第24話 重なる思い
一生の胸の中で桜琴は思い切り泣いた。涙が
——神谷田さんはずっと抱きしめてくれてる。温かい……。髪も撫でてくれた。恋人がいたらこんな感じなのかな、こうして自分が辛い時に抱きしめてくれて、理解してくれる。神谷田さんだからなのかな。この安心感……。大きな手にゴツゴツした指。太い腕。サラサラの銀髪。落ち着いた香り。
身体も
桜琴だって、ずっとこんな温もりが欲しかった。寂しい夜もあった。
(……あ、神谷田さんの服、びちゃびちゃだ……)
桜琴の涙で一生のシャツは水溜まり模様ができている。
桜琴は我に返り、一生の腕の中から慌てて身体を起こす。
「あ、あの、神谷田さん」
「一生です……」
「で、でも神谷田さんはすごい大企業の専務で、こんな立派なお屋敷に住んでて、あたしとは、そ、その世界が違いすぎるっていうか、そんな人を名前で呼ぶなんて……」
「……名前で呼ぶのに、そういうの関係ありますか? 私も貴方と同じ、一人の人間ですよ。ただの人間」
一生が少し寂しそうにむくれた。
「……わかりました。……じゃあ、二人の時だけそう呼びます。い、一生さん……。すみません! 甘えて泣きまくった挙句、お洋服を涙で汚してしまいました。ごめんなさい! クリーニング代は支払います」
桜琴は頭を下げた。
「はは、かまいませんよ、こんなの。それより、少しはスッキリしましたか?」
一生は些細なことだ、とばかりに笑っていた。
「は、はい。心が軽くなったって言うか、ずっと我慢ばかりしてたんだなって……」
桜琴は心臓あたりを両手で押さえ、高鳴る鼓動を感じていた。
——正直、あたしはこの人の全部が好きだ。顔も、声も、手も、髪も何もかも……。動き一つ一つを目で追ってしまう。この気持ちはなんて言えばいいか、わからない。こんな気持ちは初めてで、ずっと心が燃えているみたいだ。
「それは良かった。これからはご自分のしたい事を……、言いたい事を言っていいんです。もう何も我慢なんてしなくていいんです……」
一生が穏やかな表情で話す。
桜琴は胸が熱かった。佐一の事も好きだったが、こんな感じではなかった。佐一は幼い頃から一緒にいて、すごく楽しかったから、安心できるから、ずっと一緒にいたいと思っていた。もちろん佐一にもときめくことはあったが、ここまでではなかった。
「ただ我々が、私がもっと早くに、この状態に気付くべきでした。そのことは心からお詫び申しあげます。桜琴さん、貴方に辛い思いをさせてすみません」
一生が深々と頭を下げた。
「そ、そんな、頭を上げてください」
桜琴は恐縮した。
「これからは、私が桜琴さんを守ります」
一生は精悍な顔つきで断言した。
桜琴はその姿に心が痺れた。
「はは、疲れましたね。とりあえず、お茶でも飲んで一息入れませんか? 私は鹿児島の知覧茶が好きでして……」
一生はポットの湯を急須に注いでいる。一生が知覧茶が入った湯呑みを桜琴の前にどうぞ、とそっと置いてくれる。桜琴は頭を下げた。
一生の事は、ただずっと見ていたい。ただ側にいたいと思う。
桜琴は自分のこの気持ちを持て余してる。
この間知り合ったばかりで、神谷田製菓の御曹司、そして何やら物怪のようなものと戦っている。そして超能力みたいな力がある事だけ。何が好きなのか、嫌いなのか、本は読むのか、好きな音楽は何か。
彼女はいるのか、どんな恋愛をしてきたのか、それすら知らない。
ただ、誠実で、謝る時には絶対に譲らないこと。そして仕事熱心で、優しいこと。
それだけは知ってる。
桜琴はお茶を飲んでいる、一生の身体を眺めた。
——大泣きしてる時は平気だったけど、さっきまで神谷田さんの腕の中にいたんだよね。思い出すと恥ずかしい。でも、あんなに強く抱きしめられたら、髪を撫でられたら……あたしは勘違いしてしまう。ちょっと期待してしまう自分がいる。
『……離れません、これは私の任務ですから』
任務……。桜琴は一生の言葉を思い出し、少し悲しくなった。
——期待しても仕方がない。そうだよね。仕事だ。あたしが一人で暮らすとか、無人島を探す、とか意味不明なことを言ったし、泣いたからだ。護衛の仕事に支障が出るもんね。やっぱり神谷田さんは大人だ。優しいから気を遣ってくれたんだ。ただそれだけだ……。
桜琴は湯呑みを手に取り、一口お茶を飲んだ。ほっとする味わいだった。
何かを思い出したように、一生が急に桜琴の両肩を掴んできた。真剣な目つきだ。
「あ、あの桜琴さん、話が」
「な、なんですか!?」
桜琴の心拍数が急上昇した。
「私と源次の狼の姿、あれは神獣っていうんですが、人間があんな姿になって怖いとか、受け入れられないとかないですか?」
一生は恐る恐る、桜琴に問いかけた。
桜琴は目を冷やしているが、瞼はまだかなり腫れている。
「……本当の事、言ってもいいんですか? 神谷田さ……、いや、一生さん、引くかもしれません……」
それだけ話して桜琴が湯呑みをテーブルに置いて、俯いてしまった。
——うわ……。この感じはまた元婚約者の時みたいな、……そんな感じか? 気持ち悪いとか、臭そうとか、食べられそうとか、私は無理です、動物園で狼として暮らした方がいいですよ、とかそんな感じか?
一生は項垂れた。言わなきゃよかったと思った。
その時、意を決したように、桜琴が顔を上げて話を始めた。恥ずかしそうだ。
「あ、あの、正直、すごく羨ましいというか……。あたしもあんなふうに神様みたいな狼になりたいなって……」
一生は予想外の答えに目が点になった。
「そ、それで、できたら、今度、また見たいです。だ、だめですか? あ、あの間近で見て、ふわふわの毛や、尻尾とか肉球を触ってみたり、じっくり宝石みたいな眼を観察したり、狼の匂いも知りたいし、抱っこしてみたいなぁ、なんて……。あ、大きさ的に抱っこは無理か」
桜琴は楽しそうに瞳をキラキラさせて話していた。一生は心の中の何かがすごい速さで満たされていくのを感じた。
「あんな強い狼が戦って、この町を守ってたなんて信じられない! もうびっくりですよ〜」
桜琴は目を細めて嬉しそうに笑った。偽りのないとても綺麗な瞳だった。
「あたし、今まで散々、色々あったけど、そのおかげであんな綺麗な狼たちに出逢えて、自分の人生、捨てたもんじゃないな、って思ったん……。え…!?」
次の瞬間、桜琴は一生にまた抱きしめられていた。密着度が先程より高い。
「ちょ、一生さん。どうしました?」
桜琴の戸惑っている声が聞こえる。
「嬉しすぎる……。山名の言うとおりだった……」
桜琴の耳元付近で一生の声がする。一生は感極まって掠れ声だ。
「え? や、山名さん? 一生さん、え? な、泣いてます?」
桜琴はいきなりの抱擁に狼狽えている。一生にはそんな声すら頭に響く……。
さらに強く桜琴を抱きしめた。小さくて華奢な身体だ、折れてしまいそうだと一生は感じた。だけど柔らかくて温かい。離したくない。誰にも渡したくない。ずっとこうしていたい。
一生は誰かを抱きしめて、こんな気持ちになったことは一度もなかった。
「い、一生さん……、ど、どうしたの……?」
一生はもうどうしようもなく、桜琴が愛おしいと感じた。
こんな恋は一生に一度だと思った。代わりなんていない。いらない。
一生は桜琴の顔を見た。桜琴も真剣な眼差しで一生を見ている。桜琴の潤んだ瞳が揺れている。
桜琴の唇を見た。綺麗な唇に触れてみたい。その気持ちが止められなかった。
桜琴もいつの間にか一生の背中を抱きしめていた。
一生が桜琴の顔に手を当て、自分の顔を近づけた。
二人の間に流れる時間の流れだけが、急にゆっくりになった気がした。それに反比例して、心拍数は速くなっていく。
唇と唇が重なり合いそうな距離だった……。
その時、ドアがノックされ、誰かが入ってきた。
「一生〜、ねぇ露天風呂貸してよぉ〜!」
拓実だった。
咄嗟の事で動けなくて、抱き合ったままの一生と桜琴を拓実が見ている。
「……ねぇ、二人は何してるの?」
拓実はあっけらかんと言い放った。
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