第29話 初めての朝

 桜琴は朝の六時に目が覚めた。ふかふかの布団でよく寝れたが、昨夜遅かったせいか、起きたのがいつもより遅かった。


 この場所は守られているような、そんな安心感があり、よく眠れた。


 色々な事があったから疲れていたのに、隣の部屋に一生がいると思うと、それだけで気持ちが昂ってしまい、寝るのが遅くなった。

 壁が分厚くて何も聞こえないのに、変に意識して静かにしてしまう自分がいた。そこに一生がいるのかさえわからないのに……。



 桜琴は顔を洗って白のチュニックと、ジーンズに着替えた。

 昨日も思った事だが、やはり髪は切らないといけないぐらい傷んでいた。ゴワゴワしている。


 佐一が長い髪が好きだと楓と話していたのを耳にしてから、ずっと伸ばしていた。失恋した時に切ればよかった。

 あんなに冷たくされていたのに髪を伸ばして、いつか振り向いてもらえるかもなんて、何を根拠に期待していたのか、莫迦みたいだ。

 大体振り向いてもらえたところで、あの黒緑たちに邪魔されていたのだから。


 桜琴は鏡を見ながら、櫛が通らない髪をまたお団子にした。化粧はファンデと薄いアイメイクのみだ。今度、薫にメイクを教えてもらおうと思った。


 いい天気だったので外に出たいが、出てもいいのだろうか? ここは安全だと一生は言っていたが、一人ではやはりダメだろうか。桜琴は廊下に出てみた。今日は日曜日だが、みんなもう起きているだろうか? 


 その時、ガチャリと音がして隣の部屋のドアが開いた。

「おはよ〜、桜琴ちゃん。昨夜はよく寝れた?」

「おはよう。拓くん、隣の部屋なんだね。ちょっと、いやかなりびっくりした」

「うん! 一生に頼んで隣にしてもらった。さっきまで源次もいたよ」

「そうなんだ。御厨山みくりやまさんはもう帰ったの?」

「いや、朝稽古してるよ、一生と。朝ご飯までまだ時間あるから、ちょっと見に行かない?」


 拓実に誘われ、桜琴は二人で庭をしばらく歩いた。神社で朝稽古をしているらしい。しかし何度見ても素晴らしい庭だ。アカマツやアオダモ、ツリバナが青々と茂り、アセビの淡いピンクの花が鈴なりになっていて、とても可愛らしかった。


 石畳の庭を歩いていると、トタン屋根がついた建物があり、中から声がした。

「まだまだだぞ。今から腹筋五百回追加だ」

 声の主は山名だった。波の忍びたちの訓練所らしい。


「なんか今日、一段と厳しくないですか、うずまき様〜。もうヘトヘトですよ〜」

 波の一人がぼやいた。

「莫迦も〜ん! 昨日、お前たちは桜琴様に大変失礼なことをしたのだぞ。名門神谷田家の忍び『波』として恥ずかしくはないのか? 桜琴様は護衛対象者であって、若様の恋人に有らせられるお方だぞ。今日はお前たちの腐った性根を徹底的に叩き直す!」

 山名がまくしたてるように言い放つ。

「そ、そんな〜、だって彼女って知らなかったし、あんな可愛い子がきて、じっと見てろって方が無理ですよ」

「そうそう、若旦那様の彼女って知ってたら、誰も近づきませんよ」

 波の忍びたちがまた無駄話を始めた。妖魔厄災と戦う時は忍びとして、とても有能なのだが、その他では本当に普通の男の子たちなのだ。

「ええ〜い、黙らんか! 桜琴様が美しいのは一目瞭然だ。当たり前であろう、あの若様が選ばれたお方だぞ。お前らあとで腕立ても五百回追加だ。わかったか? 終わるまで寮には帰さんぞ!」

 波の男たちの落胆の声が聞こえた。


 実は山名自身も、あの時の拓実と薫の芝居じみた発言に半ば呆れたのだが、それよりも度肝を抜かれたのが、あの一生がそれに乗っかったことだった。



「ぷ、ははは。山名、鬼稽古、やってる。やってる。そりゃそうなるよなぁ、ねえ、桜琴ちゃん?」

 この光景を見ていた拓実が愉しそうに笑った。桜琴には何がそうなるのかよく分からない。


「……拓くん、昨日なんであんな事言ったの?」

 昨夜桜琴を一生の彼女扱いにした拓実に、少し責めるように訊ねた。

「なんでって? だって桜琴ちゃんも言い寄られて困ってたし、一番いいのは一生の彼女にする事かなって思っただけだよ」

「……そうなんだ。別に彼女(仮)だからいいけど」

 桜琴はなんでもない事のように振る舞ったが、内心は動揺している。

 普通に彼女(仮)を演じることができるのか? 


「桜琴ちゃん、彼女(仮)って何? それ、一生の提案?」

 拓実が怪訝な表情で桜琴の顔を覗き込む。

「違うよ。あたしが言ったの。神谷田さんは護衛の仕事で、あたしを彼女って事にしたって言ってたから。だから彼女(仮)」

「……何それ、俺には意味が分からないな〜。なんでそうなるかな」

「意味が分からない事、飲み会でいきなり言ったの拓くんじゃん……」

 桜琴がぶすくれてそう呟くと、拓実が真剣な表情で桜琴の目を見た。黒水晶のような瞳。その奥にある澄んだ光は、桜琴の瞳をただただ見つめている。

「……一生の彼女は嫌?」

 拓実のお得意のびっくり発言だ。心臓に悪い。


「! そ、そんな事はないよ。それに仮の彼女だし……」

「そうか、ならあの時、俺の彼女って言っておけば良かったかな。俺なら彼女(仮)にはしないよ……。きちんと俺の彼女にする」

 拓実の顔が近い。その瞳の奥にあるものが何なのか、全く見えない、分からない。桜琴は恥ずかしくて顔を背けた。

「な〜んちゃって! びっくりした? 俺ら友達じゃん。さぁ、神社はもうすぐだよ」

 全く持って拓実は謎だらけだと、揶揄われていると桜琴は思う。


 少し歩くと白い鳥居が見えてきた。一礼して鳥居をくぐり、参道を歩く。

 神社内の物、全てが白い。

 参道の両脇に置かれているのは、狛犬や狐ではなくあの大きな狼だった。


 目の前に真っ白で立派な御社殿はあるが、賽銭箱は置かれていなかった。

 他には小さな社務所と手水舎があるだけだった。

 御社殿の前には広い庭があった。ここはただの土庭で石畳もなかった。


 神社の周りには沈丁花の花や、南天、ツツジ、ネムノキなどが立派に植えられている。


 ここもまた別世界だった——


 桜琴は嫌な事があると、ラットランドや、メゾンテンボスに行きたくなる。

 すぐに嫌なことを忘れさせてくれる。別世界だ。

 夜まで続くパレード、心弾む音と色とりどりに光輝くライト、華やかな衣装。

 どこまでも続く夢の世界。美味しい食事。洋風の建物。女の子の憧れのお城。

 選びきれないほどのお土産ショップ。異国を感じさせる明るいキャラクター。


 平凡で同じことの繰り返しの日常で起こる、不条理な事も忘れさせてくれる、そんな世界。ここ何年かはわけの分からない流行り病のせいで、なかなか行けていない。


 未来を諦め、和菓子作りさえ失敗するようになり、何もない、心を殺したつまらなかった日常、ただ生きてるだけの毎日……。

 だが一生や、拓実と出会ってから、起きること全てが刺激的で、毎日が別世界だった。


「すごい……。奇麗、この感じは何……」

 桜琴は思わず呟いた。


 ——ここには間違いなく、すごい神様がいる。


 普通の神社ではない。全身がゾクゾクして止まらない、ただ不快なものではなく、それはこの世のものではない、恐ろしいまでの神々しさを放っていて、その気配を、空気を肌で感じる。

 あの黒い狼の時も背中がぞくりとしたが、ここで感じるものは桁違いのものだった。


「あ、桜琴さん、おはよう。昨夜はよく寝れましたか?」

 神社の土庭で竹刀を持ち、源次と稽古をしていた一生が桜琴に気づき、朝から眩しい笑顔を向けてきた。汗をかいていた。一体何時から稽古していたんだろう。


「神谷田さん、おはようございます。早いですね……。はい。おかげさまでよく寝れました」

「それは良かったです。稽古が終わったら話があるので、少し待っていてください」


 一生と朝から会える嬉しさ。普段見れない姿が見れる喜び。ただもうそこに彼がいるだけで、姿を見るだけでたまらない気持ちになるのだ。


 佐一のこと、引きずらないで案外すぐに吹っ切れたのは、一生と拓実の存在だ。二人に出会えた事自体が奇跡なのだ。別世界に連れて行ってくれたのだから。



「甘山さん、おはようございます」

 淡々と源次が言った。懸命に竹刀を振っている。

「御厨山さん、おはようございます」

 桜琴が返事を返した。正直、この人も謎だらけの人物だと桜琴は思っている。

 源次は昨夜かなり泥酔いしていたようだったが、二日酔いとか何もなさそうだった。

「一生、源次おはよう! 俺も稽古混ぜてよ〜」

 拓実が朝の鍛錬に加わって、三人で何やら竹刀で剣術の稽古を始めた。三人とも動きが素晴らしいのは、桜琴のような素人から見てもわかった。



 しばらくして、三人が社務所に戻ってきた。

 社務所の前の石のベンチで足をぶらぶらしながら座っていると、一生から声をかけられた。

「桜琴さん、この先に休憩所があるのですが行きませんか?」

 

 彼の額から汗がポタポタと流れている。朝の光に照らされて、奇麗で小川みたいだった。


 四人で神社の中を歩きながら、そんなものどこにあるのだろうと桜琴は疑問に思った。


 二本の楠の裏に隠れるように、その建物は立っていた。流れるような屋根の純和風の家だった。


 案内され、中に入ると案外こじんまりしていた。二間続きの部屋と台所が目に入った。満月のような和風の丸窓がアクセントになっていて、センスの良さを伺わえる。

 ここも素敵な作りですねと桜琴は言い、辺りを見回した。一生の話では天然の温泉もあるらしい。


 テーブル席の椅子に座ると、一生が桜琴にお茶を淹れてくれた。


「桜琴さん、汗をかいたのでお風呂に入ってきていいですか?」


 一生にそう言われてドキッとした。お風呂と言われれば、色々勝手に想像してしまう。顔が赤くなる。

 それに気づいた拓実が真剣な顔つきで、

「桜琴ちゃんも一緒に入る?」

 と詰め寄ってきた。桜琴よりも一生と源次が仰天する。

「は、入りません!」

 桜琴は赤い顔のまま突っぱねる。

 拓実は自分を揶揄いすぎだと桜琴は感じる。


 それを見ていた一生は複雑な面持ちで二人を見ていた。

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