第25話 恋愛初心者
拓実は着替えを持って、一生の前に立って二人を見ている。拓実のその瞳の奥からは何の感情の色も読み取れない。
一生が慌てて桜琴から離れる。
「な、何をしてるかって、何もしてない。これは桜琴さんの身体が怪我してないか、確認してただけだ」
一生が真顔で拓実に無茶苦茶な言い訳をする。
「あ、そうなんだ。で? 桜琴ちゃん、怪我してなかったの?」
拓実が淡々とした様子で質問してきた。
「……怪我はなかったが、髪がだいぶ傷んでしまったな」
一生が申し訳なさそうに桜琴の髪を見ながら、拓実に報告する。
「え? 髪、傷んじゃったの? 大丈夫?」
拓実がぼーっとしている桜琴の頭を触る。とても優しい触れ方だった。桜琴は一点を見つめ、何も話さない。心ここにあらず、といった感じだった。
「だから今日はお団子ヘアだったんだね。戦いの事は源次から少し聞いたよ。大変だったね」
拓実が桜琴の頭を撫でた。桜琴はまだぼーっとしている。放心状態だ。
「一生もありがとうね。源次から話はちょっと聞いたんだけど、また夜にでも詳しく教えてくれる?」
「あ、ああ。もちろんだ」
「あのさ、それで一生の部屋の露天風呂、借りにきたんだけど、もしかして邪魔?」
「そ、そんな事はない。ただ仕事をしていただけだ。もう桜琴さんの健康チェックは終わった」
一生が必死に誤魔化す。今は誰にも知られたくない。
(桜琴さんを抱きしめ、キスしようとしてたのが、山名や、姉さんにばれたら何を言われるか、たまったもんじゃない)
「あ、そうなんだ。一生は薫さんから医学知識もらってるもんね。羨ましいよ。俺なんか薫さんと二人になったら、好きしか言われないもん」
拓実が困ったように笑っている。
どうにか誤魔化せたか、と一生は安堵した。
「桜琴ちゃん? ねぇ、さっきからなんにも話さないけど、どうしたの?」
拓実の端正な顔が桜琴に近づき、大きな目で心配そうに見つめている。
「……な、なんでもない。つ、疲れただけだよ……。あたし、部屋に戻るね」
桜琴は一生の顔も拓実の顔も見ずに、そそくさと自分の部屋に戻った。
桜琴は自分の和室に戻り、面倒くさいが部屋着に着替えて、セミダブルベッドに寝転んだ。
水玉のワンピースは薫から借りたものなので、そのまま寝転ぶわけにはいかなかった。
着替えや、化粧品などは楓が準備してくれて、先程、実家から持ってきてくれたらしい。
(楓姉、会いたかったな。今度会ったら、色々話したい……。あとで連絡しよう)
桜琴は天井を眺めた。まだ心臓がバクバクしている。
——さっきのあれはなんだったんだろう……? あんな急に抱きしめられて、びっくりした。仕事だ、健康チェックって言ってたな……。あんなにきつく抱きしめたのは、怪我してないか、確かめただけ? あんなに顔を近づけたのも、目の中とか、口を怪我してないか調べてたの? 確か薫さんから医学知識もらってるって……、薫さんはあんな診察をするのかな? ちょっと独特の人だったから、そうなのかもしれない。拓くんも淡々としていたから、見慣れてるんだろうな。やっぱり、あれが神谷田流の健康チェックなんだ。
桜琴はため息を吐いた。
大混乱している。
——じゃあ、最後にあそこまで顔が近づいたのはなんでなの……? キ、キスされるのかと思った。でもよく考えたらおかしくない? 神谷田さんがあたしにキスをする理由が見当たらない。
桜琴はそれについて考えるのをやめた。大企業の御曹司、あのルックス、女には不自由していないだろうと。自分なんかを相手にはするわけがないと思った。
護衛が必要な女性はいつも、神谷田さんの家にしばらく泊まるのかな、部屋は隣で? そしてあの変わった健康チェックを受けるのかな、それは嫌だと桜琴は心底思った。
一生は寝ているみたいだった。拓実は一生の部屋に付いている露天風呂に入っている。大浴場は別にあるが、広すぎて落ち着かない。
——さっきのアレ、なんだったんだろう。どう見ても……。一生は桜琴ちゃんを好きなのかな。あんなに慌てて、変な一生だったな。初めて見たかも……、面白い。
拓実は顔を綻ばせて、お風呂から上がり、全身が映る鏡で自分の身体を見た。
(寝込んでる間に少し痩せたな。またしっかり筋トレ頑張るか)
拓実は鏡を見て、上腕二頭筋を強調し、ボディビルのポージングを真似した。
一生はソファで横になって目を瞑っていた。少し寝たいが神経が高ぶって眠れそうにない。
——桜琴さん、逃げるように慌てて出て行ったな。そりゃ、そうだよな。二人になっていきなりがっついて……。はぁ、自分が情けない。物事には順番があるのに、全てすっ飛ばして、あんな……。
一生はやるせない気持ちでいっぱいだった。
——桜琴さん、びっくりするぐらい、小さかったな。壊れちゃいそうで、でも柔らかくていい香りがして、……ああ、いかん、いかん。こんな思考では。桜琴さんの気持ちも無視して、全てを無視してまた突っ走ってしまいそうだ。いかんいかん。これは仕事だ、任務だ。
桜琴の手が一生の背中を包んでいた。拒絶はされてなかった。その気持ちが嬉しかった。あの小さな手の温もりがまだ背中に残っていた。
一生はまだしばらく余韻に浸っていたかった。
夕食の時間になった。家政婦たちが忙しそうに走り回っていた。一生の部屋にお茶を運んでいた家政婦が、桜琴を夕飯に呼びにきた。
名前は『サト』というらしい。現在七十二歳で、若い時に旦那さんを病で亡くしてから、ずっと住み込みで、家政婦として三十年以上働いているらしい。薫や一生が生まれる前から働いていることになる。
「桜琴様、何か困ってらっしゃる事などがありましたら、遠慮なくおっしゃってくださいませ」
かなり小柄だが、姿勢もまっすぐで、シワ一つない割烹着を身につけ、身綺麗にしているサトは、話し方や、笑った顔が上品で桜琴の祖母に少し似ていた。妙な親近感が湧くのはそのためかもしれない、と桜琴は思った。
「特に困った事はないです。こんなによくして頂いて、本当にありがとうございます」
桜琴はサトに礼を言った。しばらくサトと歩いているが、まだ食堂にたどり着かない。一体食堂はどこなのだろう。
「あの食堂はまだなんですか?」
桜琴は少し不安に駆られてサトに訊ねた。
「大食堂は一番奥のお部屋になります。坊ちゃんはここにいらっしゃる時は皆様でお食事をされますから。明るい雰囲気がお好きなのでしょうね」
「……そうなんですね。あたしは神谷田さんの事、よく知らなくて、いきなりご家族に会うのは緊張します。できれば、一人で部屋食でも全然構わないんですが……」
桜琴は一生の親にいきなり会うことに躊躇っていた。自分は護衛対象であって、家族の食事に交わるのはどうか、でも仕事って言っていたから会う必要があるのか、わからなかった。健康チェックの方法といい、その家にはその家のルールがあるのかもしれないと思った。
「旦那様と薫様は別にお住まいです。ここには忍びの者と私たち、家政婦しかおりません。ふふ。御安心なさいましたか?」
サトは桜琴の心を見透かしたように笑う。
そして桜琴を見て、まるで孫に話をする祖母のように微笑んで、なおも話を続けた。
「でも私はとても嬉しいんですよ。なんせ、坊ちゃんは今まで一度も、女性をこの屋敷に連れてきたことがないんですから。桜琴様が初めてですよ」
サトの言葉に、桜琴は信じられない気持ちでいっぱいになった。神谷田さんは外デート派なのかなと思った。付き合ったら、きちんと家族にも紹介しそうなタイプに見えるが……。自分をすんなり屋敷に入れた……。桜琴は女性対象外で、護衛対象らしい。
「え? そうなんですか! でもあたしは数に入りませんよ。護衛の仕事の都合で部屋も隣なので……」
サトは桜琴を見てイタズラっぽく笑った。こういう仕草もどことなく、祖母に似てるな、と桜琴は思った。
「これはまぁ……。ふふふ、坊ちゃんも苦労します。一つ申し上げますと、坊ちゃんは女性不信です。まぁ、まず自分から下手に接触はしません。とても聡明な方ですからね……。あ、大食堂に着きましたよ」
女性不信? モテすぎて、色々あったのだろうと桜琴は想像した。そして自分はめちゃくちゃ接触されている。やはり女性扱いではなく、護衛対象扱いなのだと確信した。
ただ、それでもいいと思った。彼を見ているだけでも十分幸せなのだから……。
五十畳はありそうな、大きな座敷に着いた。忍びの人たちも何人か座っている。
座卓にはすでに豪華な料理が並べられている。
「あ、桜琴ちゃ〜〜〜〜ん、こっち、こっち!」
一番奥のテーブルで拓実が手を振っている。源次と山名もいた。
桜琴は拓実の隣に座った。桜琴の左隣は誰も座っていなかった。
桜琴の前には源次が座っていた。源次の横には山名が座っている。三人ともスウェットに着替えているところを見ると、もうお風呂に入ったらしい。拓実はピンクのパーカーがよく似合っている。
「桜琴ちゃん〜、桜琴ちゃんと一緒に夜ご飯が食べれるなんて、こんな日が来るなんて俺は嬉しいよ〜! やった、やった! うえ〜い!」
拓実のテンションがやたら高いと思ったら、ビールをジョッキで飲んでいた。
「桜琴様、こんばんは。今夜はご馳走ですな〜」
山名が座卓に並べられたご馳走を見て、瞳をキラキラさせている。
「……こんばんは」
源次は相変わらず、あまり話さない。
「皆さん、こ、こんばんは」
桜琴が緊張しながら挨拶する。お風呂に自分も入ってきた方が良かったのかな、と思ったが、泣いた後、面倒だが、メイクはやり直した、ここに来る時に服もまた部屋着から着替えた。来たばかりの場所ですっぴんになれる勇気がない。
このテーブルには現在男の人しかいない。これは逆ハーレム状態だ、と桜琴は思った。初体験である。
そこに少し髪が濡れたままの一生が来て、桜琴の左隣に座った。
急いでお風呂に入ってきたのか、濡れた銀髪が色気があり、シャンプーのいい香りが桜琴の鼻をくすぐった。白いスウェットパーカーの上下は拓実とお揃いだろうか?
「桜琴さん、少しはゆっくりできましたか……?」
先ほどの抱擁はまるでなかったかのような、一生の態度に桜琴は落胆した。
自分は護衛対象だとわかってはいるが、好きな男性の一語一句、振る舞いが気にならないと言えば嘘になる。
しかし、桜琴を見つめる一生の瞳の奥には今までとは違う、ゆらめく何かがあるのに桜琴は気づいた。それが桜琴に一直線に絡みついて脳内で暴れる。
身体が熱くなり、桜琴の心臓がうるさくなり始めた。
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