第3話 僕は彼女に呪われてしまった。
それから間も無く訪れた晩秋、医者は彼女がもう長くないことを告げた。日に日に弱々しくなる彼女を見ていると、言われずともそうであると理解させられた。
その日、僕は医者から今晩が峠だと伝えられた。僕の心臓は、思っていたよりずっと落ち着いていた。
いつものように、彼女の側に腰掛けて手を握った。弱い力で僕の手を握り返して、彼女は僕の顔を見た。
「……悲しい顔」
「……」
「ふふ、嫌でも分かっちゃうわね」
僕が苦い顔をするのを見て、彼女は寂しそうに笑った。平静を装ったつもりだったが、彼女には全てお見通しだった。
「折角だから……思い出話でもしようかしら。そうね……楽しいことが沢山あったわ……大劇場の特等席で観劇したり、霊魂祭の花火を見たり、一面の向日葵畑をあなたと一緒に歩いたり……」
「ああ」
「でも一番は海よね……海に行ったのが楽しかった……ナターシャと三人で、誰もいない海で遊んだの、楽かったわね……! アレキが生まれてからも、一度だけ海を見に行って……もう一度、行きたかったわね」
「……そうだね」
彼女は目をキラキラさせながら語った。僕の頭の中にも、彼女と共に過ごした光景が鮮やかに思い出された。在りし日の彼女や娘たちの姿は、まるで昨日の出来事のようだった。
「あとはね……結婚式。ヴィティ、あなたが初めて私に言ったこと、よく覚えてる……あの時私、あなたのこと、言葉が雑になるけど……ヤバい人だと思ったのよ」
「……その件はすまなかった」
「いいの、それも全部、私の素敵な思い出だわ」
彼女は嬉しそうに表情を緩めながら語った。僕は在りし日の僕のあまりにも痛々しい行動に、思わず目線を逸らした。僕にとっても、それはあまりにも強い記憶だった。
「もっと楽しいことがしたかったわ……もっと楽しいことができた……」
「……」
「……ずうっと一緒に、いたいわねー……」
彼女は僕の顔を見て、力無く微笑んだ。僕は何も言えなかった。言葉が喉に詰まって、出てこなかった。
「あのね、私……ちょっとだけ……ほんの少しだけ、この『呪い』に感謝してるのよ。お陰であなたと出会えたんだもの」
「……すまない。君は僕と一緒にならなければ、もっと楽しい人生が送れていたかもしれないのに」
「もう……! あなたっていつもそうね」
「……」
「……あ、そうだわ。私のお願いを聞いてくれる?」
僕はこの時どんな酷い顔をしていたんだろうか、彼女は寂しさを取り繕うように満面の笑みを浮かべた。彼女は僕の手を取って愛おしそうに自分の頰に当てた。指先に彼女の体温が伝わるのが分かった。
「……私がいなくても、あなた……生きてね、終わりが訪れるその日まで、しっかり生きて」
きっと、この時僕は今にも死んでしまいそうな表情だったのだろう。彼女は弱々しく――それでも強く僕に言った。ただ頷く僕を見つめて、彼女は続けた。
「そして、私がいなくなっても、私じゃない人を愛さないで。私以外の人を好きになったらダメだからね、約束よ」
「……ああ」
「……うふふ、私は我儘で意地悪だから。私以外の誰も愛さずに、私だけを愛して……ずーっと、永く永く、私のことを想って生きて。分かった?」
「分かったよ」
彼女は悪戯っぽく笑った。僕は彼女はそれなりの時間を過ごしたと思っていたが、それでも今の彼女は初めての表情だった。僕の返事を聞いて、彼女は満足気に目を細めた。
それから、沢山の話をした。僕の人生の「言葉」を全て尽くすくらいに話をした。あまりにも短くて、長い時間だった。頰に当てていた僕の手を名残惜しそうに離して、彼女は深く息を吸い込んだ。
「……うっふふ、あはは!」
不意に、静かな部屋に笑い声が響いた。彼女は天井をじっと見つめ、その貧弱な拳を突き上げた。
「勝った……! 勝ったわ、私! この『呪い』に、勝ったわ! 私、幸せだもの、この上なく、幸せだもの! 私の勝ちよ! あははッ! はぁ……ざまあ見やがれ……っ!」
「勝利宣言」は力強く、高らかに響き渡った。強く握った拳は小さく震えていて、裾からは酷く痩せ細った腕が覗いていた。それでも僕は、その拳が精悍な武人に見えた。
彼女は「呪い」を吐き捨てるように嘲った後、少しまた笑って、再び深呼吸をした。暫く呼吸の音が続いた後、人生の全てに満足したようにぐったりとベッドに身体を預けた。
彼女は娘たちを呼び寄せた。
「ナターシャ、愛してるわ」
十歳のナターシャは最後まで母を心配させないよう、弱い姿を見せなかった。彼女はナターシャの短い髪に触れて優しく頭を撫でた。
「アレキ、愛してるわ」
五歳のアレキサンドラは相変わらずあまり理解していなさそうで、ただただ弱った母親を心配して眉を下げていた。彼女はアレキサンドラの柔らかな頬を撫で、少し申し訳なさそうに目を細めた。
「……ふふ……ヴィティ、愛しているわ」
彼女の最後の言葉だった。
彼女は僕の手を握り、幸せそうに微笑んで、そう言った。
それから間も無く、彼女は息を引き取った。
ずっと気を強く持っていたナターシャは、堰き止めていたものが決壊したように、彼女に縋り付いてぼろぼろ泣いた。アレキサンドラはその隣に立ち尽くして、起きない母親をただずっと不安そうに見つめていた。
そこら中から彼女を囲む啜り泣く声が聞こえた。医者が何やらと話す声が聞こえた。人々が慌ただしく動く中、僕はただ彼女の側の椅子に座っていた。
気がつくと、部屋には誰もいなかった。どれだけ時間が経ったのだろうか――僕は一人、彼女の眠る顔を眺めていた。
彼女の最後の言葉の後から、僕はまるで心がなくなったように何も感じなかった。何も思わなかった。何も温度がなかった。目の前で流れていく出来事が、他人事のように俯瞰で見えた。
「愛してるよ」
ふと声がした。僕の声だった。
「あ」
眉を顰め、僕は自分の口を手で覆った。
溢れ出すものが止まらなかったからだ。
「愛してる、リーリヤ、愛しているよ」
そう伝えたら、彼女はどんな顔をするだろうか。嬉しそうに笑うだろうか、はたまた驚いて涙してくれるだろうか。意外と冷めた顔で僕を見るかもしれなかった。
もう彼女が笑うことはなかった。涙することはなかった。冷めた顔をすることはなかった。
零れた言葉たちは全て、何も意味がなかった。
「……愛してる、愛して……う、あ……愛してるんだ」
初めから全部分かっていたはずだ。
認められなかった――怖くて不安で、ずっと目を背けていただけだ。今になって溢れて止まらないのは、もう怖がることも、不安になることもできなくなったから、それだけだ。
僕はずっと、彼女の温もりを、光を、愛を一方的に享受するだけで、何一つと返さなかった。何も愛せなかった。それを自覚した途端、胸の中がどろどろと重く冷たい、取り返しのつかない後悔でぐちゃぐちゃになった。
取り返しがつかなくなってから、今更こんなに言葉を紡いでもどうしようもなかった。全てが遅すぎた。
「ゔ、ぐ……っ、愛してる、ずっと、僕も……っ愛してる」
それでも喉から出る言葉は止まらなかった。年甲斐もなく大粒の涙が溢れて止まらなかった。もう届くわけない言葉は、ただただ埃のように僕の心に後悔を積らせるばかりだった。
初めての気持ちだった。こんな気持ちは知りたくもなかった。もっと早く伝えていれば、もっと違う気持ちを知ることができた筈なのに、もう二度と機会は訪れない。全部遅すぎたのだ。
涙と嗚咽で何も分からなくなっても、僕はただ泣きながら愛を紡いだ。あまりにも長すぎる時間だった。
彼女が残したのは、呪いだった。
彼女のいない世界は――もう二度と彼女の声がしない、もう二度と彼女の笑わない、もう二度と彼女に触れられない世界は、ただ毎日僕の後悔を降り積もらせる日々だった。
僕の世界から色が失われた。居なくなってから、世界が鮮やかだったことに気がついた。もう二度と色づくことのない灰色の世界で、僕は今までどうやって呼吸をしていたか分からなくなった。
それは彼女が居なくなって早々に訪れた。どうやっても耐えられなかった。僕は簡単なことだけ書き連ねた遺書をしたため、首を括った。
『生きてね』
縄に首をかけた瞬間、彼女の声がした。もうどこにも居ないのに。
もうどこにも居ないという事実が僕を苦しめるのに、彼女の声は僕が彼女の居ない世界から消えることを許さなかった。
飛び降りようと窓から身を乗り出した。大量の薬を服用しようとした。油を被って火をつけようとした。胸を貫こうと短剣を掲げた。その度に、彼女は僕に『生きてね』と言った。その度に、僕の手は震え全身から汗が吹き出し、僕は成し遂げることができなかった。
僕は呪われてしまった。我儘で意地悪な彼女は、僕を呪った。もう二度と解けることのない呪いをかけたのだ。
この呪いは、僕がこの苦しみから楽になることを許してくれない。遺書を書いては燃え盛る暖炉に投げ入れた。僕の後悔が尽きることはなく、僕の命が尽きることもない。
僕は、この呪いに生かされている。
ナターシャは母親に似て美しく艶やかな、母親に似ず控えめで大人しい少女になった。感情が分かりやすく、いつも困り眉でぎこちなく微笑んでいる。
アレキサンドラは幼くして次期国王としての教育を受け、日々勉学と鍛錬に明け暮れている。人の顔色をよく窺い体面を繕うところは僕に似て――いや、僕よりも上手く、何を考えているのかいまいち読めない子だ。
最近は、娘たちと私的な会話をすることが殆どない。僕たちの会話は業務的で儀式的なものばかりだった。
それでも、僕は特にアレキサンドラにこっぴどく言い聞かせていることがある。
「アレキ、王として……決して他人を信用してはいけない。常に全てを疑いなさい」
僕はアレキサンドラが幼い頃から何度もそう伝えた。僕は娘に自分と同じ道を歩んで欲しくなかった。
だから、必ずこう付け加えるのだ。
「……それでも、その人を信じて良いと思ったら。信じたいと、愛したいと思ったなら、必ず『好き』を伝えなさい。『愛してる』を伝えなさい」
アレキサンドラはまたそれをよく分かっていないのか――それとも僕の言葉の「含み」を察しているのか、少し間をおいて「はい」とだけ答えるのだった。
これは贖罪ではない。そんなことをしても、彼女が僕を赦すことはないのだから。これは罪悪感ではない。僕の後悔は一生晴れることがないのだから。
僕は生き続ける。呪いが僕にそうさせる。僕は僕が終わるその瞬間まで、長い苦しみと彼女への想いを紡ぎ続ける。
それが、彼女が僕に残した呪いだ。
――――
「……思わず長話をしてしまった。すまないね」
僕はグラスに注がれたワインを少し口にした。味の良し悪しはあまり分からない。僕は酒が好きではないので、僕にとって酒類は須く「別段美味しくはない」ものだ。
それでも、どうしてか今晩は飲みたくなった。口がよく回るのはきっと酔っている所為だろう。ソファに腰掛けながら、瓶の酒をもう一杯グラスに注ぐ。
「いえいえ、陛下の秘密のお話……すごく光栄ですよ」
「……ふ、どうしてだろうね。君になら話してもいいなと思ってしまった……」
僕の目の前で、彼は僕の話にキラキラと目を輝かせた。暖炉の暖かさがその頰をほんのり火照らせて、子供っぽくも妖艶にも見えた。
「陛下は今でも、奥様のことを愛していらっしゃるのですね」
「……どうだろうね」
向けられた純粋無垢な瞳に、僕は視線を逸らした。ワインを一口嗜む。あまり自信がなくて大層なことが言えない僕を見て、彼はくすくすと笑った。
「……全部お顔に出ていますけど」
「……」
そっけなく答えたつもりだったが、表情が緩んでいたらしい。決まりが悪くなって口をもごもごさせてしまったので、彼ににんまりと微笑まれた。
「……愛しているか、は……何とも言い難い、が」
彼を見て、何故だか彼女を思い出した。彼の笑顔はリーリヤの笑顔によく似ているような気がした。だから話してしまったのかもしれない。僕の秘密をぶち撒けても、その胸が清々しいのはきっとそうだからだ。
「もし時間を巻き戻せるのなら――僕は必ず、彼女に『愛してる』と言う。彼女が飽きるくらい、僕の人生の全てを尽くして、『愛してる』を伝えるよ」
僕がそう言った声は、思ったよりもはっきりと僕の耳に聞こえた。
グラスに残っていたワインを飲み干す。不意にぐらりと視界が揺らいだ。急激な眠気に瞼が重くなって、僕はテーブルにグラスを置いて頬杖をついた。
「ああっ、陛下! そのあたりにしておきましょう、お身体を悪くされます」
「……ふ……くく、慣れない酒をいきなり飲むものではないな……」
「今夜はもうお休みになってください、ね?」
彼の肩を借りて、なんとかベッドに辿り着いた。倒れ込むように横になる。慣れない酒に長い思い出話、普段言わないことを言ったからか、酷く疲れていた。身体が鉛のように重く、すぐに眠りについてしまいそうだ。
情けなくぐったりと倒れ込んだ僕を見て、彼は目を細めて微笑んだ。僕はその姿を彼女に空目した――が、それが虚像であることは分かっていた。
彼女はもういないのだから。
「……おやすみなさい、陛下。良い夢を」
微睡の中、足音が遠ざかって、扉が閉まる音が聞こえた。
意識が途切れるその直前まで、僕の頭には彼女との日々の記憶が流れていた。幸せな日々の記憶が流れていた。
――――
重たい雲で覆われた曇り空の日だった。
明るいわけではないが薄暗いわけでもない。祝福を受ける日としては相応しくないわけではないが、なんともじめっとした嫌な空気の日だった。
僕は堅苦しい軍服を身に纏って、大聖堂の扉の前に立っていた。扉の向こうは荘厳な空気だが、小さなざわめきも聞こえる。僕はこの窮屈な軍服は好きではないので、思わず眉間に皺を寄せた。
ふと、向こうから足音と布が擦れる音が聞こえた。僕は音のする方を振り返った。
「あっ」
僕はあの日の場所に立っていた。
美しい黒い髪が純白のドレスによく映えていた。纏め上げた髪がこめかみの辺りから一房垂れているのが、艶やかでまるで絵筆で描いたようだった。
僕は思わず走り出していた。
「リーリヤ!」
張り裂けるような声。既に嗚咽が混じっていた。いきなり名を呼ばれた彼女は驚いて少し後退りをした。
僕は構わず彼女の手を取った。
「……っ愛してる! 僕は、君のことが好きだ!」
涙でぐちゃぐちゃになった必死の形相に、彼女はその赤い瞳を不安で揺らした。それでも構わなかった。今伝えないと間に合わないと思った。
「本当に、……大好きだ、愛してる……! 愛してるんだ! ずっと、ずっと……!」
「えっええ……あの、えぇ……ん? ずっと⁉︎」
彼女は僕を不審なものでも見るような目で見ていた。あの時彼女は僕を「ヤバい人かと思った」と言ったが、今の僕はその意味は違えど、紛れもなく「ヤバい人」だろう。
それでも僕は内側から込み上げるものを抑えることができなかった。自分の中を駆ける衝動に立っていることができず、僕はぼろぼろ泣きながらそこにへたり込んでしまった。
「本当に……心から愛している……好きで好きで、愛してる、愛してるんだよ……」
「そういうのって、普通もっとお互いを知って、愛を深めてからでは……」
「……ふふ、本当だ……いや……そうか、そうだった……はは……」
腰が抜けたみたいに座り込んでいる僕を見て、彼女は困惑した様子で僕を見下ろした。あの日の困惑とは全く違っていた。先程まで泣いていたのに何だかおかしくなって、僕は涙が止まらないまま笑い出した。
そんな僕を見て、彼女は隣にしゃがみ込んだ。訝しむような、小動物が何かに興味を示すような目で僕の顔を見て、我儘で意地悪な声色で言った。
「……面白い人」
彼女はそう言って笑った。僕も笑った。
困惑する人々を他所に、僕たちはただ笑い続けた。
あまりにも幸せな夢だった。
僕は、この夢がいつまでも醒めなければ良いなと思った。
A prayer for you who has overcome the curse 須賀雅木 @ichimiya131
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