第34話 彼氏特権
一生と話を終えた桜琴は、隣の自分の部屋に飛び込んだ。
彼と同じ部屋にいるのは限界だった。
桜琴は力が抜けて、そのまま部屋の入り口でペタンと尻餅をついた。
全身が熱い——
逃げ場のない火照りが身体中を駆け巡っているのがわかる。
顔を手で押さえる。火が出そうな熱さだ。
『……嫌いなんかじゃない。好きです』
桜琴をまっすぐに見つめる、一生の瞳の奥の深い部分までが、まるでスモーキークオーツの宝石のような、黒茶色の淡い光を放ち、その光が手のように伸びてきて、桜琴はその光の中に捕まった。
——あれは何? 好きってどういう好き?
桜琴は心拍数が上がり、咄嗟にああいう返事しかできなかった。
——あんなすごい男性ひとがあたしなんかを相手にするわけがない。
だが、あの瞳は真剣そのもので、熱が篭っていて、目が逸せなかった。
普段気軽に使っている『好き』とは違うものだと桜琴は感じていた。
****
拓実は実の母、
源次も帰ったし、今は誰もいないから、部屋でゆっくり母親と話せる。
「だからさぁ、何回も言うけど、俺さ、麻宮さんとは結婚とか考えられないの。大体、結婚自体に興味ないんだけど」
拓実は母に何度も抗議した。
久々に聞く母の声はいつもよりは穏やかだった。薬剤師の資格を持ち、元女優だった母は今でもその美貌を保っている。とても五十代には見えない。
「……何がそんなに不満なの? 拓実は本当にわがままよね。ところでアンタ、家に帰ってないみたいだけど、また神谷田さんのところでお世話になってるの?」
「……怪我して帰れなかったんだよ。仕方ないだろ。それよりカードも全部止められて不便なんだけど、戻してくれない?」
拓実が不機嫌な声色で主張する。今は裏稼業のお金だけで私立の大学費用も、生活費も全て拓実が捻出している。
「……ふ〜ん。怪我ねぇ。大事な身体なんだから、あんまり無茶しないでちょうだい。まあ早く結婚して跡を継ぐならいいわ。カードも戻すし、車も返す。運転手も返すわ。卒業までの学費も出してあげる」
母の恭子は拓実を試すように、少し愉快そうにしているのが声で分かった。
「だから、麻宮さんとは結婚できないって。母ちゃんも知ってるだろ。五家同士は結婚できないって」
「……そんなの知らないわ。でももうこの際、麻宮さんでなくてもいいわ。それなりのお嬢様と結婚して、アンタが会社を継ぐって約束するなら、麻宮さんとの婚約はなしにしてあげるわよ」
「結婚は絶対条件かよ?」
「当たり前よ。跡継ぎがいなくなるでしょ。それよりなんで、そんなに麻宮さんが嫌なのよ? お断りするのも理由がいるのよ」
母は飲んでいるのか、男といるのか、そのどちらかだろう、いや、あるいは両方か。女優をやっていた時の女をアピールした話し方だ。
「麻宮さんは良い子だとは思うけど、一緒にいて落ち着かないんだよ」
これは本心だった。
漫画とかだと最初は苦手だった婚約者を意識し出して、後々好きになったりするが、凛華とはそんなご都合主義な展開にはならなさそうだ。
「……そう。それなら仕方ないわね。一緒にいてくつろげない相手なんて、疲れて会社の経営に響きそうだわ」
父のことか、と拓実は歯軋りした。優しかった父。立派な結界師だった父。もう何年も会っていない。
「ねぇ、アンタさ、初めて結婚にこだわりみせたわね。どうしたの? 今まで婚約に対しても何も言わなかったじゃない? なぁに? 誰か好きな子でもできた?」
拓実はため息を吐いた。
「……好きな子なんていないよ。でもさ、結婚ぐらい好きにさせてくれない? 俺の人生なんだけど」
「もういい、分かったわ。アンタから電話なんて珍しいし、可愛い拓実のために今月から全て元通りに戻してあげるわ。そのかわり、私との約束は守ること? いいわね?」
「約束ってなんだよ?」
「何回も言わせないで。アンタが会社を継ぐこと、結婚して跡取りを早く作ること、子供は最低二人以上よ、分かったわね? でないとアンタの大好きな兄を強制的に連れ戻すわよ?」
「……分かったから、それだけはやめてくれない?」
「ふふふ、良い子ね。あと、裏稼業の仕事もほどほどにしなさいよ。神谷田さんがなんとかするわよ、あれだけ優秀なんだから、あちらのご家族はいいわね。立派な御子息がいて……」
「なんだよ、それ。一生にだけ負担かけられないよ。……とにかく俺が自分で結婚相手は探すから、余計なことはしないでくれる?」
「ふふ、分かったわよ。しばらく待ってあげる。アンタがどんな子を連れてくるか楽しみだわ」
母との会話は終わった。
気分転換に庭に出て拓実はゆっくりと歩いた。
しばらく歩くと、いろはもみじの横に設置された木のベンチが目に入った。
拓実は迷わず、そのベンチに寝転んだ。
母と話すのはすごいエネルギーを使ったが、案外、母があっさり凛華との婚約解消に納得してくれたのは意外だった。
拓実はよく晴れた空を眺めながら思案した。雲がゆっくりと流れていく。
——これで凛華とは終わった。ずっと先延ばしにしてたけど、やっと言えた。
凛華のことは解決したが、今度は結婚問題が生まれた。
——結婚とかほんとに考えられないんだけどな。……一生は桜琴ちゃんと結婚したいだろうなぁ。でも親父さんが許すかなぁ、そんなの。
拓実も桜琴のことは好きだ。
でも一生のそれとは違う気がする。
桜琴は初めて会った時に泣いていて、次に会ったらビクビクしていて、昔の自分と重なった。
だから可哀想で放っておけなかった。
守りたい……。
初めて妹みたいな存在ができた気がした。
すごく嬉しかった。
——恋ってなんだろ? 楽しいのかな? 一生、毎日ウキウキしてるもんな。でも俺も桜琴ちゃんを揶揄うのすごく楽しいよ。面白いからそばにいたくなる。妹がいたらこんな感じなのかな……?
親友の一生の恋を応援するのは当たり前だ。
桜琴も多分一生が好きだろう、と拓実は思っている。
一生にも桜琴にも幸せでいてほしいと思う。
——結婚したい相手か、そんなのみんなどうやって見つけてるんだろう……。
庭のベンチでゴロンと寝転んでいると、一生がやってきた。
拓実は身体を起こして、一生の座るスペースを空けた。
「明日、銀琴さんに会うんだが、拓は夕方から時間作れるか?」
一生が拓実の隣に腰を下ろしながら訊ねた。
「夕方? それなら大丈夫だと思うよ。それより源次から聞いたんだけど、桜琴ちゃんって何者? 身体からピンクの光を出したって……」
「あのな、そんな宇宙人みたいなものじゃない。あれはオーラだ。あくまで私の見解だが、彼女も私たちと同じ異能者かもしれないな……。それに関しては彼女が何も話さないから分からないんだ。こちらからも言いづらいし……」
「そうだよね。せっかく元気になってきたのに、そんな事、言えないよね」
「……そうだな。私たちは幼い頃から結界師として生きてる。家族も異能者だ。だから異能にはそんなに抵抗はない。だが、大人になって、突然自分に異能があるなんて知ったら、そう簡単に受け入れられるか?」
「パニックになるかもね。受け入れるには少し時間がかかるかも。その精霊王とかいう奴はその力を狙ってるのかな? 俺も一度そいつに会ってみたかったなぁ〜」
拓実が宙を見上げて残念そうに口にした。
「そんないいもんじゃないぞ。ナルシストでキザで、全身真っ白で奇妙な奴だ。ここの結界を抜けたら、いつ奴が襲ってくるかわからない。案外すぐに会えるかもしれないぞ。私は会いたくないがな」
「そっかぁ〜、精霊の神様なのになんかおかしいね。人間を攻撃なんてさ。でも俺の神通力、まだ半分しか回復してないんだよね。そいつから早く返してもらわないと」
拓実が左腕を見た。まだあの忌々しい精霊王の顔が右半分残っている。失敗したタトゥーのようだ。
「凛華にも、精霊に関する古文書を探してもらっているが、おそらく精霊王は半妖になっている」
一生は凛華からの連絡待ちだ。
「半妖? なんか色々、今回はやりがいありそうだなぁ〜。……凛華といえばさ、俺、凛華と婚約解消するよ」
「……は!? 拓、お前、あれ本気だったのか? 五家同士も結婚できないわけじゃないって知ってるよな」
一生が仰天している。
「さっき母親と話してオッケーもらった。凛華もそうしろって言ってたじゃん。母親には五家同士は結婚できないって嘘ついた」
「お前、凛華にもそんな嘘ついてたな。そこまでして……。しかしよくお前の親が了承したな。それに、凛華はお前の事好きだったと思うがな……」
一生の瞼には凛華の号泣する姿が目に浮かんだ——
「……知ってるよ。でもさ、凛華の事は同じ結界師としては好きだけど、それ以上の感情はないから、凛華にも悪いよ。母親には会社を継ぐ事と、早く結婚しろって言われてる、それが婚約解消の条件」
「け、結婚!? 今しがた婚約解消の話をしたばかりなのに?」
「そうなんだよ〜。でもさ〜、俺、好きとかよくわからないしさ、好きって何? 一生ならわかるよね?」
拓実が飼い主に助けを求める子犬のような目で一生に訊ねてくる。
「えっ、わ、私にもよくわからないんだが……」
一生は目が泳ぎ、しどろもどろになって慌てている。
「一生さぁ、わかりやっす! でも今まで結構彼女いたじゃん? 何が違うの? すごい美人もいたのに……」
一生はため息を吐き、観念したように話し出した。
「……全てが違う。彼女になら毎日連絡してって言われたいな」
「はぁ?? 疲れそう〜」
「……疲れない。逆に元気になるかもな」
「そういうものなの? 今までの彼女はすごい美人ばっかだったのに、よく面倒くさそうにしてたじゃん」
一生が息を吐く音がした。ため息ではなかった。考え事をしている時に出る音に似ていた。
「面倒くさいのは楽しくないからだ。今は桜琴さんがいるだけで日常が楽しくなった」
「どうしたらそこまでの気持ちになれるんだよ。俺はそれが知りたい」
「全部聞きたいか? 今から話すと少なくとも五時間はかかりそうだが、聞きたいんだな? だがその時間内にうまくまとめられる自信もないがな」
「い、いや、遠慮するよ」
「ただ一番楽しいのは話をしている時だという事だ。そこには私と彼女しかいない結界が出来上がっている気がする」
「ぶっ!! あはははは。一生がいきなり詩人みたいになった〜!!」
拓実が腹を抱えて、涙を浮かべて笑い出した。
「な、なんだ。人が真剣に答えたのに……。でも拓にもそういう相手が見つかるといいな」
一生が優しい目をして笑った。一生のこの慈愛に満ちた眼差しは桜琴のことを考えているのかもしれない、と思うと拓実は少しだけ羨ましくなった。
****
お風呂に入り、黒のパーカーとブラックジーンズに着替えて、髪を整えて、夕飯の時間まで一生は部屋でひたすら待っていた。
今日の夕飯は桜琴が部屋まで持ってきてくれるとの事だった。
もうすぐ夕飯の時間の六時半だ。一生は落ち着かなくて、手遊びをしたり、外を眺めたり、ウロウロしていた。
(桜琴さんの手作りご飯、桜琴さんの手作りご飯、桜琴さんの手作りご飯……)
呪文のように頭の中で唱える。
不味くたっていいのだ。好きな女性が一所懸命、自分のためだけに作ってくれるんだから。
そんな事を考えていると、ドアがノックされた。一生は急いでドアを開けた。
桜琴がピンクのエプロンを着て立っていた。
「お待たせしました。お食事です」
桜琴は失礼します、と言い、座卓に食事を並べてくれた。
「こ、これ桜琴さんが作ったのか?」
一生は目を見張った。
プロが作ったような美しいオムライスが座卓に乗っている。
艶々の玉子に包まれたご飯の膨らみは奇麗な曲線を描き、流れるようなトマトソースのかけ方も一般家庭のそれとは違った。
スープも、サラダも全てが素人が作ったとは思えない出来栄えだった。
食欲をそそるスープの匂いも、焼いた玉子の匂いも、とてもあの塩饅頭を作った同一人物のものだとは思えなかった。
「久しぶりに作ったんで、あまり上手くはできなかったけど、温かいうちにどうぞ。では、また後で食器を下げにきます」
桜琴はそのまま踵を返し、ドアの方へ歩いていく。
「桜琴さん、あなたは彼女なんだから、彼氏が食べ終わるのを見届ける義務がある」
一生は桜琴を引き留めた。帰したくない。どんな理由でもかまわない。
「え? 義務?? あたしがいたら食べにくくないですか?」
「敬語、禁止。はい、横に座って」
桜琴に座布団に座るように、一生は座布団を軽く叩く。
桜琴が横に座ったのと同時に、一生は「いただきます」と手を合わせて、スプーンを手に取った。桜琴は恥ずかしそうに隣で見ている。
——まさかあの塩饅頭の時みたいに、見た目と中身があべこべという事はないよな。頼む、普通のオムライスであってくれ。
一生は祈りを込めて、オムライスを口に運んだ。
あまりの衝撃に目を見開いた。
「…………何だこれは。めちゃくちゃ美味い……。すごい!!」
口に入れた瞬間、玉子がとろけ、甘いトマトソースの酸味とちょうど良い噛みごたえのご飯にバターの香り。全てが重なり合い、それらが口の中で音楽を奏でているようだった。
スープはコンソメベースのほっこりオニオンスープ。サラダはレタスもアスパラもシャキシャキしていて、新鮮さを損なっていなかった。
一生は夢中になって食べた。
「ご馳走様でした。桜琴さん、料理得意だったんだ?」
一生は心の底から驚いている。あの塩饅頭が強烈だったからだ。
「実は
「……君は頑張り屋さんだな。今日はびっくりした。こんなオムライスは初めて食べた」
嘘ではなかった。魔法がかかったかのような不思議な味だった。
「大袈裟だって……」
桜琴が顔を赤らめて、一生から目を逸らした。
「私のわがままを聞いてくれた上に、こんなご馳走をありがとう。本当に美味しかった。疲れが吹っ飛んだ」
一生は桜琴の頭を撫でた。桜琴は頬を赤くして固まっていた。
その時、ドアがノックされた。
入ってきたのは拓実だった。
「一生、お取り込み中ごめんね〜。桜琴ちゃん、さっきのオムライス、俺にも作ってくれるんだよね? まだ〜?」
「は? どういう事?」
一生が桜琴の方を見た。
「さっきここに運ぶ時に見られちゃって、そのオムライスが食べたいって拓くんが……」
桜琴は顔を赤くしたまま、俯いている。
「拓はオムライスがそんなに、そんなにも食べたいのか? 人の部屋に押しかけてくるぐらい食べたいんだな?」
一生はにこやかに微笑んだ。
「うん、俺、オムライス大好きだよ、食べたいよ。一生だけずるくない?」
「そうかぁ! なら私が直々に拓に美味しい、美味しいオムライスを作ってあげよう!!!」
「いや、俺は桜琴ちゃんのが……」
——桜琴さんの料理を食べるのは、彼氏特権で私だけだ。
一生は厨房へと向かった。
一生の作ったでこぼこオムライスを見て、拓実が悲鳴を上げた。
「いいから、食え!!!」
一生の声とともに、拓実の口の中にそれは押し込まれた。
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