第32話 純愛 man crying

 オフィスビルの25階の専務室で、一生は仕事をしている。

 今日は製菓工場以外、会社は休みだ。当たり前だが警備員以外誰もいない。


 山積みの書類に目を通しているが、昼までに到底終わりそうにない。月曜日のカンファレンスで発表するものもある。

 それに月曜日は桜琴の母親に会って話を聞かなければならない。仕事を少しでも減らしておかなければならない。


「はぁ……」

 ため息が漏れる。

 一生は回転式の椅子を回し、窓から見える景色を見つめた。キャンパスに描いたような青空。いい天気だ。

 そんな天気とは裏腹に、一生の心は土砂降りである。



『あたしはなるべく人に関わらないで、自分の心がないまま、この三年間は生きてきました』

 先日、桜琴が泣きながら話していた姿を思い出す。


 ——自分の心がないままなんて、人に関わらないなんて、あの歳でどれだけ寂しかっただろう。よく笑うようになって、最近ようやく、心を少し開いてくれるようになった気がする。


『あたしは神谷田さんに危ない目に遭ってほしくないんです』

『昼も夜も働いているんですか? お身体、大丈夫ですか?』

『疲れているみたいなので、甘いものを……』


 ——あんなに気遣ってくれていたのに、私は莫迦だな。拓実はきっとガチガチの桜琴さんの緊張をとるために、本来の姿に戻すためにああやって接している。あいつはそういう奴なんだよな。私とは器が違うな……。あんなキツい言い方をして、桜琴さんはもう実家に帰ってしまったかもしれない。


 ——もうあの笑顔を見ることもできないかもしれない……。


「はぁ……」

 一生がまたため息を吐いた。その時、専務室のドアがノックされた。

 怪訝に思って「はい」と返事をすると、ドアが開き、総務課の小山田瑠美おやまだるみが入ってきた。


「専務〜、やっぱりいた! やだぁ、また休日出勤ですかぁ? あ、専務に差し入れですよ〜! はぁい、スタビのコーヒーですよ〜」

 茶髪の巻き髪に派手なアクセサリー、ボディラインが分かるニットのワンピース、濃い化粧に香水の匂いが鼻を突く。一生は頭痛がした。


 一生の目の前に瑠美がスタビのコーヒーを置いた。

「いや、間に合っている」

「またまた〜、意味わかんなぁい。専務はミルクのみでしたよねぇ。入れてあげますよぅ」

 瑠美がスタビコーヒーにミルクを入れている。


「……帰ってくれないか? 仕事で忙しいんだ」

「一生くん、相変わらず冷たぁい」

「会社でその呼び方はやめてくれないか? 人が聞けば誤解する」

「誤解された方がいいの〜! 瑠美は」

「君とはただのいとこだ。それ以上でもそれ以下でもない、ただのいとこ」

「二回も言わないでよぉ〜。でもいとこ同士は普通に結婚できるんだよ! それとも今の彼女と結婚するの?」

「い、今の彼女って?」

「またまた〜、とぼけちゃってさぁ、波に聞いちゃったぁ。いきなり同棲までしちゃってさぁ、どういうことぉ?」

「……別にそうしたかったから、そうしただけだが?」

 やはりバレてるか、と一生は諦念した。社内の女性の情報網はどんな回線よりも速い。

 面倒くさいと一生は辟易した。


「信じらんなぁい。同棲なんて穢らわしい。相手の女の狙いは妊娠よ、妊娠。絶対そうよ」

「……そうだといいんだがな」

「はぁ!? 本当に意味わかんない。何言ってんの!? 一生くん、働きすぎて頭おかしくなったんじゃない?」

「そんな事より君もT大卒なんだから、莫迦なふりしてないで、きちんとしたらどうだ?」

「莫迦な方が男にモテんのよぉ〜!」

「それは初耳だ。じゃ、私は仕事に戻る」

「一生くん、仕事の邪魔してごめんね……。でも会えて良かった」

 瑠美が帰ろうとドアノブに手をかけた。

 その時、後ろから一生の声がして瑠美の耳に届いた。

「……少し話して元気出た。差し入れもありがとう。叔母さんによろしく」

「そんな優しくするから、瑠美は一生くんの事ずっと好きで……、諦められないんだからね」

「いや、諦めてくれ、じゃあな」


 専務室のドアがバタンと閉められ、中から鍵がかかる音がした。


 小山田瑠美は笑い出す。

 またフラれた、もう三桁目だ。幼稚園時代からのフラれ記録更新だ。こんなにしつこい女はいないだろう。この記録は誰も抜くことはできない。彼の記憶に深く残れればそれでいい、今は。

 いつか絶対に自分のものにする、自分が一番、彼と付き合いが長いのだから。

 廊下でスキップしながら、小山田瑠美は満面の笑みでエレベーターのボタンを押した。


 時刻は午後三時だった。一生はお昼ご飯も抜き、仕事をしていた。ただ早く帰るために。


「ふぅ、このぐらいやっておけば、明日はなんとか早退できるだろう」


 一生は小山田瑠美が置いていったコーヒーにも手をつけていない。

 申し訳ないが、女性からもらった食べ物などには、一切手を付けないようにしている。

  普段は触った時に感じる悪い気、匂いなどで毒や、薬などが入っているか分かる。


 大学生の頃に飲み屋で調子に乗ってはしゃいで、酒を飲みすぎて、神通力が鈍くなり、酒に睡眠薬を入れられたのすら分からず、フラフラになって、寝てしまい、知らぬ間に奥の部屋に運ばれた。

 女の子に押し倒されて、ようやく気がついた。

 そこの飲み屋で働く男友達までグルだった。その女の子にお金をもらっていたようだった。


 あの時、拓が一緒の店にいなかったらと思うと、助けてくれなかったらと思うと、今でもゾッとする。

 以来、酒も飲まないし、女の子からもらったものは絶対に手を付けない。


「せっかくなのにごめんな」

 一生はそう言い、小山田瑠美がくれたスタビのコーヒーを処分する。やはり悪い気は何も感じない。彼女はそういうことはしないとわかっていても、警戒するに越したことはない。


 その時、スマホが鳴った。サトだった。

「サト、どうした? 珍しいな」

「それが坊っちゃま、桜琴様がなかなか言うことを聞いてくださらなくて……。いいんでしょうか、坊ちゃんの大切な方が……」

「わかった! すぐに帰る! サトは桜琴さんを引き留めてくれ」

 一生はすぐに電話を切った。

 専務室の鍵を閉め、スマホとカバンを持って、会社内を猛スピードで移動する。

 警備員がびっくりしていた。


 ——や、やっぱり実家に帰るのか? 実家では到底君を守れない。そのまま、精霊王に連れて行かれてしまう。そしたらきっともう二度と会えない……。


 たまらなくなって、カバンを抱え、休日の混雑している街中を一生は全速力で走り出した。

 信号に引っかかり、途中でタクシーを拾おうとしたが、なかなか捕まらない。

 屋敷からの迎えの車を待つ時間さえ惜しい。

 一生はそのまま闇雲に走り出した。


 ——謝るから、頼むから出て行かないでくれ。まだ私は君に何一つ、気持ちを伝えていない。


 普段は乗らない電車にまで乗り、最寄り駅から屋敷目掛けて走り出した。

 息が切れる。喉がちぎれそうだ。


 桜琴の笑顔が浮かんだ。

 自分の不甲斐なさに涙が出る。


 ——間に合ってくれ。私は君が好きだ。大好きなんだ。


 一生は息を切らしながら、屋敷に着いた。やけに静かで誰の姿もない。桜琴の部屋をノックしたが返事も気配もない。


「……間に合わなかった……。なんでだ。なんでだ!!」

 一生はガクッと膝と着いた。涙が溢れてくる。

 一生は膝を抱えてうずくまった。



「あ、あの〜、若様?」

 山名だった。眉間に皺を寄せて、非常に険しい表情をしている。

 一生が泣いているので話かけにくそうだった。


「な、なんで泣いているのですか、しかも廊下こんなところで……。それにそんなに息を切らして……、まさか走って帰って来られたんですか? なんでまた?」

「間に合わなかったんだ……。桜琴さん、実家に帰ってしまった」

「…………は?? 何をおっしゃっているんですか? 桜琴様なら厨房にいますよ」

「……はぁ!?」

 一生の素っ頓狂な声が辺りに響いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る