第5話 謝罪しなきゃ気が済まない
一生は考えていた。なぜ、この饅頭女は挨拶しないのかと。普通、自己紹介されたら、すぐ返すのが普通だろうと。
桜琴はイケメン二人を前に、混乱し固まってしまっていた。二人が眩し過ぎるのだ。
窓から差し込む太陽の光が、なお一層、二人を輝かせる。
拓実がコップを置いた。二杯目の水も飲み終わっていた。
その音ではっと我に返った桜琴は、自己紹介する。
「あ、私は甘山桜琴といいます。ここの娘です」
「甘山さんって、なんかさ、いい匂いがしてきそうな名前だね〜」
拓実が桜琴に眩しい笑顔で言う。
名前でイジられるのは慣れているが、鶴山さんの大きな目で、自分の目を直視されながら言われると、耐え難い。すぐに逸らす。桜琴の顔は赤いままだ。
「桜琴さん、素敵なお名前ですね」
神谷田さんのハスキーボイスも、桜琴の耳の最深部まで届き、何度もリピートされている。そんな魅力的な声だった。桜琴は耳まで赤くなった。
「それにこのお店、和モダンというか〜、すごくオシャレ!」
拓実は周りを見渡して言う。
「あ、どうもありがとうございます。でも古い建物なんで、補強やリフォームも何度もしてるんですよ」
桜琴が答える。
「へぇ、そうなんだ。後で饅頭買って帰ろっと!」
ショーケースの方を見ながら、楽しそうに拓実が笑う。
「んん、甘山さん、実は話というのは、私たちには大したことではないが、あなたたち店側には、大変申し訳ない事をしてしまったんです」
一生が咳払いをしながら、切り出した。
「その件については、店主である父か、代理で母が聞いた方がよろしいかと……。もう少しかかりそうですが、お時間大丈夫ですか?」
桜琴が一生に尋ねる。
「今日は昼から仕事に行きます。それまでは大丈夫なのですが、お話、桜琴さんではダメでしょうか? そんなに難しい話でも、長い話でもないので……、聞いていただければ……。とりあえず、桜琴さんも座ってください」
一生がそう言うので、桜琴は一生の目の前に座る。
(ぎゃあぁぁぁ。耐えられん。こんなイケメンらの前に座って、顔を見ながら話なんて。心臓よ、あたしの心臓よ、落ち着くんだ)
「実はうちの猫が昨夜逃げてしまい、探していたら、窓から御宅に入って行くのが見えまして、声をかけたら、すぐこちらに戻ってきてはくれたのですが、台に乗ったり、走ったり、厨房を汚してしまいました。これはその……、清掃費です」
一生が胸元のポケットから封筒を出してきた。
——えええ、あれ、猫なの? どう見ても犬科だったけど、黒狼みたいな猫?
「そ、その猫って何色ですか?」
桜琴が訊ねる。一生は怪訝そうな顔をしながら、
「黒ですよ。ボンベイです」
平然と答えた。
黒豹のような体格で、目はゴールド系の深い色だ。アメリカから生まれたら五キロぐらいしかない。
——こ、この人、あの黒狼を猫だと言い切るつもりだ。それにやっぱり、夜中の事、覚えてるじゃない。そりゃそうよね。あんな外来種? あんまり人に知られたくないよね。
「本当にすみませんでした。どうかお納めください」
一生と拓実が頭を下げて、封筒をさらに、こちらに近づけてくる。
——でもきちんと謝りに来てくれたんだ。いい人だな。ペットの事、大事に思ってるんだな。こういう人なら、飼養等の許可も取ってるんだろうな。犬狼? 狼犬? も案外大人しかったしな……。躾もきちんとしてるんだ。あの時はお腹が空いていたんだね……、きっと。
桜琴は一生を正視した。こんないい人からお金は貰えない。
「お金は受け取れません。たいしたことじゃないですし。朝も隣の猫が入ってきて掃除して、消毒もしたんで。窓を開けてた、うちも悪いし……。それにこうして、わざわざ謝罪にまできていただいて、そのお気持ちだけで結構です。」
桜琴はそう言い、封筒を一生に返す。
「いえ、うちのボンベイが本当に悪さをしたんで……、私の気が済まないので、どうか受け取ってください、お願いします」
一生が懇望してくる。封筒を両手で持ち、頭を下げ、渡そうとしてくる。
(断りづらいなぁ……)
仕方なく、桜琴は封筒を受け取る。なかなかにぶ厚い。
「ご確認を、それで足りなければ、おっしゃってください」
一生にそう言われて、失礼します、と言い、桜琴は封筒の中を見た。
(…………、なによこれーーー!!! 三十万は入っていそうだ!! この人のお金の価値観どうなってんの……?? え? お金持ちなの?)
桜琴はさっきもらった名刺を見た。
(えーと、『神谷田グループ・製菓部門専務』え? あの神谷田だったの!? めちゃくちゃ、大企業じゃん。毎日のようにCMやってるよね)
「やはり足りないでしょうか?」
一生が不安げにこちらを見てくる。
「い、いえ、とんでもない額ですし、やっぱり受け取れません!」
桜琴は一生に封筒を返した。一生が残念そうな顔をする。
「……ではどうしましょうか? こちらとしても気がすみませんし……」
「いいえ、本当にこうして来て頂いただけで、十分です」
「あ、あのっ!」
ずっと黙っていた拓実が、突然立ち上がり、テーブルに手を突き、桜琴に顔を寄せてきた。
(え、なになに、ち、近い……!)
桜琴の心拍数が上がって、頬に赤みがさす。大きな目が真剣に桜琴を見ている。
(な、何か案が浮かんだのかな……?)
「あの、ト、トイレ! トイレはどこですか???」
拓実は排泄欲求が限界だと、今にも漏れそうだと、声から焦りが見て取れる。
「あ、あぁ、トイレですね」
桜琴は立ち上がり、トイレの場所を案内した。
拓実はびっくりするような速足で、トイレに入っていった。
「ふふ、ふふふ……。うちの鶴山がすみません、限界まで我慢してたんでしょうね。もう、あいつは本当に純粋無垢というか、裏表がないというか……」
一生が笑い出した。なんだか、この重苦しい空気が和らいだ気がする。
「桜琴さん、一つ提案なのですが、今いらっしゃる、お客様が帰られたら、こちらのお菓子を全て、うちで買い取らせていただけませんか?」
「え、そんな……! 申し訳ないです」
桜琴は顔の前で手を左右に振り、断る。
「うちで日頃、頑張って働いてくれている、スタッフたちにも、甘いもので疲れを取ってほしい。つまりはスタッフたちへの差し入れですよ。私が買い物をするのは自由ですよね?」
イタズラな笑みを浮かべる。その整い過ぎた顔で、その表情は狡い。
「お買い上げ、ありがとうござぁいま〜す!!」
母が隣に立っていた。いつからいたのかびっくりした。
全商品のお会計。なかなか大変な作業である。桜琴も会計を手伝おうとしたが、お客様のお相手を引きづづきしてほしい、といわれた。
「あ、あの〜、このお店に、すんごい塩のパンチが効いた、塩味しかしないお饅頭ってありますか? 俺がそれ買いたいんで、それは全て俺に売ってください」
トイレから戻り、一生から説明を受け、状況が理解できた拓実が、母に大声で訊いた。
その言葉にピンときたのは桜琴である。
(あのお饅頭の事だよね? え? あれ食べたの? 大丈夫だったの??)
「な、何を言ってるんですか、鶴山くんは。喉が渇き過ぎて、夢でも見てるんじゃないですか。まあ、お水でも飲みましょうか?」
一生が笑顔で、拓実に水を勧めている。
(こ、こら、莫迦か、拓! 莫迦な発言はやめろ。あれが売り物のはずないだろ。あれは殺人兵器だ)
「うふふ、うちは和菓子屋ですから、そのような物はちょっと……、販売はしておりませんねぇ。もう少しね、お会計に時間がかかりそうですが、いいですか?」
母が笑顔のプロ接客でかわす。
「ええ、構いませんよ。こちらこそ、無理を言い、すみません」
一生が母に言う。
「何をおっしゃいますやら。全部売れる。こんな嬉しいことはないんですよ。本当にありがとうございます」
母は満面の笑顔だ。
「それは良かった、きっちり支払いまでしてから帰りますね」
一生が水を飲む。安心した表情だった。借りを返せたと思ったのだろう。
拓実は何やらスマホを見ている。さっきから、メッセージが入ってくる音がしていた。
安堵した様子の、そんな一生を見て、桜琴も何も考えずに言ってしまった。黒狼の心配もあったせいだった。
「あ、あの、神谷田さんのペット、あのお饅頭食べてないですよね? 大丈夫ですよね?」
一生の表情が固まった——
一生のこめかみから、嫌な汗が出る。心臓が速くなる。
——あのお饅頭? 食べた? 大丈夫? なんだ、それは……!! 何を言っているんだ? 私は言ってないぞ。饅頭の事は!! もしかして、記憶があるのか? 今まで一度もそんな事はなかった……
一生が酷く動揺した様子で桜琴に言った。
「君は……まさか記憶があるのか……?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます