙室に、参道での騒動は届いていなかった。何も知らないスタッフの男の注意は腕時計に向けられている。
住井は配達スタッフの制服のまま喫煙室に入っていく。男はそんな彼女の姿を見て小首を傾げながら立ち上がった。注意しようと男が口を開きかけた瞬間に、住井がその鼻梁に拳を叩きつける。男は衝撃で後ろへ飛ばされると、痛いと感じること前に意識を失った。
住井が男のスーツのポケットから白い手袋が顔を出していることに気づいたのは、彼の体が床に倒れてからだった。彼女はその手袋を見て、目の前の人物が目標の人物であっていることを確信した。
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