第35話 心配症すぎる彼氏(仮)

 朝の六時。桜琴は厨房に立っていた。

「まさか、桜琴様がこんなにお料理がお出来になるとは、私はびっくりしております」

 サトが味噌汁に味噌を入れながら、感心した様子で口にした。


「そんな大したものは作れませんよ」


 桜琴はだし巻き卵を焼いていた。枕崎の鰹節から丁寧に出汁を取ったので、ふんわりと鰹の上品な香りが厨房に広がる。


「でもよろしいんですか? 朝ご飯の手伝いまでさせて、なんだか申し訳ないのですが……」


 サトは手伝いをする桜琴を見て、気が咎めているようだった。


「これぐらいさせてください。それに朝からちゃんと動いてないと、夜寝れないんですよ」


 桜琴は卵焼き器を少し持ち上げ、弧を描くように動かして卵を巻いていく。


 やましい話だが、自分の作ったものを一口でも一生に食べてほしい。そんな思いもある。

 オムライスをあんなにも美味しそうに食べていて、その姿を見てるだけで幸せになった。



 それにここにいる家政婦は年齢層が高めだ。

 桜琴はここにいる間は自分のできることはしようと思っていた。

 それがせめてもの恩返しだ。



 朝ご飯を一緒に食べた後、一生は仕事に、拓実は大学に行った。夕方二人が帰宅するまで桜琴は家政婦たちと掃除をすることにした。






 ****


「若様、少しは桜琴様との生活に慣れてきましたか? えっと、今日で三日目ですね」


 一生は山名の運転する車で会社に向かっている。


「……少しだけ慣れた」

 山名に向かってそう答えた。

「そうですか。……そういえば、今日のだし巻き卵、桜琴様がお作りになったそうですよ。いや、本当に美味でした。まさか料理までお出来になるとは」

 山名が感心した口ぶりで話していた。

「あ、あれ、桜琴さんが作ったのか。そんなことは今朝、私には一言も言わなかったな」

「そんなわざわざアピールしてくる女性じゃないでしょう。聞かない限り言わないんじゃないですか、桜琴様は」


「……そうだな。それにしてもまだ厨房の手伝いをしているのか……。ここにいる間はゆっくりしておけばいいのに。普段から和菓子屋で早起きだろう」


「桜琴様はここの家政婦がみんな高齢で、大人数の食事を作るのが大変だろうから、って昨日はおっしゃっていましたが……」

「……昨日は私には一言もそんなことは言わなかったぞ」


「ま、若様には言いにくい事もあるんじゃないですか。それにしてもよく気がつくというか、大変お優しい方ですね。流石は若様が惚れた方ですな」


「ま、そ、そうだな。山名、お前そういえば、桜琴さんに銀琴さんは精霊王と戦えるって適当な事、言わなかったか?」

「え、ええ、あ、あれは桜琴さんを落ち着けるための言葉の綾と言いますか。だって昨日、若様が仕事に行かれた後、ひどく落ち込んでおられて、母の怪我さえ治ったら、実家に帰れるのか、自分は精霊王とやらに連れて行かれないのか、色々聞かれたから、そう答えただけですよ。仕方ないじゃないですか」


「そうか……。そんなに帰りたいのか……」

「いや、そりゃ気を使うでしょうし。知り合って間もない異性の家に世話になっているわけですから、桜琴様がそう思うのは当たり前じゃないですか」


「……そうだよな。それより桜琴さん、置いてきて本当に大丈夫だろうか?」


「わたくしめは大丈夫だと思いますけどね。若様、朝から屋敷全体に五重結界張ってたじゃないですか。あんなのネズミ一匹も入れませんよ。てか最近、神通力の器大きくなってません?」


「それは私も感じていた。何故だろうな……」



 一生は自分の手のひらから、湧き出るような力を感じていた。



 ****


「ねぇ、今日の専務、やたら急いでない? 真顔よ、真剣よ?」

「でもいつもさぁ、穏やかだから、あんな専務も素敵じゃない? 見惚れちゃう〜」

 女性社員のヒソヒソ声が聞こえた。



(なんとしても一分でも早く帰る。桜琴さんが心配だ。今なにをしているんだろう)


 一生は一時間おきに、屋敷に桜琴が無事か何してるか電話をかけていた。

 そのたびにサトに『私がおりますから、仕事に集中してください』と嗜められる。



 一生は普段は経営企画部に席を置いている。


 専務室はあるが、いちいち来てもらうのでは仕事が進まない。もちろん他の部署にも毎日のように見回りに行くし、製菓工場にも時々顔は出したりする。こうして上の人間がきちんと目を配る事で、ハラスメントを防ぐことにもつながる。



 この仕事量は普通の人間ではこなせない。疲れにくいのはやはり神気を纏っているおかげなのだと、大神龍に感謝する。


 大神龍は『秩序』の神だ。秩序を乱すものを天に返す神だ。人間の味方というわけではない。

 ただ秩序を守らせるために遙か昔に結界師を作った、とされている。


 千年以上も前から続いている、この妖魔厄災のことも天界と地上の二つの世界を乱しているが、この千年という、長くて気の遠くなりそうな時間も、何万年も生きる大神龍にとってはそんなに長くない時間なのかもしれない、と一生は思っている。



 一生は一息入れようと席を立った。何人かの女性社員がこちらを見た。いつもの事だ。興味はない。


 廊下に出て、自販機のコーヒーを買いに行こうとした時に声をかけられた。


「専務ぅ〜。今度するイベントの資料持ってきましたよぅ」


 小山田瑠美だった。追いかけてきた。

 よりによってこんな時に、と一生は唇を噛んだ。


「わざわざ、ありがとう。目を通しておくよ。じゃあ」

 このセリフといつもの専務スマイルで会話が始まるのを防ぐ。

 なのに瑠美は話しかけてきた。

「今日はなんでそんなに急いでるんですかぁ? いつも急いでても態度には出してませんよねぇ〜〜」


 莫迦なふりをしているが、やはりT大卒なだけあって、鋭い観察眼をしている。


「……そうだな。今日は大事な約束がある。だから早く帰りたいんだ」


「彼女さん絡みぃ?」

 瑠美が興味深々に訊ねてきた。


「……君には関係ない。あれこれ噂が立つのは勘弁だ」

「むぅ、専務、酷い。せっかくお手伝いしてあげようと思ったのにぃ」

 瑠美が上目遣いで一生にむくれてくる。

「……君に手伝ってもらう事なんか……、いや、手伝ってくれるのか?」

 瑠美は頭がいい。飲み込みも早い。この莫迦なふりで出世が遠のいている自覚がない。


「!! え、うんうん、瑠美で良かったら手伝うよ!! 一生くん、何すればいい?」

 小山田瑠美はこんなことは初めてだったので胸が高鳴った。

 一生が自分を求めている、必要としている、そう感じた。


「一生くんはやめろ。頼みたいのはこの資料の誤字脱字、最終確認と……」

 一生が何やら説明を始めた。コーヒーを飲みながら、仕事をするつもりだったので、たくさんの資料を持っていた。


 瑠美は説明している一生の口元を見ながら、色々な想像を始めた。

(て、手伝うって、やっぱり専務室に二人きり? そ、そんな、心の準備できてないよぅ〜〜)


「……で、これ。総務部に戻ってやってきてほしい」

「え、専務室でやらないの?」

「何言ってんだ。自分の机が一番仕事しやすいだろ? 終わったら悪いが持ってきてくれないか?」

 一生ににこやかに微笑まれ、瑠美は顔が真っ赤だった。いつも期待は裏切られる。


「……いいよ。わかった。瑠美も専務を助けるから、その代わり、一つだけお願い聞いてくれない?」

 いつもの莫迦っぽい話し方を忘れてしまうぐらい、瑠美は心臓がバクバクしていた。


「そうだな。私にできることならするが?」


(ええぇ、あの一生くんが私にや、優しい。やばい、う、嘘)

「あ、あのぅ。駅前にできたおしゃれなカフェ、奢ってほしい」

 瑠美は一か八かの賭けに出た。


「いいよ。なんてお店?」

 一生からまさかのOKの返事が出た。

(う、嘘。今まで誘っても一度も乗らなかったのに……)


「お店の名前は『ベリーベル』だよ。本当にいいの? 私、たくさん食べるし、一生くんがびっくりするぐらいお会計いっちゃうかも」


「はは、いいよ。そんな事、気にするな。君らしくないぞ。あ、今から飲み物買うけど、なんか飲むか?」


「ううん!! いい! 私、大急ぎでこれ終わらせてくるよ」

 小山田瑠美は走り出した。途中で廊下を走るな、と課長の声がしたが、そんなものは無視だ。


(あ、あの一生くんとついにデート? 嘘嘘嘘嘘嘘。幼稚園から数えて振られた回数、三百二十九回だよ。つ、ついに私の事、す、好きになってきたんじゃ……。だって、彼女もいるのに私と二人でデ、デートだよぅ)


 瑠美は総務課の自分のデスクに戻ると、T大受験を目指して勉強していた頃ぐらいの集中力で、一生から渡された書類十枚を阿修羅のごとく、凄まじい速さで終わらせた。


(一生くん、彼女いいの? もう上手くいってないの? 二人でいる所、会社の人に見られたら、私たち、噂になっちゃうね……)



 経営企画部に入ると、一生が仕事をしているのが見えた。

 相変わらず、かっこいいな、と瑠美は思った。自分はこんな黄金比の男とデートするのだ。


 一生の方に近づいていく、一歩、一歩近づく度に、自分の心臓も比例するかのように鼓動が速くなっていく。


「あ、あのぅ専務、頼まれてたもの……できました」

 瑠美は緊張で声が掠れたが、一生は気づいてくれたようで、瑠美を見て眩しい笑顔を向けてきた。今までこんな嬉しそうな顔は見たことがなかった。

「ありがとう。小山田さん」


「あのぅ専務、あの約束はいつにします?」

 瑠美は心臓が爆発しそうだ。


「あ、そうだ。これ」

 一生が茶封筒を渡してきた。


「えぇ! 何ですかぁ?」

 瑠美は恐る恐るそれを受け取った。

 触った感触で中に紙が入っているのがわかった。

(ま、待ち合わせの時間とか、もしかして電話番号とかも書いてあるのかな?)

 なんだかんだ言って、今まで一生は自分の連絡先を教えてはくれなかったのだ。

 だが、カフェでデートするなら、連絡先の交換は必要だと考えるのが普通だろう。


「い、今、見てもいいですか?」

「……みんなに見つからないようにな」

 一生が小声で口にした。


 瑠美は早鐘する心臓をどうにか抑えて、封筒の中身を見た。


「!!! なんですか、こ、これ?」

 一生から渡された封筒の中には一万円札が五枚入っていた。


「さっき、仕事が落ち着いたから『ベリーベル』ってお店調べた。まぁ、値段は中の上かな。それで足りる? 何人で行くんだ?」


「は? 奢るって……。そういう意味じゃなく……」

「もし足らなかったら、その分までは出すから。今回は助かった。私はもう少ししたら帰るから、じゃあな」

「……そ、そんな」

(でも一生くんは一緒に行くとは一言も言ってない……。泣くな、瑠美。フラレなれてるはずじゃんか)


「ありがとうな。小山田」

 突っ立っている瑠美の横を通る時に、一生が瑠美の肩にポンと手を置いた。


 瑠美の脳内にフェニルエチルアミンが大量に分泌された——

 自分たちは間違いなく前に進んでいる。触れられた左肩が熱かった。

 今回はただの言葉のかけ違いだ、そう思った。

 だってあんな笑顔初めて見たのだ。

 そしてその笑顔は自分に向けられたのだ。



 小山田瑠美はご機嫌でスキップしながら、総務課に戻る。その途中、部長に注意されたが、そんなものは無視だ。


 瑠美は笑えてきた。楽しくて仕方がない。

 フラれ記録更新——

 三百三十回目。






 一生は山名が迎えにきた車に乗った。

 今日のこの後の予定は全部他の日に変えてもらった。


「予定より早かったですね。てか満面の笑顔ですね、若様」

「ああ、優秀な部下が手伝ってくれてな。早く帰れる」


 山名は一生の秘書をしている。一番融通が利くからだ。頭の回転も良い。



 屋敷に着いて玄関で靴を脱いでいたら、桜琴が走ってきた。


「お、お帰りなさい」

 桜琴はブラックのオーバーオールに薄手の白のパーカーを着ていた。

 よく似合っていて可愛かった。機嫌も良さそうだった。


 やっぱり童顔だなと一生は思った。普通に桜琴は高校生でも充分通じると。


「ただいま。今日は変わったことはなかったか? 大丈夫だったか?」

 出迎えに来てくれたことが嬉しくて仕方がない一生だったが、カッコつけて顔には一切出さない。


「特に! 何も……。でも……」

 桜琴は伝えるのを躊躇っているようだ。

「で、でも??」

 一生は気になって仕方がない。

「……あの材料をいただいて饅頭を作ってみました。はい!」

 桜琴から饅頭を渡された。


 それはあの殺人兵器の塩饅頭だった。一生は恐怖で固まった。


「田舎饅頭です。良かったら感想聞かせてほしいです」

 桜琴はまるでテストで百点を取ってきた子供のように、瞳がキラキラしている。多分、彼女の中で自信作なのだろうと一生は震えた。


「……いや、あ、ありがとう……。じゃあ、ちょっと部屋に戻って着替えをしてくる」


 一生はそそくさと自室へ戻った。本当は昼ご飯さえ食べていない。そのお腹でこの塩饅頭は死に繋がる恐れがあると思った。


 ——桜琴さんが料理は美味いのは、よくわかった。でも和菓子の仕上げは父親がしてるみたいだしな。これ、また一人で作ったんだよな……。


 しばらく、その艶々の白い物体、もとい饅頭と桜琴が呼んでいたものを眺めていたが、あんな期待された顔を見たら食べないわけにはいかない。


(ひ、一口だけ。お茶も準備したし、桜琴さんには悪いが、いくら桜琴さんが作ったとはいえ、この饅頭だけは私も食べるのが怖いんだ……)


 一生は覚悟を決めて、震える手でその田舎饅頭、いや殺人兵器を一口だけ食べた。


(……ん? あれ、これ、美味い?)

 一口食べて、一生は饅頭をマジマジとみた。やっぱり前に食べたあの殺人兵器と同じ饅頭だ。


 もう一口食べた。

 一生の口の中が小豆の優しい甘さと香りで包まれた。ほっとする味だった。

(え? どういう事だ? この間のはたまたま失敗しただけなのか? 解せんな)


 饅頭をすっかり食べ終わり、知覧茶を飲みながら一息ついていたが、一生は桜琴に言わねばならないことがある。


 何故にまた敬語なのだと。

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