第28話 ほろ酔いリヴァーブ
先程とは打って変わって、明るい雰囲気になり、みんなが二人を祝福しているのがわかった。
桜琴は立ち上がった。一体これは何の冗談なのだろうと。
「あ、あの神谷田さん……」
「桜琴、どうした?」
桜琴の心臓は飛び跳ねた。なんでいきなり呼び捨てなのか、急展開すぎて桜琴の頭の中は真っ白だ。
「あ、い、いや。わけが……」
桜琴の言葉を遮るように、一生が言葉を重ねた。
「……酔ったのか? 少し風に当たろうか」
そう言いながらズカズカと桜琴の所まで歩いてきて、手を引き、みんなに見せつけるかのように堂々と食堂を出た。
食堂から庭に出た。
庭の中をしばらく歩いた。どこまで行くのだろうと桜琴は少し戸惑ったが、繋いだ手が程よく温かくて、頬が朱に染まる。
「ここまで来れば大丈夫だろう」
辺りを見回した一生が呟いた。
真竹を丸く編んで籠状にした和モダンなライトがあちらこちらに置いてあり、そのライトに照らされた手水鉢の周りには、絵に描いたようにベニシダ、セキショウ、フジバカマなどが奇麗に植えられていた。
手水鉢の
さらに驚くことに盆栽が庭植えになっていて、苔やタマリュウなどで囲ってあり、なんとも趣がある。
ここでは植物、水、土が限りのある時間を懸命に生きている。神秘的で現実ではないような不思議な世界だった。桜琴はただただその美しいものたちに心を奪われていた。
「ああ、ごめんなさい」
一生が慌てて、桜琴の手を離した。なんとも言えない名残惜しさに桜琴は自分の手を握りしめた。
「あのさっきのは桜琴さんを守るための芝居なんです」
「……芝居?」
「普段はあんなことないんですが、波のものたちが桜琴さんに寄って集って、嫌な思いさせてしまい、すみません。それで拓と姉さんが一芝居打って、私の彼女って事にしたんだと思います。私もあの状況ではそれが一番いいと思い、桜琴さんに何の許可なく、あんな事して、本当にすみません」
一生が早口で一気に話した。一生自身も現状についていくのに必死だった。
「……なるほど、お芝居。……ですよね。いきなりでびっくりしました」
桜琴は普通に笑っているふりをした。護衛対象をありとあらゆるものから必死に守ろうとしている、それだけ、ただそれだけなのだと自分に言い聞かせる。
「桜琴さん、失礼を承知の上で言いますが、ここにいる間は他人行儀ではなく、少しだけ恋人のように振る舞ってもらえませんか? 流石に今日みたいな事はないとは思うし、きちんと注意もします。ただ公言した以上、それらしくした方がいいかと……」
「……恋人のように? 上手くできるかわかりませんが、それでいいなら」
桜琴は頭の中では割り切っている。神谷田さんの仕事なのだ。自分を守ることが仕事。しかも自分の母親が神谷田さんに無理やり頼んだ。守ってほしいと。その母の思いに神谷田さんは必死に答えようとしている。
どこまでも誠実で仕事熱心な人だと思った。
でも心は裏腹だった。
ここにいる間だけの期間限定の恋人? それも偽りの彼女? 泣きたいほど悲しい。本当の彼女にはなれない、そう言われている気がした。
この人は仕事、仕事、仕事のためなら、護衛対象者の彼氏にさえ平気でなれるのだ。あの波の男性たちに『護衛対象に近づくな』そう言えばいいだけの事じゃないか。こんな回りくどい、わけのわからない事しなくたっていい。
そう桜琴は少しイライラし始めていた。護衛対象者を守るためなら、今までもなんでもしてきたんじゃないだろうか。
苛立ちから桜琴は口走ってしまった。
「神谷田さんのお仕事はよく知りません。でもこんな事をして彼女さん、悲しみませんか? いくら仕事とはいえ、私だったら彼氏がこんな事してたら嫌です! 嫌いになります」
「……え? なんの話ですか?」
一生はわけがわからないといった風だ。
「だ、だから、いくら仕事でも、自分の恋人が彼女(仮)や彼氏(仮)を作ることですよ」
「……桜琴さん、さっきから怒ってますか? 勝手に彼女扱いして……。はっ、もしかして彼氏がいるんですか?」
一生が苦虫を噛み潰したような顔で、口元を覆い桜琴に問いかけた。
「怒ってません! あたしは残念ながら彼氏はいません。もう三年もいませんよ」
「……残念ながら私もいませんよ」
一生は嬉しそうに笑っている。目が宝石みたいにキラキラ輝いている。
「え? 神谷田さんに彼女がいない……? は? 嘘ですよね?」
「ふふ、どうしていると思うんです? それに仕事のためだとしても、彼女がいたらこんなことしませんよ。え〜と、なんでしたっけ? 貴方が言った『彼氏(仮)』でしたっけ?」
「だって普通にモテそうじゃないですか……」
「桜琴さん、私はね、そういうのはいいんです。自分の好きな女性からだけモテたいんです」
サトが話していた内容は嘘ではないらしい。
桜琴は少し嬉しくなった。一生に現在彼女はいない。奇跡だと思った。
彼女(仮)でも護衛対象でもなんでもいい。少しでも一緒にいたい。桜琴は笑った。自分は単純だと思わざるを得ない。
夜の風が一生の白銀の絹のような髪で遊んでいる。
桜琴はこの不思議な世界を少し歩く。
一生が近くで自分を見ている。視線を感じる。
今だけは二人だけの世界だ。
身体全体で夜風を感じながら、軽やかに言葉を風に乗せた。
「いいですよ、じゃあ、ここでは彼女(仮)で!」
「なんだか今夜は桜琴さん、怒ったり、笑ったり、忙しいですね」
桜琴と夜に会うのは二回目だ。あの時は泣いていた。だけど今、目の前の桜琴は愉しげに笑っている。思わず、一生の顔も綻ぶ。
「あたし、ここにいる間は彼女(仮)を頑張りますから」
「頑張るって何をですか」
「うふふ、みんなに嘘がバレないようにです」
桜琴は初めて酔った。ほろ酔いだ。好きな人といるのは楽しい。
笑っていると一生と目が合った。
またこの瞳だ。桜琴を捕らえて離さないゆらめき。そのゆらめきが今日は月でさらに明るく照らされていて、揺れていた。
「さ、桜琴さん、酔ってますよね?」
一生の声だけが桜琴の頭に響く。もう手水鉢の水音さえ聞こえない。
「酔ってませ〜ん」
「はいはい、桜琴さん、もう中に入って休みましょう」
一生が手を差し出した。
桜琴はその手をそっと握りしめて、屋敷の中へと戻った。
部屋でシャワーを浴び、桜琴は水を飲んだ。水を飲みながら楓にメッセージを送った。
お湯に浸かったわけでもないのに、さっきのことを思い出すとのぼせた。桜琴はそのまま布団を頭から被った。
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